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日本と世界の歴史散策


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ブックシェルフ-2 OWL のひとりごと

vi )世界に正しく伝えたい英語対訳で読む美しい日本の「こころ」

2012.12.29




世界に正しく伝えたい英語対訳で読む美しい日本の「こころ」
荻野文子監修、Elizabeth Mills 英文監訳 二〇一一年十月 実業之日本社


確かに目からウロコの日本再確認。ただ改訂の必要あり


 日本的なものがすべて古めかしいと否定する時代はとっくに終わった。日本文化の特徴は美意識だと誰かが言っていた。本著は英語で日本を表現するとどうなるかという興味を満足させるばかりでなく、読者が日本とその美意識を再確認できる内容だ。実にうまくまとまっている。一気に読めた。
 ただ注文がいくつかある。英文の行間にある日本語訳がジャマだ。アクセント記号をどこかに付けていただきたい。これらは個人的な意見だとしても重要なのは次の二点である。まず、許容範囲内かもしれないが、おやっと思えるほど誤植が目立つ。もう一つは歴史の通説に関することだ。稲作が朝鮮半島経由で弥生時代に伝わったという通説は、最近の研究の結果として現在否定されている。縄文時代から稲作は始まっており、伝わったのは南からである。他に専門家が見たら誤りがもっとあるかもしれない。だがそれらは改訂すれば良いだけで、この本の良さを否定するものではない。お薦めである。



v )レ・ミゼラブル 25周年記念コンサート

2012.12.26




レ・ミゼラブル 25周年記念コンサート
キャメロン・マッキントッシュ監督、アルフィー・ボー主演、ジェネオン・ユニバーサル、二〇一二年十二月


観て、感動して、泣いて!


 和訳された小説を読んでかなり経つ。作者の力量に驚きつつラストで涙したことを覚えている。傑作だ。その感動をもう一度と映画化されたのを観たことがあるが、いまひとつだった。今回、正直あまり期待せずに、話題になった映画を見る準備としてと思い、本作品を視聴して見ることにした。だが見事に予想を裏切ってくれた。それぞれの歌手、歌詞、メロディ、伴奏、照明、効果、どれ一つとっても素晴らしかった。単なるコンサートと侮るべからず。ミュージカルとは別次元の見事なパフォーマンスを見せてもらえた。特にラストの二曲は圧巻で、画面は涙でにじんでよく見えなかった。信仰を持っている人は祈りそのものに、持たない人でもその精神性の高さに、素直に共感を覚えるものではないかと感じた。あの長編傑作を二時間半にまとめ、別の傑作に創り上げてしまうとは!音楽は素晴らしい。映画は勿論、本物をロンドンで観たいと想いめぐらすほどだった。



iv )すらすら読める英語対訳・幕末維新史

2012.12.26




すらすら読める英語対訳・幕末維新史
木村幸比古監修、Marilyn Lo監訳、祥伝社黄金文庫、二〇一二年七月


 人は興味があればグイグイと引き込まれるものだ。英語が苦手な人でも歴史が好きなら、内容がどんどん入ってくるに違いない。本書は素晴らしい英語教育本である。幕末維新史に関する多数の著書で知られる研究者が監修した。内容は教科書に乗っている通説通りで皆おなじみのもの。細かなところに目くじらを立てずに読むと良い。なるほどこう表現するんだ!と唸ること請け合いである。
 ただ注文が二つある。英文の行間にある日本語訳がジャマだ。欄外脚注の形にするか、それだけ赤い字で印刷し赤い下敷きのおまけをつけるかなどの工夫をしていただけるとありがたい。もう一つはアクセント記号をどこかに付けていただくことだ。音読練習の際に少し不便だ。例はConglomerates(財閥)、Issuance(発布)、Reinstate(復権する)など。それらをキチンとしたアクセントで瞬時に発音するのが苦手な人こそ、この本を必要としているように思う。
 ともあれ、世界に日本の立場を発信し説明する必要性が高まっている。日本史全体の対訳本はあるものの、こうした幕末維新史に特化したような本が、他の時代についても出版されて欲しい。



iii )ふしぎなキリスト教

2012.5.6




ふしぎなキリスト教
橋爪大三郎、大澤真幸著、講談社現代新書、二〇一一年四月


 戦後日本を特徴づけてきた日本国憲法、民主主義、市場経済、科学技術、文化芸術などは、いわばキリスト教というよその家からの養子であるという。ルーツを調べ、キリスト教を理解しないと、本当のヨーロッパ近現代思想はわからない。いまの社会が抱える大きな困難を乗り越えることもできない。「キリスト教をわかっていない指数」があるなら、日本人がトップになるだろうと著者二人はよく話していたとのこと。もともと日本はキリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にあった。無理もない。そこで二人は対談を行なうことにした。基礎を何も知らない人が抱く素朴な疑問、既に多くの知識を持って考えてきた人にとっても本質的な疑問を、一方が挑発的な質問者となってぶつけ、他方が答える形式をとった。
 キリスト教の不思議について沢山の質問が出される。例えば、なぜ全知全能のGodが造った世界に悪があるのか。直接語れば良いものを、なぜ預言者を通して語ったのか。科学との矛盾をどう理解するのか。イエスは神なのか人なのか。なぜユダヤ教やイスラム教が世界の標準とならなかったのか。なぜ東方教会ではなく西方教会が普遍性を持つに至ったのか。なぜ予定説のプロテスタンティズムで人びとが勤勉になったのか。なぜプロテスタントの熱心な信者が自然科学の創始者となれたのか。主権、人権、近代民主主義など宗教色を脱した概念自体が、実はキリスト教という宗教の産物ではないのか。本当の無神論とはいったい何か、などなど。
 素朴な質問に対して、社会科学の側面から一定の答えを与えている。総じて知的好奇心を満足させている。だからこそ新書大賞を獲得し二十万部以上も売れた。日本人を相対化している点でも参考になる。例えば次の通り。「救われたいと心底願うには、この社会が間違っていると思っていないといけないんですよ…たとえば、いまの家に満足しているのに引っ越しなんて考えないじゃないですか。仮住まいで不満があって嫌で嫌でしょうがないから、どこであれ引っ越ししたいわけですよ…日本人は現状に満足していて」「救われた状態に憧れが持てない」と。確かに、日本人はキリスト教抜きでけっこう安定した幸せな社会を築いてきた。いろいろ不満は言うものの、今の社会が嫌で嫌でたまらないとは考えない。「日本人の考える無神論は、神に支配されたくないという感情なんです。『はまると怖い』とかも、だいたいそう…そのぶん自分の主体性を奪われるから。日本人は主体性が大好きで、努力が大好きで、努力でよりよい結果を実現しようとする。その努力をしない怠け者が大嫌いで、神まかせも大嫌い。と考える人びとなのです」と。神まかせの怠け者とキリスト教徒にレッテルを貼りがちな一部の日本人の特質をよく言い表している。
 信仰と科学をどう扱うかという点で、福音派の考え方に言及しているところも興味深い。福音派とは、聖書の中の奇蹟や荒唐無稽な話も何らかの形で事実だったのではないかと受け入れようとする少数派である。「日本では…福音派を馬鹿にする傾向がありますが、わたしに言わせれば福音派の考え方は、多数派のキリスト教徒とある意味そっくりです」「多数派は聖書を話半分と考える。福音派は科学を話半分と考える。結論は反対になるけれども、考え方は瓜二つ。きわめつけの合理主義なのです」「宗教も科学も、矛盾なく信じることができます」と。これと正反対なのが日本人だ、と橋爪氏は次のように言う。「進化論…現人神…教わる側は、学校の教えることは正しいからと両方ともまる暗記する」「日本人は、自分が矛盾したことを信じていると、気がつかない」「こう考えるなら、日本人に、福音派の人びとを馬鹿にする資格はないんです。福音派の人びとは、矛盾律を理解して、それに合わせて自分を律している。日本人は、矛盾律なんか気にしてない。矛盾律以前の段階だ」と。確かに日本人は独特の原始宗教的感覚を持ちながら、自分は非科学的な宗教をいっさい信じないと主張する。この矛盾した姿勢は合理主義的ではない。
 最後に残念な点を挙げよう。社会科学の立場からすると無理もないが、キリスト教は人が作った宗教にすぎないとしている。Godの歴史への介入は人間が考え出したもので、本当かどうかなどは問わない。信仰の本質にはほとんど触れず、「これはメッセージなんです。イエス・キリストが生まれ、十字架で犠牲になったことが、神からのメッセージだと思えるなら、キリスト教徒です」と書いてある程度。そもそも、人生の意味や素晴らしさ、神と人格的に出会って生まれ変わること、救いの喜びなどは全く取り扱っていない。日本人がGodの関与を嫌い続ける限り、イエスと共に生きる人生の素晴らしさは味わえないだろう。知識は人のたましいを救わない。この本を読んですでにキリスト教はわかったと思う方がよっぽど怖い。そういう気がしてならない。
(2000文字)



ii )朝鮮人六〇万人奴隷になる 〜史実小説〜

2011.8.15


冒頭写真右:
ソウル三田渡にある大清皇帝功徳碑。丙子胡乱の和議を結んで建立させられた。屈辱碑と言われ、日清戦争後に清の冊封体制から抜け出した際に埋められた。しかしその後掘り起こされたりするなど紆余曲折を経て現在に至っている。
冒頭写真左:
ホンタイジ(清太祖)に土下座する李氏朝鮮国王仁祖の銅版。


朝鮮人六〇万人奴隷になる 〜史実小説〜
チュ・ドンシク著



 満蒙軍が明を滅ぼし李氏朝鮮に臣従を求めた。李朝国王はこれを拒み清に制圧される。その戦いを丙子胡乱という。一六三六年は秀吉による文禄・慶長の役の少し後である。清軍が帰路につく時、五〇万人の捕虜が漢江を渡り六〇万人が瀋陽に連行された。蒙古への捕虜も加えるとさらに多い。当時朝鮮の人口は約一千万人。何と全人口の六%以上が戦争捕虜となった。
 朝鮮人捕虜の生活は凄惨を極めた。厳冬下、二千里以上歩かされ、鞭打たれ、奴隷市場に売られた。清の人々は、男女を問わず衣服を剥いで健康かどうか調べて奴隷を買った。人々は皆希望を失い、泣き叫ぶ声が通りに溢れ返っていた。本書著者は、当時の資料を土台にし朝鮮の人々の受難の歴史を語る。朝鮮女性キム・プンナム、賤民男性キル・ヨンボクなど、下層階級の人物を登場させて生き生きと表現した。史実小説と副題がついている所以だ。これが強制連行である。日本の加害者性を強調する例の話とはワケが違う。後者の犠牲者?は奴隷ではない。全員が賃金を支払われていた。大多数が自分の意志で海峡を渡った。比べるなら、在日コリアンの扱われ方は冗談としか思えないほど人道的だ。
 李朝は清に、金銀・牛馬などの他、美女三千人を毎年献上することになったという。本書著者は、ある人権セミナーの結論で語る。韓国は十七世紀にも清の要求に従い、自国民を供出するかのように、毎年(女性を)数十人ずつ献上していた国だ。時代が変わったとはいえ、このような国で今さら人権を手に入れることができるのだろうか、と。これも慰安婦や性的奴隷だろう。同情を禁じえない。どの時代のどの国であっても犠牲者は存在した。なのに日本人の加害者性を一方的に強調し、人々は「従軍慰安婦」問題だけ取り上げる。強制連行と同様、残酷な日本を印象に残そうという意図から出ている。しかし彼らはまず、半島のこういった二世紀半の歴史から学び直すべきだろう。
 なぜ半島は清への隷属から抜け出し、露南進策の犠牲とならずに済んだか?日清日露戦争で隣国が命懸けで戦ったからだ。どのように文明国家へ歩み出すことができたか?清に隷属した二世紀半によってか、日本の一部となった約三五年間によるのか?隣国は多額の血税を投入して半島の近代化に尽力した。迷惑だったろう。露の餌食となるほうがマシ?だが全体像を無視し日本だけ非難するのはいかがなものだろう。フェアな歴史認識が真の友好の基礎になる。



i )下流社会 新たな階層の出現

2010.3.28


下流社会 新たな階層の出現


三浦 展(あつし)著、2005年9月、光文社新書、780円



 経済的にであっても社会的にであっても、自分がどの階層に属しているかなど全く関心がなかった。意識もしていなかった。自分が他の人たちの階層意識を調査することなども絶対にないだろう。


 でも、日本社会の現状や将来の行く末を考える上で、日本人の全体像を誰かが分析してくれなくては困る。かつて「一億総中流」だった日本人が今ではどう変化しているのか。それは何故なのか。これからどのように変わっていくのか。


 自分の置かれた場所でどのように人々とつきあって行けばよいのか。どのようにして日常生活で行動し、どのような政治的意見を持つべきなのか。社会学、社会心理学だけにとどまらない、大きな影響を持つことが予想される。


 世は格差社会なのだそうだ。平等、機会、教育、学力、コミュニケーション、ジェンダー、結婚、労働、生活、消費、経済、年収、就職、雇用、転職、リストラ、ニート、フリーター、貧困、ひきこもり、パラサイトシングル、メンタルヘルス、社会階層、多くのキーワードが躍る。


 本著では、階級意識、階層意識の調査を通して消費動向、マーケティングを分析した結果が綴られている。その中で、「中流意識」の終焉と「下流社会」という新たな階層集団の出現を描いている。


 著者がいう「下流」とは、食うや食わずの困窮生活をしている「下層」とは違う。「中流」に比べると何かが足りない、「中の下」のことである。


 「では『下流』には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが『下流』だ」と述べる。


 筆者は「下流社会」の具体像を描くために、国民の生活の詳細、特に消費や生活のスタイルを知ることにした。階層意識別に消費行動やライフスタイルを調査した。そこから三十代を中心とする若い世代の「下流化」傾向が浮かび上がってきた。


 階層意識は単に所得や資産だけでなく、学歴、職業によって規定される。親の所得、資産、学歴、職業なども反映した意識である。そればかりでなく、その人の性格、価値観、趣味、幸福感、家族像などとも深く関係しているという。


 筆者によると「下流」とは、単に所得が低いことにとどまらない。次のように解説する。


 「コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い」「所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ」と。


 これまでの日本社会は、全体として上昇気流に乗っていた。上をめざせば何か素晴らしいものがあると、誰もが期待していた。しかし、気がついて周りを見渡すと、みんながそこそこに豊かで、それが当たり前の世の中になった。


 若者は、山の上に欲しいものなどなく、七合目にもたくさんのものが溢れていると感じ、苦労して頂上まで登ろうとしなくなった。努力しなくてもそこそこ生きられる。だらだら生きていても生きられる。


 若者がこれから生きてゆく社会は、上昇気流に乗っているときとは明らかに違う。「極端にいえば、わずかのホリエモンと、大量のフリーター、失業者、無業者がいる」「社会全体が上昇をやめたら、上昇する意欲と能力を持つ者だけが上昇し、それがない者は下降してゆく」と。


 「階層格差が広がっているという。所得格差が広がり、そのために学力格差が広がり、結果、階層格差が固定化し、流動性を失っている。あるいは『希望格差』も拡大している」という背景のもと、著者は「下流社会」という自身による造語を本書で紹介した。


 そして、上昇志向か現状志向かを一つの軸とし、仕事志向か趣味(専業主婦)志向かをもう一つの軸として、男性と女性をそれぞれいくつかのグループに類型化している。


 女性では、上昇志向と仕事志向がともに高い「ミリオネーゼ系」(脚注1)、上昇志向と専業主婦志向が強い「お嬢系」、現状志向と専業主婦志向が高い「ギャル系」、現状志向と仕事志向が目立つ「かまやつ女系」(脚注2)、どれも中位な「普通のOL系」の五類型をあげている(上図)。





 男性では、上昇志向と仕事志向がともに強い「ヤングエグゼクティブ系」、上昇志向と趣味志向を示す「ロハス系」(脚注3)、現状志向と仕事志向が高い「SPA!系」(脚注4)、現状志向と趣味志向の強い「フリーター系」の四類型をあげている(下図)。





 それぞれの類型で、所得、学力、階層が明らかに分かれていくことになるだろう。


 女性では「ミリオネーゼ系」が高学歴、高収入の男性と出会う機会に恵まれ、経済的にも教育的にも「中の上」の階層を次世代へと引き継ぐことになる。逆に「ギャル系」「フリーター系」は、格差が固定化する傾向が存在する。


 「下流」の階層を特徴付けている意識は何か。筆者は、「自分らしさ」を求める傾向、「個性を尊重した家族」志向、「自己能力感」だとしている。次のように解説する。


 「『自分らしさ』『自己実現』を求める者は、仕事においても自分らしく働こうとする。しかしそれで高収入を得ることは難しいので、低収入となる。よって生活水準が低下する。そういう悪いスパイラルにはまっているのではないか」と。


 「個性を尊重した家族」については、団塊世代のうち階層意識が「中の上」の男女に多い家族像であったという。「いわゆる友達親子的なスタイルが、団塊世代の『上』から団塊ジュニア世代の『下』に伝播したのではないかと思われる」としている。


 「自己能力感」とは、「自分は人よりすぐれたところがある」という意識だ。自己能力感のある生徒ほど学校外での学習時間が短い傾向にあり、高い学歴を求めず、現状志向的な価値観が強いのだという。


 自分らしさ派は、人より自分はすぐれていると感じ、自分らしさという夢からいつまでも醒めることなく、人とのコミュニケーションを避け、社会への適応を拒む傾向が強い。その結果、未婚、子どもなし、非正規雇用のまま年をとり、階層意識も生活満足度も低い状態となるのだという。


 学問的な仕事ではない。有意差検定も全くなされていない。著者もそれを認めている。仮説としての表現には注意深く「?」をつけている。だが、この本が提起している問題は深刻である。


 このまま放置していて良いのか?パラサイトシングルの子を持つ親は、定年後もずっと働き続けなくてはならないと覚悟を決めているという。「下流社会」の一部の若者は、労働、税金納付、年金負担、医療保険負担などを通して社会に貢献することなく年をとってゆく。


 逆に、生活保護を受けるようになったり、メンタルヘルスの課題を抱えることも多くて医療費がかかったり、税金を投入しなくてはいけない存在となってゆく。「下流社会」の子どもも学習の機会を奪われ、そこから抜け出せなくなってしまう。まさに「希望格差」である。


 処方箋やいかに?著者は巻末にいくつか提案しているが、残念ながらまともに読めた内容ではない。今後どのような社会を実現してゆくのか、日本の政策決定に深く深く、重く重くのしかかわっている。


 本著は八十万部以上も売れたという。だが、今後どうするのかという提言の本が登場し、それが百万部以上売れるようになってもらいたい。そう思うのは私だけだろうか。




<脚注>


1)「ミリオネーゼ系」:学力が高く、職業志向の強い女性、主に四年制大学を卒業した女性が、企業の中で総合職のキャリアウーマンとなり、男性と同じ賃金で働くようになった。こうして1000万円以上の年収を稼ぐ女性を「ミリオネーゼ」という。この語は、「Six Figure Women」の翻訳、「ミリオネーゼになりませんか?」を出したディスカバー21という出版社の造語。
2)「かまやつ女系」:専門学校などを出て、美容師、ペットトリマー、菓子職人などの資格職種、デザイナー、ミュージシャンなどのアーチスト系を目指すタイプ。一般的には「手に職系」、ファッション的には「ストリート系」と呼べるが、ファッションの特徴から、著者の三浦 展が「かまやつ女系」と名付けた。
3)「ロハス系」:いわずと知れた「Lifestyle of Health and Sustainability」(健康で持続可能な生活様式)、スローライフ志向のグループである。比較的高学歴、高所得だが、出世志向は弱い。ヤングエグゼクティブ系に対しては「教養がなくて暑苦しい奴」と内心軽蔑しているという。
4)「SPA!系」:雑誌「SPA!」の主要読者と思われる「中」から「下」にかけてのホワイトカラー系の男性。特に勤勉でも、仕事好きでもなく、才能もないが、フリーターになるようなタイプではなく、仕事をするしかないので仕事をしているというグループ。





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