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日本と世界の歴史散策


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千字でたどる日本の教会史 近世三百年編 ザビエルから織豊時代まで 
OWL のひとりごと


第三十三回 小西行長は平和の徒か?

第三十二回 キリシタン武将らの唐入り

第三十一回 四少年の帰国

第三十回 武力か?信仰か?

第二十九回 伴天連追放令

第二十八回 奴隷売買の責めは誰に

第二十七回 右近改易と九州征伐の狙い

第二十六回 困った人コエリヨ

第二十五回 侘び茶とキリシタン

第二十四回 細川ガラシアたま

第二十三回 名医曲直瀬道三の入信

第二十二回 黒田官兵衛受洗とその影響

第二十一回 秀吉政権誕生と諸侯の改宗

第二十回 教会保護政策の反動

第十九回 信長の暴挙と本能寺

第十八回 天正遣欧少年使節(2)

第十七回 天正遣欧少年使節(1)

第十六回 信長の世界戦略

第十五回 信長の政教分離政策の功罪

第十四回 信長による教会庇護

第十三回 フロイスの日本史

第十二回 ヴァリニャーノの適応主義

第十一回 ヴァリニャーノの日本人論

第十回 高山ジュスト右近の祈り

第九回 愛すべきオルガンティーノ

第八回 日本嫌いのカブラル

第七回 真の武士高山ダリオ友照

第六回 出でよ!現代の琵琶法師

第五回 キリシタン大名大村純忠

第四回 大友宗麟の生涯

第三回 ルイス・デ・アルメイダ

第二回 佳き後継者トーレス

第一回 失意のザビエル

33)小西行長は平和の徒か?(慶長の役) 2012.9.7


『朝鮮戦役海戦図屏風』/昭和16年前後/太田天洋


一五九七〜一五九八年のできごと


 秀吉は明が降伏したと思い込む。明は秀吉服従の報を受けた。小西行長は偽りの降伏文書を作った。明は日本王の称号を授ける冊封使(さくほうし)を派遣。秀吉は怒る。当然、講和は決裂。自分も騙されたとしたのか、行長の責任は問われなかった。先導を約束した朝鮮が背いた。それが秀吉側からの見方だった。朝鮮は憎悪の対象となった。一五九七年、裏切り者への懲罰戦が始まる。慶長の役だ。特に前回抵抗が激しかった全羅道への報復が目的となった。今回地元民が女子どもも決起してゲリラ戦に出た。彼らを殺戮した。鼻を削いだ。捕虜を日本に連れ帰り、奴隷商人に売り払った。前戦役では、国元で仕事に励むよう命じ、反抗しなければ殺さなかった。今回は対照的だ。
 行長は和平派だ。評価が高い。だが彼は敵側に情報を流していた。その外交が第二次出兵の原因を作った。秀吉には面従腹背(めんじゅうふくはい)。国書を偽造した。できもしない講和が破綻。結局、朝鮮が裏切ったと秀吉に思わせた。その責任は誰にあるのか。また在鮮将兵の苦しみをよそに、秀吉は能と茶の湯ざんまい。主戦派の加藤清正以外の諸侯はみな厭戦的。秀吉を実質的に裏切っていた。その死による終結だけを願っていた。ならば政治の漂流が惨禍を拡大したのか。
 翌年八月、秀吉が死去。同年十一月に全軍撤収。明史は「秀吉の出兵が始まって以来七年、十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算は無く、ただ関白が死去するに至り乱禍は終息した」と評した。このあと明は滅亡する。女真(じょしん)族が後金(こうきん)を建て清と国号を改める。朝鮮は清に屈辱的な服属を強いられた。六十万人以上が奴隷として連行される。冊封体制(さくほうたいせい)を脱するのは日清戦争後である。
 鼻そぎと耳塚は日本人の残酷さの象徴とされる。しかし別の事実も記さないと公平さを欠く。生きたまま鼻を削ぐ蛮行は、慶長の役で不穏民衆を一揆として討伐した際に限られていた。朝鮮側も日本兵から切り取った左耳八二五個を王へ送った。また、日本兵の首には賞金が掛かっていた。そのため朝鮮領民の首なし死体が続出した。朝鮮明連合軍の偽首狩りの犠牲となった。戦功の証しにと持ち帰った敵兵遺体の一部。その供養の証拠が京都にある耳塚である。他方朝鮮で、内蔵がえぐり出されるなどして日本兵遺体は陵辱(りょうじょく)された。その供養碑はないようだ。当時の倫理観では領土拡張戦争は必ずしも罪悪ではない。日本悪しの結論だけに捉われていないか、気をつけた方が良いだろう。






1)冊封使(さくほうし):明や清など王朝の天子と近隣諸国の長が取り結ぶ君臣関係と外交関係を冊封と呼んだ。周辺国の国王が交代して即位する際に、皇帝はそれを認める勅書を携える人物を近隣諸国に派遣した。その人物を冊封使と呼んだ。
2)行長の責任は問われなかった:共謀者のかたわれ沈惟敬は、明に捕まり処刑された。
3)自分も騙されたと…朝鮮は秀吉の憎悪の対象となった:秀吉側からは次のよう見える。朝鮮は唐入り先導の約束を破り明と組んで反抗するなど、とんでもない二枚舌だ、と。
4)全羅道への報復が目的となった:一五九七年二月二十一日朱印状には、作戦目標として「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ」と書かれてあった。
5)彼らを殺戮し…奴隷商人に売り払った:こうした残虐行為の原因を作った張本人が行長だと言えなくもない。
6)自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。「明史・朝鮮伝」
7)冊封体制(さくほうたいせい):明や清など王朝の天子と近隣諸国の長が取り結ぶ君臣関係と外交関係を冊封と呼び、その外交システムを冊封体制と称した。
8)生きたまま鼻を削ぐ蛮行:生きたままの鼻そぎなど残虐行為が両戦役を通して行われたと語られがちだ。しかし、上述のごとく全羅道で慶長の役に限られていた。当時でも、非戦闘員の殺戮や残虐行為は禁止されていた。ゲリラ戦では、古今東西、悲惨なことが起こる。南京事件しかり、ベトナム戦争しかり、朝鮮戦争しかり。
9)戦功の証しにと持ち帰った敵兵遺体:当時、戦功の証しとして首を持ち帰るのが一般的だった。日本でも朝鮮でも明でも。遠方だったため鼻や耳で代用した。


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