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千字でたどる日本の教会史 近世三百年編 ザビエルから織豊時代まで
OWL のひとりごと
第三十三回 小西行長は平和の徒か?
第三十二回 キリシタン武将らの唐入り
第三十一回 四少年の帰国
第三十回 武力か?信仰か?
第二十九回 伴天連追放令
第二十八回 奴隷売買の責めは誰に
第二十七回 右近改易と九州征伐の狙い
第二十六回 困った人コエリヨ
第二十五回 侘び茶とキリシタン
第二十四回 細川ガラシアたま
第二十三回 名医曲直瀬道三の入信
第二十二回 黒田官兵衛受洗とその影響
第二十一回 秀吉政権誕生と諸侯の改宗
第二十回 教会保護政策の反動
第十九回 信長の暴挙と本能寺
第十八回 天正遣欧少年使節(2)
第十七回 天正遣欧少年使節(1)
第十六回 信長の世界戦略
第十五回 信長の政教分離政策の功罪
第十四回 信長による教会庇護
第十三回 フロイスの日本史
第十二回 ヴァリニャーノの適応主義
第十一回 ヴァリニャーノの日本人論
第十回 高山ジュスト右近の祈り
第九回 愛すべきオルガンティーノ
第八回 日本嫌いのカブラル
第七回 真の武士高山ダリオ友照
第六回 出でよ!現代の琵琶法師
第五回 キリシタン大名大村純忠
第四回 大友宗麟の生涯
第三回 ルイス・デ・アルメイダ
第二回 佳き後継者トーレス
第一回 失意のザビエル
33)小西行長は平和の徒か?(慶長の役) 2012.9.7
『朝鮮戦役海戦図屏風』/昭和16年前後/太田天洋
<一五九七〜一五九八年のできごと>
秀吉は明が降伏したと思い込む。明は秀吉服従の報を受けた。小西行長は偽りの降伏文書を作った。明は日本王の称号を授ける冊封使(さくほうし)を派遣。秀吉は怒る。当然、講和は決裂。自分も騙されたとしたのか、行長の責任は問われなかった。先導を約束した朝鮮が背いた。それが秀吉側からの見方だった。朝鮮は憎悪の対象となった。一五九七年、裏切り者への懲罰戦が始まる。慶長の役だ。特に前回抵抗が激しかった全羅道への報復が目的となった。今回地元民が女子どもも決起してゲリラ戦に出た。彼らを殺戮した。鼻を削いだ。捕虜を日本に連れ帰り、奴隷商人に売り払った。前戦役では、国元で仕事に励むよう命じ、反抗しなければ殺さなかった。今回は対照的だ。
行長は和平派だ。評価が高い。だが彼は敵側に情報を流していた。その外交が第二次出兵の原因を作った。秀吉には面従腹背(めんじゅうふくはい)。国書を偽造した。できもしない講和が破綻。結局、朝鮮が裏切ったと秀吉に思わせた。その責任は誰にあるのか。また在鮮将兵の苦しみをよそに、秀吉は能と茶の湯ざんまい。主戦派の加藤清正以外の諸侯はみな厭戦的。秀吉を実質的に裏切っていた。その死による終結だけを願っていた。ならば政治の漂流が惨禍を拡大したのか。
翌年八月、秀吉が死去。同年十一月に全軍撤収。明史は「秀吉の出兵が始まって以来七年、十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算は無く、ただ関白が死去するに至り乱禍は終息した」と評した。このあと明は滅亡する。女真(じょしん)族が後金(こうきん)を建て清と国号を改める。朝鮮は清に屈辱的な服属を強いられた。六十万人以上が奴隷として連行される。冊封体制(さくほうたいせい)を脱するのは日清戦争後である。
鼻そぎと耳塚は日本人の残酷さの象徴とされる。しかし別の事実も記さないと公平さを欠く。生きたまま鼻を削ぐ蛮行は、慶長の役で不穏民衆を一揆として討伐した際に限られていた。朝鮮側も日本兵から切り取った左耳八二五個を王へ送った。また、日本兵の首には賞金が掛かっていた。そのため朝鮮領民の首なし死体が続出した。朝鮮明連合軍の偽首狩りの犠牲となった。戦功の証しにと持ち帰った敵兵遺体の一部。その供養の証拠が京都にある耳塚である。他方朝鮮で、内蔵がえぐり出されるなどして日本兵遺体は陵辱(りょうじょく)された。その供養碑はないようだ。当時の倫理観では領土拡張戦争は必ずしも罪悪ではない。日本悪しの結論だけに捉われていないか、気をつけた方が良いだろう。
1)冊封使(さくほうし):明や清など王朝の天子と近隣諸国の長が取り結ぶ君臣関係と外交関係を冊封と呼んだ。周辺国の国王が交代して即位する際に、皇帝はそれを認める勅書を携える人物を近隣諸国に派遣した。その人物を冊封使と呼んだ。
2)行長の責任は問われなかった:共謀者のかたわれ沈惟敬は、明に捕まり処刑された。
3)自分も騙されたと…朝鮮は秀吉の憎悪の対象となった:秀吉側からは次のよう見える。朝鮮は唐入り先導の約束を破り明と組んで反抗するなど、とんでもない二枚舌だ、と。
4)全羅道への報復が目的となった:一五九七年二月二十一日朱印状には、作戦目標として「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ」と書かれてあった。
5)彼らを殺戮し…奴隷商人に売り払った:こうした残虐行為の原因を作った張本人が行長だと言えなくもない。
6)自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。「明史・朝鮮伝」
7)冊封体制(さくほうたいせい):明や清など王朝の天子と近隣諸国の長が取り結ぶ君臣関係と外交関係を冊封と呼び、その外交システムを冊封体制と称した。
8)生きたまま鼻を削ぐ蛮行:生きたままの鼻そぎなど残虐行為が両戦役を通して行われたと語られがちだ。しかし、上述のごとく全羅道で慶長の役に限られていた。当時でも、非戦闘員の殺戮や残虐行為は禁止されていた。ゲリラ戦では、古今東西、悲惨なことが起こる。南京事件しかり、ベトナム戦争しかり、朝鮮戦争しかり。
9)戦功の証しにと持ち帰った敵兵遺体:当時、戦功の証しとして首を持ち帰るのが一般的だった。日本でも朝鮮でも明でも。遠方だったため鼻や耳で代用した。
32)キリシタン武将らの唐入り(文禄の役) 2012.8.30
文禄の役・釜山城攻略『釜山鎮殉節図』
<一五九二〜一五九三年のできごと>
天下統一後、秀吉は「唐入り」に取りかかる。天皇を北京におく。自分は寧波(にんぽう)に移る。天竺(インド)まで版図に収める計画だ。動員した軍勢は三十万人以上。戦国乱世を戦い抜いた精鋭だった。鉄砲の武装率は世界最高。元のフビライや清のヌルハチはもっと少数の兵で中原(ちゅうげん)を制圧した。秀吉の野望もあながち無謀ではなかった。ただし、井沢元彦氏は「秀吉の行為が失敗に終わったことは良いことだ」と書く。満州族は清朝を興し漢人を征服した。だが今では満洲語も満洲文字も失われている。文化的に同化してしまった。もし唐入りが成功していたら?やはり日本文化は漢文化に同化し、日本語も死滅してしまっただろう。
明に討入る。先導せよ。秀吉は朝鮮に命じた。朝鮮側は服属するはずがない。だが秀吉は従うものと判断。一五九二年三月、小西行長、加藤清正が釜山に渡海した。防備を怠っていた李氏朝鮮はあわてて応戦。しかし二ヶ月も経たずに首都漢城(はんじょう)は陥落した。当時、苛斂誅求と身分差別などによって農民も奴婢も困窮していた。王宮は暴徒化した朝鮮民衆によって略奪、放火された。各地で日本軍に協力する者が続出。フロイスも記録した。「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と。秀吉軍は平安道(ぴょんあんど)北部と全羅道(ちょるらど)を除く、朝鮮全土を制圧した。
乱暴な明兵は国土を蹂躙する。そう李朝王家は怖れた。だがやむなく明国に支援を要請。七月、平壌の小西軍は明と初交戦し撃退する。明に備えるため、黒田孝高は分散した兵を漢城にまとめるよう提案。しかし行長は楽観的だった。明の援軍はもう来ない。講和に持ち込む腹づもりだった。八月末、沈惟敬(ちんいけい)が明の使いと称して来た。五十日の停戦が決まる。日本側を油断させた。明は着々と準備を進めた。厳しい冬がやってくる。翌年正月七日、平壌は急襲された。行長軍は撤退せざるを得なくなった。海では李舜臣(りしゅんしん)が日本水軍を一時破った。陸でも最大の弱点である補給を断つ作戦がまんまと成功。日本側は餓死者や病死者を多数出す始末。行長は不利な条件で講和を求めた。部下のキリシタン武将内藤如安(じょあん)を北京へ送る。ようやく両軍は休戦に入る。
小西行長ほか、有馬晴信らキリシタン武将たちは、最前線の第一軍だった。この配置に込めた秀吉の意図もあからさまだという。実際に小西軍の損耗率は六割以上。凄まじかった。
1)文禄の役:実質的な戦闘は天正年間に終結しているが、和議が成立しているわけではなかったため戦いが文禄年間にも及んだとされ、このように呼び慣らわされている。
2)寧波(にんぽう):現在の中国浙江省にある古都で、杭州湾を挟んで上海の南対岸、杭州の東に位置する。その港には、日本、朝鮮、東南アジアと往来する船が多数出入りし、貿易の中心地だった。
3)中原(ちゅうげん):中国黄河中流域一帯のこと。ここを制圧した民族が大陸全域を支配する王朝をうちたてた。
4)防備を怠っていた李氏朝鮮:唐入りを命じられた時の朝鮮側の使節は、正使と副使からなっていた。彼らは帰国後まったく異なる報告をした。「秀吉は攻めてくる」と言った正使に対し、副使は「実際には攻めてこない」と報告。常に派閥争いのさなかにあった宮廷は、今回、副使を送り出した側の派閥が勝った。そして何の準備もしないことを決定。秀吉軍の侵攻を易々とゆるす結果となった。
5)漢城(はんじょう):京城。現在のソウル。
6)平安道:ぴょんあんど。朝鮮八道の一つで、平壌と安州の二都市があることで名付けられた朝鮮半島西北部の地域。
7)全羅道:ちょるらど。朝鮮八道の一つで、全州と羅州の二都市があることで名付けられた朝鮮半島西南部の地域。光州も全羅南道にある。昔の百済と重なり、もともと日本との関係も深かった。半島東南部の慶尚道住民などから極端な地域差別を受けているとされる。漢城へ進むことを急いだ小西軍と加藤軍がバイパスした地域で、後から小早川隆景や安国寺恵瓊が制圧に臨んだ。しかし、明の南下に備える必要が生じて手薄になった。権慄という将軍の働きがあり、義勇兵も多く出た。こうした事情で、文禄の役を通して日本軍の侵攻を防いだ。
8)八道国割:開城陥落後、漢城で軍議を開いた諸将は、制圧目標を決めた。
平安道 小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら
咸鏡道 加藤清正、鍋島直茂ら
黄海道 黒田長政、大友吉統ら
江原道 毛利吉成、島津義弘ら
忠清道 福島正則、長宗我部元親ら
全羅道 小早川隆景、安国寺恵瓊ら
慶尚道 毛利輝元
京畿道 宇喜多秀家
9)乱暴な明兵は国土を蹂躙する:明国内でも民を痛めつけることで有名で、朝鮮半島に呼び込めば、略奪、婦女暴行、非戦闘員の処刑などを通して国土が蹂躙されることは目に見えていた。朝鮮人は日本軍を第一の侵略者としながらも、明兵を第二の侵略者として怖れ嫌った。明の役人も尊大で、食料は言うに及ばず慰安婦まで要求した。
10)李舜臣(りしゅんしん):朝鮮側では英雄視されている。文禄の役では、玉浦の戦い、閑山島海戦などで日本水軍に対し戦果を挙げた。しかし日本側が船に大鉄砲を備え、沿岸の城砦を新設して大筒や大鉄砲を配備。以降は李舜臣の攻撃は成果が挙げられずに出撃回数が激減した。戦間期、元上官だった元均らの嫉みと讒言などにより、査問を受けたり、更迭されたり、拷問を受け、死罪まで宣告された。
慶長の役では、大きな痛手を受けた朝鮮水軍を立て直すため、もう一度再任される。鳴梁海戦で日本側に一撃を加えるも、大きな被害を受けて退却。明朝鮮合同水軍として立て直そうとしたが苦戦が続き、厭戦気分が蔓延。秀吉の死後、退却中の小西軍を海上封鎖し、露梁海戦に至る。この海戦で李舜臣は島津兵の鉄砲で被弾。後に死亡した。島津軍が殿(しんがり)を務めて撤退が完了した。
11)小西軍の損耗率は六割以上:明の反撃と兵糧倉庫の焼討ちなどにより、小西軍の六割以上が戦死、病死、餓死したと言われている。
31)四少年の帰国 2012.8.22
聚楽第屏風図 三井記念美術館蔵
<一五八七〜一五九一年のできごと>
秀吉は伴天連に二十日以内の国外退去を命じた。しかしポルトガル船がすぐに出帆することは不可能だった。コエリヨは秀吉にしばしの猶予を陳情。宣教師たちは平戸に集まり、誰も国外退去とならずに済むよう諮(はか)った。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)の彼らをよそに、秀吉は余裕しゃくしゃくだった。一年二年と経っても、別の布告を出すことはなかった。伴天連残留を黙認していた。松田毅一氏は評している。秀吉はすでに満足だった。もはや生殺与奪の権を握っていると同様のバテレンを、謹慎状態のまま九州の一角に見て見ぬふりをしていることを得策とした、と。
伴天連追放令が出た同じ年だった。天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)はインドのゴアに戻った。ヴァリニャーノは四人とともにマカオに向かい二年以上待機。再来日の許可を得る。一五九〇年六月、一行はマカオを出発。七月半ばすぎ、長崎に到着する。細心の注意を払いつつ対策を練る。十一月下旬、小西行長の所領、播州室津(ばんしゅうむろつ)に到着。秀吉が謁見の許可を容易に与えなかった。そのため滞在は長期化。大勢の諸侯、高山右近、キリシタンの農民、寡婦や遺児たちの訪問を受けた。
翌年三月三日、ようやく謁見が実現する。場所は新築の聚楽第(じゅらくだい)。一行はヴァリニャーノ、四名の使節、二名の司祭、通辞(つうじ)ジョアン・ロドリゲス、修道士一名、商人たちなど合計三十名。内裏の親戚や重臣が列席した。秀吉の前に巡察師は進み出て挨拶。インド副王の親書を奉呈した。貴重な贈物を捧げた。杯のやり取りがあった。食膳が振る舞われた。秀吉は巡察師にさまざまな質問をした。四使節、ことに伊東マンショには愛情を込めて話しかけた。多くの報酬をとらせるのでぜひ予に仕えるようにと勧めた。マンショは固辞。巡察師ヴァリニャーノに特別な恩義があり、忘恩の誹りを免れないので、と。最後は余興の音楽演奏だった。四人はクラヴォ、ハープ、リュート、ヴィオラを奏でて歌った。関白は三度も繰り返させた。
四人を送り出した大名は何処に。有馬晴信以外、大友宗麟(そうりん)も大村純忠(すみただ)も他界していた。晴れの儀式で天下人に迎えられはしなかった。秀吉はキリスト教を容認しない。黙認か迫害か。薄氷を踏むような模索が続いた。この後四人はイエズス会に入会。司祭を目指す。自分たちが見聞きしたことを語ろう。武士の面目をつぶしてはならない。その使命を与えた神の命令に背き、魂を危険にさらしてはならない。決断は理にかなっていた。たとい命を損なうことになるとしても。
1)ポルトガル船がすぐに出帆することは不可能だった:通常ポルトガル船は、南方季節風を使い、七〜八月頃、日本の港に来航した。逆に出航のためには、北方季節風の吹く十一〜十二月を待たねばならなかった。伴天連追放令は一五八七年六月十九日。二十日以内の国外退去は事実上不可能だった。
2)播州室津(ばんしゅうむろつ):兵庫県南西部の播磨地方にある港町。九州、瀬戸内海諸地方から畿内へは、船路でまず室津に向かった。玄関口の一つだった。
3)聚楽第(じゅらくだい):一五八七年九月、京に建設された秀吉の政務庁舎および邸宅。甥の秀次に関白職をゆずった後は、秀次の住まいとなった。一五九五年、秀次は謀反の疑いで切腹させられた。その時、聚楽第も徹底的に破却された。
4)内裏:天皇のこと。
30)武力か?信仰か? ーー同化策宣教師の戦闘性ーー 2012.8.15
レコンキスタの頃のイベリア半島
<一五八七〜一五九〇年のできごと>
コエリヨは順次対策を講じた。まずキリシタン大名に秀吉に対抗するよう呼びかけた。だが有馬晴信と小西行長らは応じなかった。フィリピンに援軍を求めた。だがフィリピン側は拒否。再来日前だったマカオのヴァリニャーノに依頼した。兵隊二〇〇人、食糧、弾薬の持参、スペイン国王へ軍事援助を、と。ヴァリニャーノは驚く。集められた武器、弾薬をすべて極秘裏に売払った。そして強調した。国内の戦争には介入しない。これら無分別で軽率な振舞いはコエリヨの独断だった、と。
コエリヨの独断ではない。高瀬弘一郎氏は指摘する。事実、会議の議事録が残っている。コエリヨ、オルガンティーノ、フロイスら七人が出席。うち六人がコエリヨ案に賛成。フロイスも同意見だった。あくまで長崎を要塞化し教会領を守ろうとした。確かに、弾薬に使う硝石や武器を求める九州諸侯が存在した。かつてキリスト教庇護者への軍事的援助は行われた。だが戦国時代は終焉を迎えた。もはやイエズス会の武力行使は教会の自殺行為となる。ヴァリニャーノには現実が見えたのだろう。
時はポルトガルとスペインによる世界分割の真っ只中。日本は両勢力の境界線にあった。そもそも科学の勃興、地理的発見、貿易圏拡大は何を意味したか。欧州による侵略と植民地化、商人の台頭、伝道戦線拡大だった。国家、商人、教会の利害は一致。歴史家は言う。キリシタン禁制はイベリア半島国家の世界征服事業に対抗したもの。単なる信仰への不当な弾圧と見るのは不十分だ、と。他方、ウォーラーステイン氏は強調する。十六世紀のスペインとポルトガルの財政は破綻していた。日本の侵略は不可能だった。しなかったのでない。できなかった。資源がなく狭い日本。そこに植民するのは割に合わなかった、と。日本の征服と植民地化は、下級軍人や宣教師の誇大妄想だった。日本側の被害妄想だったというのである。
上記の議事録で、反対したのはオルガンティーノだった。「キリスト教徒の破滅」となる。「忍従によって信仰を植え、その教会をして地獄の力に勝たしめることを望まれる主キリストの教えを否定する」と。武力には武力、異なる教えは壊滅せよ。それでは秀吉と何ら変わらない。暴君は憎い。だが武力で信仰を伝えられない。武力に傾く同化策宣教師らがいた。イタリア人オルガンティーノとヴァリニャーノは強く抵抗した。信仰を受け入れた信者を守り、主の教えに忠実であろうとしたのだった。
1)日本は両勢力の境界線にあった:サラゴサ条約でスペイン、ポルトガルの勢力範囲を取り決めた。デマルカシオンと称される。一五二九年に批准。
29)伴天連追放令 2012.7.13
名護屋城跡
<一五八七年六月十九日のできごと>
右近改易の翌朝だった。秀吉は家臣を集め伴天連を罵る。「奴らは雄弁にしてよく仕組まれた言葉、および…甘物の中に毒を潜め…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためであることは微塵だに疑惑の余地を残さぬ…予はそれらすべての悪を成敗するであろう」と。
直後、コエリヨらに使者を送った。次の「伴天連追放令」を手交した。a)日本は神国で南蛮国から邪法を伝えてはならない。b)寺社の破壊は前代未聞である。領地を大名に与えるのは一時的なことで、法度は遵守されるべし。c)仏法の破壊者、宣教師は二〇日以内に日本から退去すべし。d)商売船はこれからも渡航してよい。e)仏法を妨げない者は渡来してよい。つまりキリスト教布教禁止と宣教師国外追放だ。寺社の破壊や焼討ちは誰でもやっていた。理由は何でも良かった。
この禁令は取り消されなかった。十年後、キリシタン禁令再発令や二十六人処刑が行なわれる。その法的根拠になった。徳川幕府のキリシタン弾圧の遠因にもなった。それまで戦国大名は自分の力で戦った。自らの所領を拡げ、支配した。だが大名はその土地を任されたに過ぎなくなった。天下人が任せるのは今だけ。勝手にキリシタンの手には渡さない。大名は単なる地方官となった。全て中央の指令下に入った。大名領国支配なる戦国時代はここに終結。中央集権体制が宣言された。この中央集権的封建制は、行為も心も統制した。やがてキリシタンのホロコーストに至る。同じ頃の西欧はどうか。信仰の自由と個人の権利が絶対主義を崩壊させていく。好対照だ。
キリシタン禁制の最大の理由は何か。欧州による侵略征服説だ。だが秀吉も家康も「ポルトガル・スペインの侵寇を恐れていたとはけっして思われない…むしろ国内の最大課題である諸侯の政治、経済、思想的統制の焦点をそらして対外問題をクローズアップし、理由付けとした」と海老沢有道氏は書く。若桑みどり氏も「仮に禁圧すべき邪教がなかったとしたら、秀吉は日本人や日本の国体に対する共通の敵をつくり出すことができず、自分にさからうものはすべて破壊するという恐怖の支配を合法的に演出することもできなかった」と指摘する。信長は旧秩序を破壊した。だが秀吉はその擁護者となることを明らかにした。歴史の歯車は逆向きに動き出した。キリシタンは文字通り犠牲(いけにえ)の子羊となった。
1)伴天連追放令:松浦(まつら)家文書より。読み下し文を一部改変。
28)奴隷売買の責めは誰に 2012.7.20
by Josiah Wedgwood
<一五八七年六月十八日のできごと>
右近が改易された夜だった。秀吉はコエリヨに使いを送る。突然叩き起こし、四項目を詰問する。その四つ目。なぜポルトガル人は大勢の日本人を奴隷として売り飛ばすのか。時は十六世紀。交易目的で渡海する人は少なかった。だが、アジア諸国に日本人が在留した形跡は多い。これはポルトガル船による奴隷輸出で説明できるという。奴隷売買は厳然たる事実だった。
民は貧しかった。金めあてで簡単に子供を手放した。南蛮商人は村々を歩きまわる。両親を騙して子供らを奪った。切腹して自殺する者、船から海に身投げする者が出た。鎖や足枷が使われた。自殺と逃亡防止のためだ。日本人奴隷は運ばれた。南支那、印度支那、印度、遠くポルトガル本国、ブラジル、アルゼンチンにも。天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)の一行は見た。地獄さながらの悲惨な状態にあえいでいる日本人を。憐憫の情を禁じ得なかった。男性は兵士に、女性は悲惨な性的奴隷にされた。我が国の歴史上未曾有のことだった。だが全体を見ると、日本人の数はそう多くなかったようだ。当時ポルトガル人が使ったアジア人奴隷の規模はもっと大きかった。
奴隷制度は日本でも八世紀には確認されている。十六世紀には、白人西欧優越主義が全世界を被い尽くし始めていた。松田毅一(きいち)氏は述べる。なまやさしい問題ではなかった。伴天連が少し運動したところで、防止できなかった。ポルトガル国王による日本人奴隷売買禁止令も効果なし。九州諸侯も非難にあたいした。苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)で領民をこの境遇に追いやり、なお反省しなかったからだ。秀吉は九州で悲惨な状況を知った。断乎(だんこ)たる処置をとった。ただ伴天連は相手違いだった。肝心の南蛮商人には厳命しなかった。仏教を妨げなければ来航して良いとした。奴隷売買は深刻だった。南蛮船の来航自体を禁じなければ、決して防止できなかった。
結果的に鎖国が日本人奴隷輸出を防いだ。だが当の秀吉は全国の美女を数多(あまた)漁った。妾、側室とするためだ。国内の人身売買はその後も続く。これら反社会的な犯罪行為は、今日も看過されている。まさに人類の宿痾(しゅくあ)だ。決して信仰者の命で贖われる問題ではない。だが我々の祖先は信者を絶滅せしめた。奴隷商人でなかった。現在でもキリスト教を断罪する人々がいる。奴隷売買ゆえに迫害を正当化するのだ。誰が奴隷売買の責めを負うべきか?「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。誰が石を投げつけるられるだろう。
1)四項目:(一)なにゆえにかくも熱心に邪宗門を説き、日本人を強制してキリシタンとなすか。(二)なにゆえ神社仏閣を破壊するか。仏教僧侶と仲よくせぬか。(三)なにゆえ有益な牛馬を食用に供するのか。(四)なにゆえ南蛮人が多数の日本人を奴隷として国外に連れ出すか。
2)奴隷制度は日本でも八世紀には確認されている:七〇一年の大宝律令で人身売買が禁止されている。このことから、日本でも奴隷売買が存在したことがわかる。
3)ポルトガル国王による日本人奴隷売買禁止令:一五七一年、ポルトガル王セバスティアン一世が、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を出した。一五六〇年以降、イエズス会宣教師が心を痛め、ポルトガル商人による奴隷売買が日本における宣教の妨げになり、宣教師の誤解を招くものと考え、ポルトガル王に奴隷貿易禁止令の発布を求めていた。
4)あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい:姦淫の現場で捕えられた女がイエスの前に引き出された。糾弾者たちはイエスに詰め寄る。律法(旧約聖書)では石打ちにするよう命じている、と。もしイエスが石打ちにしないと言うなら、律法を守ろうとしない教師として非難しよう。また石打ちにせよと言うなら、ローマの法に反して人を殺すよう煽動していると訴えようと考えた。しかしイエスは、この言葉を糾弾者たちに投げかける。すると年長者から一人、また一人と立ち去って行き、女とイエスだけがあとに残された。以上の物語が新約聖書の福音書ヨハネ8章7節に記されている。
27)右近改易と九州征伐の狙い 2012.6.26
堂本印象画
<一五八七年三月〜六月十八日のできごと>
九州征伐は大友、大村、有馬らを救う聖戦であった。一五八七年三月、高山右近、小西行長、黒田孝高(よしたか)、蒲生氏郷らは大坂を出陣。旗幟(きし)や鎧兜(よろいかぶと)にイエスの苦難が標(しる)されていた。孝高は秀長軍の監督として総勢十五万を指揮。行長は水軍の長、右近は前衛の総司令官だった。同年五月三日、島津は降伏。六月十四日、コエリヨが博多の秀吉を訪問。得意げにフスタ船を使って。同日、秀吉はポルトガル定期船の博多回航を命じた。六月十八日、船長が断る。博多湾には良い港がない、と。
その夜、秀吉は怒りを爆発させた。従わない船長と神父に対して。ここぞとばかり、侍医の僧侶施薬院全宗(せやくいんぜんそう)が右近らを讒言(ざんげん)。憎悪と猜疑心を煽った。激高した秀吉は使者を送った。右近に棄教を迫る。だが「全世界にかえても、信仰を捨てる意志はない…領地ならびに明石六万石を即刻殿下に返上致す」と右近は答える。そこで秀吉は「汝が行って意見を加え、かの宗門を改めさせよ」と千利休を行かせたという。しかし右近は「キリスト教信仰と主君の命令とどちらが重いかはわからない。ただ自分が変えないと志した誓いを変えることは武士に相応しくない。たとい主君の命令であっても武士としてできない」と答えた。
秀吉は激怒。凄まじい言葉で右近の追放を通告。右近、三十五歳。不思議な魂の平安を覚えた。翌朝、家臣たちを前に語る。「願わくば、神がその栄光の御国において汝らに手厚く、永遠に報いてくださるように…いつも信仰において堅固であるように、よいキリシタンとして生活するように」と。家臣たちは感動した。声をあげて泣き、死に至るまで右近に従うと答えた。右近は供回り五名と城を出る。博多彼岸の一孤島に渡った。淡路島、小豆島を転々。明石の家族らは悲惨で「領内の潔白で身分ある人たちは、ことごとくその家屋を放棄した…こうした困難に不慣れな貴婦人、その娘たち、少年、老人、病者…とうてい旅ができる状態ではなかった」と記さた。
フロイスはようやく気がついた。九州の役は「薩摩の王と戦うためではなかった」。秀吉は「勝利を収めた今、島津の諸国をほとんど変わりなく平穏無事であることを許している…そのいっぽう、彼はその悪意と奸計の鉾先を、キリシタンの宗団にさしむけた」と。秀吉の全国統一の最大の障害は何か。それは今やキリスト教信仰だった。封建制とは別の価値観で、多くの大名を結びつけていた。彼らを感化した右近。その象徴が追放されたのだ。
1)明石の家族らは悲惨で:右近は摂津から明石へ国替えになっていた。
26)困った人コエリヨ 2012.5.7
フスタ船
<一五七二〜一五九〇年、日本滞在>
九州は島津の一人勝ちだった。残すは大友宗麟(そうりん)の豊後のみ。一五八六年四月、宗麟は秀吉を訪問し仲裁を依頼。その前月、イエズス会副管区長コエリヨも大坂城に赴く。通訳フロイス、オルガンティーノ、高山右近も同席。秀吉はいかにも親しくコエリヨに語りかけた。日本統一後は国を弟秀長(ひでなが)に渡す。自分は朝鮮と中国に攻め入る。二隻の大型船を用意してほしい。最大の注意をもって返答を聴いた。肝心の続きは?フロイスはぼかして書いた。
オルガンティーノの書簡が補完する。戦争の話が出た。彼は自分が通訳をと申し出た。意図的に話題をそらすために。だがコエリヨはフロイスを通して明言。九州の全キリシタンを秀吉側につかせる。中国遠征では二艘の大型船を世話しよう、と。コエリヨがこの話を持ち出した。中国遠征まで嗾(そそのか)した。狡猾な秀吉は満足そうに見せかけ、内心疑った。「パードレは…有力な大名をキリシタンにしているから、彼らと神父はいつか同盟して自分に逆らい、天下をとるかもしれない」と。
秀吉は九州に遠征した。コエリヨは肥後八代(やつしろ)で謁見。一五八七年四月。この頃、コエリヨはフスタ船を一隻造らせた。大砲何門かを装備してある。同年六月、秀吉は博多に陣を移す。コエリヨは「旗で飾り立てたフスタ船に乗って海上から」訪問。「ちょうど大提督のようであった。そしてこのような船はいままで日本では見たこともないような軍艦なので全軍を驚かせた。関白殿はみずからそのフスタ船を訪れ、船内に入ってくまなく観察」するに至る。秀吉はまず大坂城でキリスト教支持を約束。九州平定を果たすためだ。浮かんだ疑惑は隠したまま。だがフスタ船を見た。再び猜疑心をかき立てた。
一五九〇年、ヴァリニャーノは総括する。高山右近と小西行長は「関白の心中や気性をよく知っていたので…キリスト教界に大きな災難が及ぶことを恐れると警告し、この船は彼のために造らせたのだと告げて、関白に、このフスタ船を献上してしまうように忠告した」。ところがコエリヨは「自分があれほど即座に彼に奉仕する態度を示したのだからなにか大きな報酬を受けるだろうと思い込み」説得を拒否。彼は「摂理の命ずるところに反し…介入してはならない多くのことに介入した」。その直後、高山右近が改易される。伴天連追放令が出される。突然だった。コエリヨはどう影響を与えたか。一連の軽率な言動は宣教の環境を台無しにした。多くの殉教者を生む遠因になった。
1)ガスパール・コエリヨ:ポルトガル出身。イエズス会司祭。宣教師。一五八一年、日本地区がイエズス会準管区に昇格した。ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命されたのがコエリヨである。一五九〇年、肥前島原の加津佐で死亡。六〇歳だった。
2)フスタ船:十六〜十七世紀、ポルトガルから来航した小型帆船。一本または二本のマストに三角帆を張り櫂(かい)を備えた,吃水(きつすい)の浅い細長い船。もともと貿易船だが、コエリヨは軍艦に改造。秀吉に見せた。
25)侘び茶とキリシタン 2012.4.23
千利休像
<一五二二〜一五九一年、千利休生没年>
豪華な茶会が盛んに催されていた。書院造りの客間だった。やがて侘び茶が登場する。炉の切られた四畳半以下の茶室になった。中でお点前(てまえ)をいただく。信長は「茶湯御政道(ちゃのゆごせいどう)」として政治に取り込む。茶道具一つが城に値する世界だ。茶人千宗易(せんのそうえき)は茶の湯が盛んな堺の商人だった。信長の茶頭(ちゃがしら)に選ばれる。本能寺の変のあと秀吉に仕えた。後に側近に重用される。利休(りきゅう)の名がつく。一五九一年、秀吉の逆鱗にふれ自刃。七十歳だった。
後に七哲(しちてつ)と称される高弟は、蒲生氏郷、高山右近らキリシタン四人とその友人三人であった。利休の知人にも日比屋了慶(ひびやりょうけい)などキリシタンがいた。ヴァリニャーノは茶の湯に親しむキリシタンたちを見た。教会の中で積極的に取り入れるよう指導した。茶道はカトリックの聖餐式に似ている。濃い茶かぶどう酒を飲みまわす。茶巾かプリフィカトリウムを捌(さば)く。利休は聖餐式から影響を受けた。そう推測するのはピーター・ミルワード司祭や小説家三浦綾子氏だ。ただ増淵宗一氏は指摘する。それらは確実な史料に基づいていない、と。氏の著書「茶道と十字架」では「緑のミサと赤いミサ」と対比させていて面白い。専門家は解説する。世の光なる灯籠に照らされ、いのちに至る道である狭い飛び石を歩む。蹲踞(つくばい)の命の水を使う。狭き門としての躙り口(にじりぐち)を経て、天国のひな型である茶室に入る。そこでキリストと一つとなり神の懐に憩う。海老沢有道氏は指摘している。和(harmony)敬(respect)清(purity)寂(tranquility)、主客一如の世界は、万物の創造神デウスと信仰者の一致、階層を超えた人と人との一致というキリスト教信仰によって触発された、と。
侘び茶の興隆とキリスト教の浸透時期は見事に重なっている。だが茶の湯は禅宗の視点で説明される。日本文化の神髄として。キリスト教の影響は、明確な強い意志のもとで排除された。禁教となった江戸時代だ。キリシタンが関わった痕跡は完全に消し去られた。歴史学では史料絶対主義という原則がある。史料のないものは研究の対象ではない。だが史料がなくとも、重要な史実は存在する。時代の常識はわざわざ書かない。また意図的に改竄されることもある。史料を消滅させる場合もある。歴史学の限界である。
茶室は「建築された叙情詩」と称される。茶道は削ぎ落された簡素美の結露とされる。日本文化とキリスト教精神の融合。全く新しいものの創出。その初穂が侘び茶として完成したのだ。今後の可能性を感じさせる。心躍るような歴史がここに見られる。
1)四畳半以下の茶室:数寄屋、すきや。
2)点前:準備から片付けまで一連の行為。
3)利休七哲:後世、利休の弟子で特に名高い七人を選んでこう呼んだ。本文の氏郷、右近(南坊長房、なんぼうながふさ)の他、細川三斎忠興(ただおき)、古田織部重然(おりべしげなり)、芝山監物宗綱(けんもつむねつな)、瀬田掃部正忠(かもんまさただ)、牧村兵部利貞(ひょうぶとしさだ)がいる。
4)プリフィカトリウム(purificatorium):聖餐式のとき、ぶどう酒がこぼれないように聖杯に添えて用いたり、口や指などを拭くため、また聖杯に水を注いでふき清めるときに用いたりする、長方形三つ折りに畳んだ布のこと。
24)細川ガラシアたま 2012.4.6
堂本印象画
<一五六三〜一六〇〇年、生没年>
明智光秀の三女たまは細川忠興(ただおき)と結婚。傍目も羨むほどの夫婦だった。だが本能寺の悲劇が彼女を襲う。主君殺しの汚名により離縁。丹後の味土野(みどの)に幽閉される。秀吉の計らいで復縁。ただ彼女に心の安らぎはなかった。忠興は諸侯にならい、大坂に住むようになる。ある日彼女は知った。デウスの教えが大坂に広まっている。夫の親友高山右近も信者だ。興味をつのらせた。だが彼女は監視付きの身。思いを秘めたまま、努めて無関心を装った。
だが機会が訪れる。夫は九州に出征。彼女は侍女たちに相談。数名に取り囲んで連れ出してもらう。教会に向かう。その日は復活祭だった。華麗な身ごしらえや品位から高貴な女性だと推察できた。でも誰も名を明かさない。説教を聴き終わるや、彼女は多くの質問をした。コスメ修道士は「過去十八年…これほど明晰かつ果敢な判断ができる女性と話したことはなかった」と証言。彼女はその場で洗礼を希望した。だが教会は丁重に送り返した。若者を尾行させる。その貴婦人が細川家の奥方だと判明した。
翌日から侍女たちが教会に通う。次々に十六人がキリシタンとなった。奥方は霊的な書物を希望。信心書を受け取った。コンテムツス・ムンジの日本語訳だ。その本を彼女は片時も離さなかった。疑問点を丹念に書きとめて教会に届けた。答えを侍女に持ち帰らせた。洗礼への望みは募るばかりだった。教会側は協議する。侍女マリアに洗礼を授ける方法を教えた。マリアが自宅で奥方に洗礼を施した。ガラシアの名を賜った。信仰を持った彼女は変わった。かつて気分がたびたび鬱(ふさ)いで室内に閉じ籠っていた。今では顔に喜びをたたえ快活になった。怒りやすかったのが忍耐強くなった。気品が高かったのが謙遜で温順となった。周囲も驚くほどだった。
忠興は九州から戻った。側室を五人持つと言い出す。ガラシアに辛く当たった。彼女は離婚を宣教師に相談。説得され思いとどまった。次女たら、長女ちょうが次々洗礼を受ける。しかし一六〇〇年夏、石田三成は大坂細川邸に人を遣わした。関ヶ原の戦い直前だ。人質として奥方を要求。夫忠興は家康について関東に出陣中。彼女は最期が近いことを知る。キリシタンとして自害は許されない。家臣に胸を突かせ、壮絶な死を遂げる。屋敷には火が放たれた。オルガンティーノはガラシアの遺骨を持ち帰らせる。丁重に埋葬した。辞世の句が残っている。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
参考
1)コンテムツス・ムンジ:Contemptus Mundi、トマス・ア・ケンピスの著作とされる「イミタチオ・クリスティ(キリストにならいて)」の日本語訳。「こんてむつす・むん地」とも。
24)名医曲直瀬道三の入信 2012.4.1
曲直瀬道三像、杏雨書屋蔵
<一五〇七〜一五九四年、生没年>
当時、曲直瀬道三(まなせどうさん)という医師がいた。都一番の誉れが高かった。漢学と仏教各派の知識に通じた学者。類まれな雄弁家。諸侯たちにとっても、彼と話すことは無上の喜びだった。豊後府内(ぶんごふない)の学院長ベルショール・デ・フィゲイレードが重病になった。道三の噂を聞いて上洛。診察後、老人同士の気安さから話に花が咲いた。道三は伴天連が独身と知る。「私もまた身体の健康のために…十八年前から妻と貞潔な関係を保って過している」と語った。
フィゲイレードと道三に以下の会話が交わされる。
「人々は…わずかしか保つことができない肉体の健康のために、莫大な金を注ぎ、それを保持するのに苦労する」それならば「永遠に滅びることがない霊魂の健康を保つために、より以上の注意を払い、力を注ぐべきはしごく当然のことであろう」
「はたして人間に残るような生命があろうか」
霊魂は不滅であり、人は偉大なデウスの助けなしに満足な一生を送ることができない、と説明すると、道三は笑いながら答えた。
「この年齢(とし)になって…何が悲しくて新たな考察などに耽る必要がござろう」
「御身にとり、今ほどそれが大切な時はない。御身は人生の終わりに達しておられるからだ」
「仰せのとおりであるならば、説教を最後まで聞きたいものだ…私が貴殿をてこずらせるようなことはあるまい。…ひとたび理解した上は…巌や鉄のように強くなるであろう」
彼は教会へ行き三度説教を聞いた。デウスが天にまします我らの父と呼ばれる。人はみな等しくその子供である。その話はそれまで耳にしたことがなかった。不思議な感動と新鮮な喜びが道三の心を満たした。彼の理解は深まる一方だった。キリストの受肉、受難、復活、昇天の知識も正確になった。「異教徒たちは傲慢であるから…受難の教義を嘲るに違いない。だが私はそれがはなはだ深遠かつ重大な教えであり、デウスのいと高き御計らいであると確信している」と述べるほど。
道三は洗礼を受ける。都では彼の改宗の話でもちきりとなった。人々は言った。「仏僧や日本の学者たちは、関白の改宗については、関白は馬鹿だからキリシタンになったのだ、と言うかもしれないが、道三に関しては、彼は学者だから、道理の光と力によって改宗したのだ告白せざるを得ぬ」と。
フィゲイレードは有名な宣教師ではない。名医曲直瀬道三に患者としてかかった。しかし彼は逆に、魂の医者としての役割を見事に果たす。心温まる素晴らしいエピソードだ。
1)豊後府内:いまの大分県大分市。
2)学院長:イエズス会の教育機関の一部は府内に置かれていた。フィゲイレードはその教師だった。
22)黒田官兵衛受洗とその影響 2012.3.25
如水居士像、崇福寺蔵
<一五八五〜一六〇四年のできごと>
当初秀吉は、教会には信長と同様な姿勢で臨んだ。オルガンティーノが大坂に秀吉を訪ねる。教会を建てるための土地を願い出るためだ。すると驚くほどの歓待を受け「極上の敷地を進ぜよう」と言われる。信者の数は増え続けた。一五八五年に黒田官兵衛孝高(よしたか)が受洗する。彼は秀吉の側近中の側近。優れた才能で尊敬を集めていた。その心はまず小西行長(ゆきなが)により動かされる。次いで、蒲生氏郷と高山右近が洗礼へと導いたとのこと。
官兵衛は九州征伐先遣隊司令官となった。途中山口に立ち寄る。そこは元来ザビエルとトーレスが種をまいた土地だった。毛利氏の時代になると伴天連が追い出された。キリシタンたちは三十年間も、教会のない生活を余儀なくされていた。官兵衛は長門の国主毛利輝元(もうりてるもと)に話をつける。かつての教会の敷地に、さらに追加用地を加えて教会に与える措置をとったのだ。フロイスは記す。「役人たちは、黒田官兵衛の前では自分たちの国主の面前に罷り出る時以上に戦慄していた」「その彼が司祭に対しては深い尊敬と恭順を示したので、異教徒たちは驚嘆した。それもこの時まで、哀れなキリシタンなどほとんど誰ひとり顧みる者もなく見捨てられていた土地柄だったからである」と。
官兵衛は修道士を二名帯同させた。希望者には宗門の話を聞かせた。官兵衛自ら出席する伝道集会だ。修道士を実子のように世話した。夜中彼らに信仰の質問をすることもあった。彼の祈りは真心がこもっていた。「祈り終えると頭と両手を床につけ、ひれ伏してデウスの前に感謝を捧げた。彼はそうした行為を、いささかの気負いも不自然さもなしに」行ない、「一同に感銘を与えずにはおかなかった」という。彼の説得により大勢の人々がキリシタンになった。
官兵衛は家督を長男長政(ながまさ)に譲る。長政は豊後中津や筑前福岡を所領とした。一六〇四年、官兵衛は五十九歳で病死。そのころ家康の教会への態度は比較的穏便だった。信徒の数は急増していた。官兵衛はバビロンやペルシャの宰相を務めたダニエルに匹敵するほどの影響力が持てた大器だった。だが彼には信仰を貫き通す意志があったか?疑問とされる。右近改易の際にも率先して秀吉の意に従った。宣教師やキリシタン大名たちは大きな衝撃を受けた。ただ「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら…その人は決して報いに漏れることはありません」とある。官兵衛が長門や九州で果たした役割は決して小さくはなかった。
1)山口:長門、現在の山口県の中心都市。大内氏が支配していた頃、ザビエルとトーレスが布教を開始した。
2)バビロンやペルシャの宰相を務めたダニエル:バビロン捕囚でユダヤから連れて行かれた民の中にダニエルら四少年がいた。英才教育を施され、後にバビロン王ネブガデネザルに取り立てられる。その中でダニエルは宰相として王に仕え政治を補佐した。バビロンが滅びた後、メディアとペルシャ王国でも、ダニエルは王たちに重用された。ライバルたちの妨害にもめげず、信仰を守り通し、周囲に良い影響を与え続けた。
21)秀吉政権誕生と諸侯の改宗 2012.3.17
蒲生氏郷像、近江日野商人館蔵
<一五八二〜一五九五年のできごと>
信長の死後、世は混乱した。その中で秀吉は主君の仇(かたき)光秀を討つ。ライバルの滝川一益(かずまさ)や柴田勝家(かついえ)を滅ぼす。信長の三男信孝(のぶたか)を退ける。家康と組んだ次男信雄(のぶかつ)と和を結ぶ。かくして織田家の権力を簒奪(さんだつ)した。一五八六年、家康に臣下の礼をとらせる。実質的に秀吉政権が誕生した。本能寺から四年余り。前後して惣無事令(そうぶじれい)なる「私戦禁止令」が出た。戦国大名同士の領土争いを終わらせ、秀吉政権の裁判権による解決を図るものだった。
戦乱が止んだ。大名らが各地から頻繁に大坂に出入りした。政(まつりごと)のためだ。その機会に宣教師の説教を聴き、信仰を持つ者が相次いだ。フロイスは書く。「彼らは…純粋な意図から改宗し…妾女、快楽、非道、不正義、残忍、その他の悪に染まった生活を放棄」した。そのためキリシタンの評価が高まり、「貴人たちの一部の者は、キリシタンに改宗せぬ者は貴族に非ずとさえ言う始末であった」と。一五八五年に受洗した大名には、中川秀政(ひでまさ)、蒲生氏郷(がもううじさと)、羽柴秀勝(ひでかつ)、黒田官兵衛孝高(よしたか)らが含まれている。
高山右近の人柄や天性の素質は、周囲に大きな影響を与えずにいなかった。「つねにデウスのことを口にし、高貴な若侍たちをキリシタンにしようと説得してやま」なかった。そういった一面を快く思わない武将もいた。氏郷もその一人で、右近を避けて歩いていたようだ。だが右近は氏郷をきわめて重視し、祈った。やがて遂に説得することに成功。「昼夜右近殿につきまとい…教会で聴聞したことについて疑問を解いてくれるようにと頼んでやまない」までになった。氏郷は洗礼を受ける。その後の彼は友人たちに教えを聞くよう説得する。「彼自ら同輩の若者たちに説教し、すべての家臣にもそれを聴聞するよう熱心に勧告した」という。
一五九〇年、ヴァリニャーノが再来日。氏郷は百二十万石の大名となっていた。すでに関白のキリシタン禁教令が出ていた。氏郷は二度にわたって巡察師を訪れ、宣教の幻を語り合った。迫害の嵐が長崎に吹き荒れても伴天連たちを激励した。異教徒である家臣団を前に次のように語った。「予がキリシタンであることを汝らは知るがよい…予は領地において大々的改宗を実現させる決意である」と。その後、氏郷は四十歳で病死。彼は信長がまず認めた器量人であった。秀吉も氏郷を恐れ、会津に移封した。「上方(かみがた)に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたほど。だが、右近のように最後まで信仰を貫いたかどうか定かではない。
1)滝川一益(かずまさ)、柴田勝家(かついえ):織田軍団の有力武将。滝川一益は信長長男の信忠(のぶただ)とともに、武田勝頼に対して配備された。甲斐平定後は一益が関東方面を任されるようになった。柴田勝家は前田利家、佐々成政(さっさなりまさ)らとともに、上杉景勝(かげかつ)に対して配備された。
2)織田信孝(のぶたか)、織田信雄(のぶかつ):長男織田信忠は本能寺にて信長とともに討死に。清洲会議(一五八二年)で織田家の後継者が決められた。主な出席者は柴田勝家、丹羽長秀(ながひで)、羽柴秀吉、池田恒興(つねおき)。滝川一益は関東出陣中で欠席とされた。柴田勝家が三男信孝を擁立。羽柴秀吉は信忠の嫡男、三法師(織田秀信)を擁立。明智光秀討伐の功労者が秀吉であり、実力者丹羽長秀らが秀吉側に付いたため、三法師を跡継ぎと決定。伊勢の神戸(かんべ)氏に養子に行っていた信孝よりも、信長嫡男の信忠の血を引いていて正統性が高いとされた。信孝は三法師の後見役となる。三法師は安土などを所領とした。
美濃を引き継いだ信孝は、三法師を安土に戻すことを拒んで美濃に留めおいた。信孝は秀吉と対立。信孝に肩入れした柴田勝家との争いが、賤ヶ岳の戦いを経て決着した後、秀吉は信孝を自害に追い込んだ。
尾張を引き継いだ信雄は、かつて北畠家の養嗣子となっていた。清洲会議で信長の跡目を狙って織田姓に戻した。秀吉が台頭する中、秀吉側について弟信孝を追いつめたと思うと、その後に徳川家康と組んで秀吉に対抗。小牧長久手では、秀吉側の池田恒興や森長可(ながよし)らを討ち取るなど、家康側が優勢に戦いを進めた。しかし肝心の信雄が秀吉と和議を結んでしまう。信雄はその後秀吉に、次いで家康に従臣。
なお、信雄は光秀謀反の際、近江まで進軍するが、光秀とは戦わずに撤退。何故か安土城に火を放ってしまった。織田家の中では、「三介(信雄)殿のなさることよ」とその奇行が呆れ気味に評され暗愚とされたという。フロイスも「普通より知恵が劣っていたので」と書いている。ただし、織田家の子孫の中で江戸時代を通じて大名で通すことができたのは、信雄の系統だけだった。
3)惣無事令(そうぶじれい):刀狩り、海賊禁止、喧嘩両成敗など私闘を禁止する法令。一五八五年、九州征伐にあたって九州地方に、一五八七年、小田原攻めにあたって関東、奥羽地方向けに出された。秀吉が天皇の勅令として発行した。
4)中川秀政(ひでまさ)、羽柴秀勝(ひでかつ):中川秀政は摂津の武将中川清秀(きよひで)の嫡男。文禄の役で朝鮮半島に渡海。敵に包囲され戦死した。羽柴秀勝は、織田信長の四男。秀吉の養子となり羽柴姓となる。本能寺の変の後、信長の葬儀では喪主を務めた。一五八五年に病死。
20)教会保護政策の反動 2012.3.1
正親町天皇像、京都泉涌寺蔵
<一五六〇〜一五八二年のできごと>
天皇にはローマ教皇のような力がある。来日前のザビエルはそう考えていた。彼はまず天皇を教化し、全国の布教を推進しようと目論む。だが当時の京都は荒廃していた。天皇は貧しく無力な存在に映った。ザビエルは失意の中で京を去る。後継者らは都での布教許可を得る努力を続けた。ついに足利将軍義輝(よしてる)の許可をもらう。だが五年後の一五六五年、義輝が暗殺される。正親町天皇(おおぎまちてんのう)は伴天連追放の綸旨(りんじ)を出す。「大うすはらい」と称された。宣教師たちは認識を新たにする。天皇にはキリシタンを排除する力がある。当初思ったほど無力ではない、と。
四年後フロイスらは信長から朱印状を得る。翌年信長が京を留守にすると、正親町天皇は再び伴天連追放の綸旨を出す。フロイスとロレンソは心配して相談する。信長は「内裏(だいり)も公方(くぼう)も気にするに及ばぬ…汝は欲するところにいるがよい」と答える。宣教師たちは信長の許に行き、懇願することもあった。贈物を携えて天皇を訪問できるよう尽力して欲しい、と。その時も信長は「予が天皇であり内裏である」と断った。一五八一年、ヴァリニャーノが来日。天皇から布教許可を得る件につき宣教師らと話し合った。だが信長の性格を考慮し断念している。宣教師側はあくまで天皇による布教許可にこだわった。他方信長はこの問題を棚上げにしてしまった。旧秩序を破壊する勢力と擁護する旧勢力。二つがぶつかり合う一五八二年、教会の庇護者、信長が死んだ。これを契機に旧秩序擁護者が逆襲に転じる。もはや時間の問題だった。
神聖な日本の国土は神仏が護っている。「鎮護国家」の思想が蒙古来襲以来高まっていた。神道が天皇と結びつき国の護りとなっていた。宗教であれ何であれ、外から来るものは天皇の敵である。伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を最初に出したのは誰だったか。天皇と朝廷だった。朝廷は一貫してキリスト教に敵対を続ける。時は下って一八五八年、外圧が高まる幕末、孝明天皇は次のように述べる。「嘉永(かえい)年間に至って外国がさかんに来ている。ことにアメリカはその筆頭である。我が国との交流を請うてはいるが、あとで我が国を併呑(へいどん)しようとする兆し(きざし)がある。また邪教であるキリスト教が伝染する恐れもある」と。開国によりキリスト教が流入してくる恐怖を表現している。
宣教師側は一貫して内裏への謁見を希望した。敵対するより、創造主の和解の福音を携えて歩み寄ろうとした。この姿勢から学ぶものはないだろうか。そう思わされる。
1)綸旨(りんじ):天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する公文書。
2)足利将軍義輝(よしてる):室町幕府一三代将軍(在職一五四六〜一五六五年)。
3)正親町(おおぎまち)天皇:第一〇六代天皇(在位一五六〇〜一五八六年)。
4)朱印状:大名や将軍が朱印を押して発行した公文書。
5)内裏も公方も:天皇も将軍も。
6)孝明(こうめい)天皇:第一二一代天皇(在位一八四七〜一八六六年)。
19)信長の暴挙と本能寺 2012.2.26
安土城図、大阪城天守閣所蔵
<一五七九〜一五八二年のできごと>
信長は単純な無神論者ではなかった。安土城は要塞や政務の場というよりも神殿だった。まず天主(てんしゅ)の天井には、天人御影向(てんにんごようごう)の絵画があった。影向(ようごう)とは「神が初めてその本当の姿を現すこと」だという。盆山(ぼんざん)なる御神体の自然石、つまり影向石(ようごうせき)が地上一階に据(す)えられた。法華経の多宝塔(たほうとう)が地下一階にあった。彼は「予みずからが神体である」と語った。一五七九年五月十一日、自身の誕生日に信長は天主に入り、居住しはじめる。市井(しせい)の日本史家井沢元彦氏によると、仏教、神道、キリスト教の三つで、信長という神の出現を表現した。誕生日を加えたのがキリスト教式である。
一五八二年五月、信長は城郭内に大きな摠見寺(そうけんじ)を建立。自分の誕生日を聖日として当寺に参拝するよう命じた。大いなる信心と尊敬を寄せる者に現世の繁栄、出世、健康、幸福、来世の救済まで約束した。宣教師と信徒たちは震撼、驚愕、絶望した。庇護者と思っていた信長が、自らを神と称したのだから。同年六月二日、本能寺で信長は横死してしまう。
当時、信長の正統性を否定しうる人物が二人いた。正親町天皇(おおぎまちてんのう)と本願寺顕如(けんにょ)である。権力の正当性は古くから内裏(だいり)が代表。また顕如は信者たちから、生き仏(いきぼとけ)と崇められていた。信長に宗教的カリスマ性はない。そこで考えた。新しい宗教を起こし、自らその開祖になろう。天皇中心の古い権威ではなく、新しい正統性をうち立てよう、と。だが実は、これこそ身に破滅を招いた「暴挙」だったとされる。新勢力の信長と旧い秩序を擁護する旧勢力。二つがぶつかり合う。その中で旧勢力の「手」となったのが明智光秀だ。当人にその自覚はなかったが。
宣教師は「地上のみならず、天においても己れにまさる主(あるじ)はいないと考えた者はこのように不幸で悲惨な最期を遂げた。…彼の傲慢さが身を滅ぼした…彼の記憶は争乱とともに消え去り、地下の奥底に沈んだ」と書いた。ただ日本では神々とは人間を指した。ずっと昔の貴族とか貴族出の主要人物のこともあった。秀吉も家康も自己神格化をした。特別に信長だけが傲慢なのか。信長は宗教戦争のあと、真宗本願寺も他の宗門も総赦免した。政治的な意図はあったにせよキリシタンを庇護した。武力を使わず政治に口出ししないなら、信仰の自由を保証した。本能寺がなければ、神、仏、キリスト教が平和共存する日本社会が生みだされたのか。あるいは信長がバビロン王ネブガデネザルの日本版となり、キリシタンを迫害したのだろうか。
1)安土城:安土山の安土城遺跡は当時を偲ばせる。
2)仏教、神道、キリスト教の三つで:法華経の多宝塔が仏教、盆山なる御神体の自然石が神道、本文にあるように誕生日を加えたところがキリスト教式。
3)摠見寺(そうけんじ):安土山の城郭内に摠見寺が再建されている。
4)本願寺顕如(けんにょ):戦国〜安土桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第十一代法主。信長の宿敵で石山合戦終了まで信長に刃向い続けた。
5)内裏(だいり):天皇のこと。
6)バビロン王ネブガデネザル:旧約聖書ダニエル書に登場する。巨大な像を造って礼拝を強制。従わない者を迫害した。
18)天正遣欧少年使節(2) 2012.2.19
作者不詳
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/JapaneseDelegatesAndPopeGregory13.JPGによる。使節は四少年だったはずなのに三人しか描かれていない。その謎が若桑氏の著作で解き明かされている。
<一五八二〜一五八五年のできごと>
一五八二年二月、一行は長崎を発った。二年半の長旅ののちリスボンに到着。ヴァリニャーノは途中インドのゴアで、やむなく別れを告げた。彼は四人にどんな贅沢もさせたくなかった。「教皇への私的な謁見」だけを願った。だが四人は次第に壮麗な歓待を受ける。ポルトガル統治者アルベルト枢機卿(すうききょう)、スペイン国王フィリペ二世、イタリアのトスカーナ大公らによって。優雅な美徳と性格が評価され、尊敬を尽くして迎えられた。教皇庁も負けじと、枢機卿列席公開謁見式の開催を決定。一五八五年三月、四少年は「国王と同じ待遇」で、ローマ教皇グレゴリウス十三世に謁見した。教皇の晩年は、日本の使節の訪問により輝かしいものになった。かつてこれほど記念すべき出来事はなかった。遠く離れた主のブドウ畑に蒔かれた種が芽吹き、ついに力ある君主という実りを得た、とまで記された。
若桑みどり氏は指摘する。教皇庁は中浦ジュリアンを病気にした。残りを東方の三人の博士にするためだ。使節はどうしても三人でなければならない、と。仲間の大行列が教皇宮殿に向かう中、一人寂しく宿舎に帰ったジュリアン。晴れ舞台に立ちたい彼の純粋な願いを、教皇庁は踏みにじった。四少年のうち穴吊るしの刑で殉教したのは誰か。壮絶にその信仰を貫いたのは。
内部告発者が出た。スペイン人イエズス会士ラモンである。内容は大友宗麟の書状に関する偽造疑惑と、四少年の素性に関してだった。「遣欧使節となった少年たちは、日本ではただの非常に貧しく哀れな者たちにすぎません…ローマでは彼らを日本の王侯などと称して待遇された」ことを聞き、「恥ずかしくて顔を覆いたくなるほど」だと書き送った。ラモンは同化主義宣教師だった。日本と西洋の対等の交流などあり得ない。日本人は支配、教化、同化すべきだ。教皇や西洋の王侯から、対等に扱われてはならない。彼らに元々そんな値打ちはない。そう考えた。
ヴァリニャーノは反論「アポロギア」を書く。誹謗に対して弁明した。この問題は後々まで尾を引く。若桑氏は記す。「こうした内紛や対立が…フランシスコ会スペイン人によるイエズス会攻撃に引火し…日本の教会の状態を悪化させた…このことの最大の被害は…その後の日本の歴史家が、この外交使節派遣を犯罪視するように」なったことである。「もともと耶蘇嫌いの日本人に対して、この『醜聞』は格好の攻撃の種を…提供しつづけている」と。恐るべし同化主義の罪。
1)穴吊るしの刑:長崎奉行竹中重義が考案した拷問。深さ二メートルほどの穴に逆さ吊りにされた。耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ねなかった。それでいて棄教の意思表示は簡単にできた。
2)アポロギア:反論というタイトルの著作。
3)恐るべし同化主義の罪:恐るべし人種差別の罪、と言い換えても良い。
17)天正遣欧少年使節(1) 2012.2.12
南蛮屏風図、長崎歴史文化博物館蔵
<一五七九〜一五八二年のできごと>
信長は安土の神学校セミナリオに突然やってきた。時計、備え付けのクラヴォとヴィオラを見た。楽器は両方とも演奏させた。聴いて喜んだ。弾いた少年たちを褒めた。そしてなかなか帰ろうとしなかった。ヴァリニャーノは見た。キリスト教が天下人の信長にいかに保護されているかを。
信徒が増えて経費もかさんだ。セミナリオの他、大学コレジオ、修練院(しゅうれんいん)ノヴィシャドが作られた。浪費だ!と批難された。しかし未来への種まきだった。宣教師会議の決議文が残っている。日本の教会は発見された全ての地域において最も重要で、多大な成果があり今後も期待できるが、成長を持続させるには、神父の不足と過労、教育制度不備、経済的窮乏などの障害を乗り越える必要がある、と。ヴァリニャーノは思いつく。キリシタン諸侯の使節をローマに送ろう。自分も同行する。教皇に日本の教会の存在を知らせる。財政を含む積極的な援助をかち得よう。こうして彼は少年四人を選ぶ。欧州に連れて行くことを決めた。
使節団の筆頭正使は伊東マンショ。大友宗麟の甥。優れた記憶力と技巧の持ち主。常に平静さを崩さず、口数は少なく端然としている。正使のもう一人は千々石(ちぢわ)ミゲル。彼は有馬晴信(ありまはるのぶ)の従弟で大村純忠(すみただ)の甥。母一人子ひとりで育った。優しく可愛らしく、誰からも愛された。副使は原マルティーノと中浦ジュリアン。二人は武士の子息だったが、大名の親戚ではない。セミナリオで選ばれた。信仰、叡智、思慮、謙遜を認められた。原マルティーノは賢く学者肌。ラテン語と日本語に優れた才能を発揮した。海辺に育った中浦ジュリアンは、釣りの得意な普通の少年だった。
信長は狩野永徳(かのうえいとく)に命じて金屏風(きんびょうぶ)を作らせた。安土の壮麗な景観を精密に描かせた。京で評判になり内裏(だいり)が所望したほど。この傑作はヴァリニャーノに託し教皇に贈られた。ヴァリニャーノは考えた。日本人は欧州の高度な文明を信じない。他方、欧州人は人種的偏見からアジア人の優秀さを認めない。実物を見せよう。見れば信じてくれる。その優秀さを相互に認めさせることになるだろう。使節の意義は、一般歴史家からも積極的に評価されている。所詮、行ってみなければわからない。大友、有馬、大村三侯の天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、その意味で日本人が欧州文化の中に身を置き、直(じか)に触れた出来事として日欧文化交渉史上最も重要な役割を果たした、と。全く異なる二つのものが出会い、たぐい稀な時代が到来したのだった。
1)神学校セミナリオ:修道士になるための初等教育機関。
2)クラヴォ:クラヴィコルド。クラヴィコード。鍵盤楽器。チェンバロの前身。
3)大学コレジオ:司祭育成および一般教養のための高等教育機関。
4)修練院(しゅうれんいん)ノヴィシャド:司祭養成のための第一段階、修練期を過ごすための修道院。二年制だった。その間に将来司祭職になるか修道士かを選ぶことになっていた。
5)内裏(だいり):天皇のこと。
16)信長の世界戦略 2012.2.5
安土城
<一五六八〜一五八〇年のできごと>
信長の人物像がフロイスの記述にある。「中背痩躯(ちゅうぜいそうく)で…声ははなはだ快調、きわめて戦争を好み…名誉心強く、義にきびしい」「決断を秘してあらわさず、戦略においてきわめて狡猾、気性激しく、癇癪もち」「部下の進言にほとんど左右されることがなく…皆から極度に恐れられ、尊敬されていた」「行動を何物にも拘束されない、その見解は尊大不遜」「日本の王侯をことごとく軽蔑」「すぐれた理解力と明晰な判断力」「忍耐強く、度量が大きい」。このような人物がフロイスに会う。一五六九年、まず能を聴きながらさりげなく。次に衆人環視のなか二条城建築現場で。三度目は個人的にじっくり。まず遠方からはるばる来た人をどう扱うべきか考えた。次に神父が真に外国の公的機関からの派遣者であることを確認。そして欧州やインドの様子を聞いた。
信長は「彼らは日本人が見たことも聞いたこともない遠方の大きな国からやってきた」とよく言った。彼らは遠い外国からの「外交官」だった。粗略に扱うべきではない。信長のまなざしは国外に向けられていた。一五八一年、本能寺で巡察師ヴァリニャーノにも会う。京都で挙行されたド派手な軍事パレード「馬揃え」(うまぞろえ)に彼を招待した。主賓として特別の高台で観覧させた。この一大デモンストレーションは内裏、公家、諸候、民衆にのみ向けられてはいない。日本の王が誰かを世界に向けて発信した。世界の王侯と相互交換可能なシンボルとは何か。信長は赤いビロードの帽子と深紅の椅子を用いた。
日本の諸候は狭い領土をめぐって争っていた。世界に思いを馳せることはなかった。だが信長は違った。宣教師を通し、絶対王政を確立していたポルトガル・スペインの国情に直接触れた。文明の高さを知った。スペイン・ボルトガル王が世界の支配者であるという話は、「小心者」をこわがらせた。しかし信長にはヒントを与えた。彼は地球儀を手にして自らの行くべき道を展望した。信長は余人が思いつかないことを考えた。フロイスは、信長の最終目標は「アジア征服」にあった。次のように述べている。「毛利氏を征服し終えて日本の全六十六ヶ国の絶対領主となったならば、中国にわたって武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国をわけ与えることに意を決していた」と。
思いを超えて、歴史は時代の車輪を前に回すために信長を選ぶ。彼に護られて教会は成長する。キリシタンたちも織り込まれていく。
1)馬揃え(うまぞろえ):京都御馬揃え。一五八一年四月一日(天正九年二月二八日)、信長が京都で行なった大規模な観兵式、軍事パレード。京都内裏東で行なわれ、丹羽長政、柴田勝家を始め、織田軍団の各軍を総動員する大規模なものだった。正親町(おおぎまち)天皇はじめ公家たちも招待された。
15)信長の政教分離政策の功罪 2012.1.29
安土セミナリヨ跡
<一五六八〜一五八〇年のできごと>
信長が戦った敵は、何も戦国大名だけではなかった。十六世紀まで、寺社は武装集団だった。比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)、法華宗、真宗本願寺など。互いに血で血を洗う戦いを繰り広げていた。日本の宗教戦争だ。戦いはやめて信仰に専念せよ!そう要求したのが信長である。だが寺社勢力は拒絶した。とくに本願寺にとって信長は仏敵だった。戦いを挑み続けた。長い間、延暦寺などは同業者とカルテルを結んでいた。燈火用の油など、商品のパテント料で巨益を得ていた。市場(いちば)への出店も許可制。高いテナント料を課した。信長は楽市、楽座を実施。全ての賦課(ふか)、関税、通行税を撤廃。庶民を自由で豊かにした。寺社の既得権益が打ち壊される。そこで彼らは、武力をもって信長に立ち向かったのだ。
信長は一五六八年に上洛。だが天下人(びと)への道のりは険しい。畿内と周辺の大名、大坂の石山本願寺に三たび包囲された。本願寺は信長と戦う中で何度も和睦した。しかし、いつも本願寺側から休戦協定を破った。十一年に及ぶ石山合戦(いしやまがっせん)は壮絶をきわめた。後世、残酷な信長というレッテルを貼られた。一五八〇年、本願寺側が最終的に降伏。以降、日本国内から宗教戦争が消滅した。
この時代、日本は大きな転換期を迎えた。かつて寺社は要求実現のため、武器をとって殺し合った。だがもはやそういう宗教は存在しない。信仰に専心するようになった。作家の塩野七生(ななみ)氏は述べる。「不思議にも、非宗教的とされている日本が、他のどの宗教的なる国よりも、イエス・キリストの次の言葉を実践している…『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』これも、四百年の昔に、大掃除をしてくれた信長のおかげである」と。大掃除とは、武装宗教勢力の一掃を言う。信長は武力で政教分離を実現した。世界のどこでも達成されていない。偉大な功績というわけである。
いま多くの日本人は自分を無宗教と公言する。宗教が絡むテロや戦争のニュースを聞き、「宗教は怖い」と感じる。宗教は弱い人、判断力のない人のものと考える。こうした偏見が始まったのはいつか。宗教戦争の終わりは、宗教が命をかけるほどのものではない!という常識を生んだ。塩野氏は「日本人は宗教に免疫になった」と表現する。免疫とはつまり無関心のことだ。教会は信長の庇護のもと成長した。だがやがて社会は宗教に免疫になる。無関心。それは信長の偉大な功績が生んだ副産物だ。教会はとても厄介な怪物と戦うことになってしまった。
1)石山合戦(いしやまがっせん):浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。一五七〇年(元亀元年)から一五八〇年九月十日(天正八年八月二日)まで。本願寺法主顕如が大坂の石山本願寺に篭って戦った。石山戦争とも。
14)信長による教会庇護 2012.1.22
狩野元秀画
<一五六九〜一五七九年のできごと>
信長はイエズス会宣教師と会った。一五六九年。衆人環視の二条城建築現場だった。信長は質問した。「そんなに遠い国から来たのはどういう動機か」「ただそれだけのために、これほど長い道のりを航海し、はなはだ大きな考えるだけでも恐ろしい色々な危険を自ら進んで引き受けたのか」。そのとおりだ、というフロイスの答えにひどく喜んだ。そして、群衆に紛れた僧侶たちに向けて大声で言った。「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら伴天連たちのごとき者ではない。彼らは民衆を欺き…虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしい…予はすでに幾度も彼らすべて殺害…しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため…彼らを放任しているのである」と。
仏教は政治の中枢に食い込んでいた。既得権を守るためなら何でもした。耶蘇(やそ)教は日本を滅ぼす。忌わしい宗教だ。排斥していた。信長は仏教勢力を何とかしようと考えていた。天下を真に掌握するためだ。新しい教えの到来により、既存勢力の専制支配がつき崩されることを願っていた。天台宗の日乗上人(にちじょうしょうにん)と宣教師たちによる宗教論争が行われた。信長と家臣三百人を前にして。宣教師側の圧勝だった。敵わぬと知った日乗は激高。琵琶法師ロレンソ了斎を斬ろうと刀を取った。その醜態が都で噂になる。日乗は面目を失う。僧侶の中には贅沢や色欲に溺れる者も多かった。それとは違う宣教師の姿と行ないを人々は見た。
裏切りが当然という下克上の世だった。だがキリシタン武将は、決して主君を裏切らなかった。勇猛果敢で死を恐れず強かった。信長は高山右近らキリシタン大名を厚遇。右近は荒木村重(むらしげ)謀叛の時に立派に振る舞った。また信長は論議を好んだ。宣教師らの知性を愛した。安土でも多数の武将の前で、オルガンティーノやロレンソと三時間以上も話した。欧州から日本に来た道を地球儀上で示せとオルガンティーノに言った。オルガンティーノが海路を示す。こんな遠い道を来るのだから、「汝らはなんら善事をしない盗賊か、あるいは反対に汝らの説教にはなにか偉大なものがあるに相違ない」と信長は言った。「日本人の魂を悪魔から奪い、天主である創造主に返す盗賊だ」とロレンソが答える。一同は笑った。ただ信長はフロイスに向かって「予はおまえたちの神を信じない。日本の神も仏もだ」と言ったという。信長のキリスト教保護。それはひとえに政治的な目的のためだった。だがその庇護のもと、教会は急成長を遂げる。
1)二条城:信長によって建設された、京都における室町幕府十五代将軍足利義昭(あしかがよしあき)の居城。
13)フロイスの日本史 2012.1.15
横瀬浦公園のフロイス像
<フロイスの日本滞在期間、一五六三〜一五九七年>
フロイスは有名である。大著「日本史」で研究者に貴重な史料を遺(のこ)した。多大な貢献をした。彼は後進のために執筆を命じられた。当初、書き直しを指示される。冗長、膨大に過ぎたからだ。だが本人は拒否。結局、原稿は世に出なかった。マカオの教会に留め置かれた。ずっと忘れられたまま原本は焼失。幸い写本が世界に散逸していた。それらは二十世紀に入って蒐集(しゅうしゅう)される。活字による出版は日本語版が世界初だった。一九七七年。
ポルトガル出身のフロイスが来日した。一五六三年。三十一歳だった。二年後に京都入りを果たす。一五六九年、信長に謁見し京都での布教許可を得た。人嫌いで名高い信長と十八回も面談。異例である。ヴァリニャーノが信長に、コエリヨが秀吉に拝謁した時も通訳として同席。秀吉ともたびたび面談した。六十五歳で死去。一五九七年。場所は長崎だった。
代表作「日本史」は細かい事実の記述に定評がある。観察眼にすぐれている。諸侯や武将の動向から庶民生活の実情、災害や事件など。その描写は客観的。日本人のタブーを恐れずに書いた。例えば、内裏(だいり)が貧乏。将軍が愚か。秀吉が欺瞞的。右手親指が一本多かったなど。日本人の口からは決して語られることはない。当時の日本のありさまが鮮明に見えてくる。他方、年代などは正確さを欠き、歴史的史料としてあまり信用できないとされる。上長ヴァリニャーノは酷評。「大いに慎重さに欠け、誇張癖があり、相当に軽率、かつ小心で些事にこだわり、中庸を保つことができない」と。都合の悪いことを隠した。書かないこともあった。迷信深かった。悪魔や奇蹟を大まじめに書いた。例えばミゲルという改宗武士の話だ。ザビエルは鹿児島で、彼に苦行の鞭を渡した。身体の薬として与えたのだ。その後ミゲルは、この鞭で多くの病人を治したという。フロイスの書いたこういう奇蹟は、日本では一切起きなかった。そうヴァリニャーノは否定している。
フロイスは、宣教以外のことまで口を出したコエリヨをサポート。軽率にも伴天連追放令が出るきっかけを作ってしまう。また「日本史」には彼の宗教的先入観が充ち満ちている。一部の人は辟易するだろう。フロイスの著作と宣教活動全体は、日本人を適切なキリスト教理解へ導くことに成功したか。日本にキリスト教を根付かせることに真に貢献できたか。残念ながら耶蘇(やそ)嫌いを増やしはしなかったか。日本史研究者には喜ばれた。だが判断は難しいだろう。
1)内裏(だいり):天皇のこと。
2)右手親指が一本多かった:秀吉の右手指は六本あった。他の資料でも確認されている。
12)ヴァリニャーノの適応主義 2012.1.8
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
<日本滞在、一五七九〜一五八二年>
日本と中国での宣教は他と全く違っていた。両国は欧州政治権力の外にあった。イエズス会は、西欧と同レベルの「飛び抜けて進んだ二つの文明」と遭遇。こうした背景のもとで、ヴァリニャーノは劇的に方針を転換する。当時、異文化に自然な尊敬を払うことなど、常識外の態度だった。特に、世界を分割して征服したポルトガル人、スペイン人には至難の業だった。ルネサンス人文主義を生んだイタリア人、その資質と教養を有する者にのみ可能だった。ヴァリニャーノ、オルガンティーノ。中国伝道で大きな役割を果たしたミケーレ・ルッジェーリとマテオ・リッチ。みなイタリア人だ。偶然ではない。
聖書の創造主は日本の神仏と習合できない。でも、西洋人とは違う日本人の思考方法、習慣、文化は尊重する。破壊しない。その中でキリスト教精神を育てる。日本を西洋化はしない。だが旧い日本に固執(こしつ)はしない。両者を融合し新しい日本文化を作る。これは後に「適応主義」と呼ばれた。今や世界標準の原則だ。それをヴァリニャーノが初めて、最も具体的な形で実行した。しかも日本で最も成功する。
彼は改革を次々に指示した。誰にでも礼節を尽くせ。日本語を覚え習慣を尊重せよ。日本人イエズス会士にもラテン語や欧州言語を教えよ。欧州出身の会士と同一待遇を与えよ。神学校や大学を作り、日本人に学ばせよ、など。上長とはいえ、新参の若いイタリア人への風当たりは強かった。執拗な反対にあった。特にカブラル、フロイス、コエリヨのポルトガル三人組から。何も変える必要はない。無駄遣いだ。ただし、具体的な順応と適応は非常に難しい。特に衣食住の習慣は不可能に近い。トーレス、アルメイダ、オルガンティーノは肉を食べなかった。お粥と味噌汁と大根の葉で満足した。日本人の着物を着た。誰もが真似できたわけではない。しかも時代は小氷期。温暖な地中海出身者には、日本の寒さが堪(こた)えた。
とまれ日本の教会の危機は去った。彼の方針転換による。逆に最盛期を迎える。キリシタン史家の海老沢有道(ゆうどう)氏は評価する。ヴァリニャーノほど正当に、当時の日本を理解し、政治から文化、風習に至るあらゆる分野にわたって学的分析を加え、それに対処し、それとの融合点を見出し、多くの困難にもかかわらず、美事な成果を収めた人物は、他に見当たらない、と。今も私たちは問われるだろう。異質な人々に自然な尊敬を払えるか。しかも、猛烈な反対や常識に逆らってまで。
1)時代は小氷期:一二五〇年から一八五〇年頃までは、有史時代における小氷期と呼ばれる。火山の噴火が多発し、エアロゾル効果で日射量が減少。平均気温を押し下げたともされている。
11)ヴァリニャーノの日本人論 2012.1.1
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
<日本滞在、一五七九〜一五八二年>
イタリア人アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した。一五七九年。イエズス会総会長に直接任命された巡察師(じゅんさつし)だった。当時日本では教会が二百を超えていた。キリシタン人口は十五万人。数字は立派。期待は大きかった。だがすぐに判明する。日本の教会の前途は非常に暗い。彼は悲嘆に暮れた。まず宣教師たちは日本語を知らなかった。日本人の良さや習慣を、知ろうとも尊重もしなかった。
日本語は複雑だ。習得には長い時間が必要。日本人は煩瑣(はんさ)な言葉の習得に時間をとられている。進歩がない。「科学的」な白人はそう考える。今も昔も。しかしヴァリニャーノは違った。日本語は知られているかぎり最も優秀で、極めて優雅。ラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する。日本人の天稟(てんぴん)の才能と理解力がいかに大きいかがわかる、と書いた。
彼も日本人の欠点を認識していた。彼の見た大きな悪は、好色、裏切り、虚言、残酷、生命の軽視、泥酔だった。だが日本人の欠陥は社会環境の結果で、矯正が可能と判断した。そして長所を列挙する。肌が白く、礼儀正しい。有能で理解力に優れ、貧しいがそれを恥としない。清潔で、調和がある。名誉を重んじ、諸国王は一般に貧しく、人々の生活は欧州よりも平穏。日本ほど運命の変転が起こる国はないのに、忍耐強く、飢餓、寒さ、苦しみ、不自由を耐え忍ぶ。柔和で、感情や不平不満を表わさず、相手に不快な念を起こさせない。逆境に勇気を示し、苦悩を胸にたたむ。悪口を嫌い、訪問相手を喜ばせることのみ言う。日本人すべてが同一の教育を受けたかのような秩序と生活態度を示す。彼は結論づける。「日本人は優雅で礼儀正しく、すぐれた天性の理解力を有し…以上の点では私たちよりも優秀であることは否定しえない」。そして指導した。最も身分の低い者に対しても礼節を尽くすように。宣教師たちは日本語を修得し、習慣を尊重するように。
ヴァリニャーノは語る。ここには神についての知識も真の宗教もない…常に多くの悪と虚偽がある。しかし…いかなる異教徒も日本人ほど礼節をわきまえた謙虚な人間はいない。日本の人びとは、大いに理性に従う人びとである。彼の日本人観は、九州の「あるめい様」ことアルメイダ、京都の「うるがん様」ことオルガンティーノと同じだった。みな日本人を愛し、日本文化を深く尊敬していた。日本人からもこよなく愛された。謙遜と愛が日本人を変えていく。日本は佳き人々に巡り会えた。
1)巡察師(じゅんさつし):イエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師のこと。
2)日本の教会の前途は非常に暗い:他の要因もあった。政情が不安定だった。大量の改宗者が出ていたが、情勢の変化によって大量の転向者を生む恐れもあった。
10)高山ジュスト右近の祈り 2011.12.25
「高山右近」神戸淳吉著、さえら書房より。
<一五七三〜一五七八年のできごと。右近の生没年:一五五二〜一六一五年>
右近が信仰にめざめた契機は次の通り。彼と父友照は、摂津守護の一人高槻城主和田惟政(これまさ)の配下だった。惟政はキリスト教シンパだった。惟政は別の守護池田氏の部下荒木村重(むらしげ)に殺される。村重が池田家を乗っ取る。二年後の一五七三年、高槻新城主十七歳の和田惟長(これなが)は、反高山派家臣と諮る。高山父子を呼び出して殺そうとした。二派の武将たちは壮絶な斬り合いを演じる。右近は惟長に致命傷を負わせた。だが自身も瀕死の大怪我をする。右近父子は高槻城から反高山勢力を一掃。信長に仕える村重の配下となる。幼馴染みの惟長を死なせ、自分は奇跡的に九死に一生を得た。終生引きずるトラウマだ。右近その時二十一歳。家督を譲り受けた。彼は信仰を実践し、領主の務めを果たすようになる。
一五七八年、今度は別の試練が右近を襲う。村重が信長に叛(そむ)いたのだ。右近は信長への忠誠を破るのは不名誉で正しくないと反対。妹と一人息子を人質として村重に差し出す。逆に信長は宣教師オルガンティーノを利用し右近を揺さぶる。もし右近が高槻城を渡さなければ、全宣教師を城門前で十字架につける。領国のキリシタンを皆殺しにする。教会を破壊する。反対に書状を右近に届けて約束する。キリシタン宗門を保護する。摂津の半分を報償として与える、と。友照は信長の本心を垣間みるような強引なやり方に憤慨。断固拒否した。高槻を死守できなければ切腹すると右近を脅す。オルガンティーノが高槻城に来た。最後の和平交渉役だ。右近は祈りに沈む。城内勢力は友照に有利。父子で高槻を守れば、宣教師と信徒は処刑される。神父や教会を救うために信長と和解すればどうか。領地欲しさに武士の名誉と家族の命を犠牲にしたと言われる。信長に殺される可能性もある。オルガンティーノは十字架を抱き、泣きながら祈った。その知らせが右近に届く。長い祈りが終わる。彼はすべてを捨てる決心をした。高槻城主の地位と家督を父に返す。武士であることをやめる。家族を棄て、教会の一奉仕人になろう、と。平安が右近の心をつつむ。全てを捨てると人は本当に自由になる。紙の衣装をまとい、信長のもとに降(くだ)った。
予想外の結末が待っていた。右近は四万石に加増される。妹と息子と父親を取り戻す。教会も信長の絶大な保護を受ける。彼は生ける神の前に立った。その時、彼は最も大切な答えを選び取った。それは右近を愛し、右近のために十字架上で命を投げ出した救い主への応答だった。
9)愛すべきオルガンティーノ 2011.12.19
南蛮寺扇絵
<日本滞在、一五七〇〜一六〇九年>
イタリア人宣教師ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは天草の志岐(しき)に上陸した。一五七〇年。カブラルと同じ船だった。京都に赴きフロイスを助ける。ちょうど信長が台頭する頃だった。一五七七年から三十年にわたり、京都の宣教責任者をつとめる。安土城の完成、信長自刃後の混乱、秀吉の暴君ぶり、家康の天下。激動する日本の歴史を目撃した。一六〇九年、長崎で病没。七十六歳だった。
彼の日本人観はカブラルと正反対だった。日本人について書き送る。「彼等を野蛮人と見なし給うなかれ…私は国語を解し始めてより、かくも世界的に聡明で明敏な人々はないと考えるに至った…日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼等は喜んで理性に従う…我等一同よりはるかに優っている」「ひとたび日本人がキリストに従うならば、日本の教会に優る教会はない…我等の主なる神が何を人類に伝え給うたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい」と。また彼は自信にあふれて、日本語を使いこなし日本文化に適応することの大切さを次のように述べた。「日本に来るいかなるイエズス会士も、じかに言語を知ることなく、この素晴らしい美しさを持つ花嫁への愛を得ることはできない。また彼女のやりかたに合わせるのでなくては、その愛を得ることはできない。そうでない者はこの神のぶどう園からなにものも得ることなく、ヨーロッパに帰るだろう」と。
オルガンティーノは天衣無縫(てんいむほう)の日本好きだった。誰も悪く思うはずがない。うるがん様と呼ばれ、広く愛された。領主、家臣、領民、一向宗徒(いっこうしゅうと)らに福音は拡がる。一日に三百人、七百人という単位で洗礼を受ける人が起こされる。京、摂津、河内(かわち)など近畿地方の宣教はめざましい成功を収めた。信長だけでなく秀吉にも好かれた。追放令のあと、秀吉は彼に免じて、宣教師の活動を一時黙認したほどだ。ヴァリニャーノは巡察師として日本を訪問。その目で見た。オルガンティーノのやり方と好ましい性格が、日本人の心をいかに獲得しているか、を。九州にもその手法を拡げようと考えた。オルガンティーノは、ヴァリニャーノの日本人観と宣教政策に大きな影響を与えた。日本人を嫌悪軽蔑していたカブラルを更迭するに至る。しかし残念ながら、ヴァリニャーノがカブラルの後任に据えたのはポルトガル人コエリヨだった。もしオルガンティーノを選んでいたら。伴天連追放令は出たか。教会の運命と日本の歴史も変わったか。
1)一向宗徒(いっこうしゅうと):一向宗、つまり浄土真宗本願寺派の門徒、すなわち宗徒。
2)河内(かわち):いまの大阪府東部。
8)日本嫌いのフランシスコ・カブラル 2011.12.11
ポルトガルとスペイン間に結ばれた世界分割に関する条約:トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)
<日本滞在、一五七〇〜一五八三年>
スペイン、ポルトガルが新大陸でとった方法は?未開で野蛮な現地人を暴力で支配する。幼稚な子供を憐れむように導く。同化策、つまり西洋化だった。その同化策を代表するような人物が現れる。フランシスコ・カブラル。一五七〇年、善良なトーレスの後を継いだ。イエズス会の日本宣教責任者となったのである。カブラルは大の日本人嫌いだった。「日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことはない」「横柄で感情的」と書いた。その偏見は実体験から生れた。同時に欧州人の持つアジア人蔑視も関係していた。彼は、a)「所詮お前たちは日本人なのだ」などと、苛酷な言葉で侮辱し名誉を傷つけた。b)日本人伝道者を差別、c)ポルトガル人の習慣を強制、d)日本人の習慣を軽蔑、e)日本人司祭を禁止し、f)教育せず、g)自ら日本語を学ぼうとしない態度を貫いた。
日本人改宗者は堪えられなかった。特に誇り高い武士や元僧侶は。後年イエズス会から多くの棄教者、背教者が出る。禅僧ファビアン不干斎(ふかんさい)が一例だ。彼はすぐれたキリスト教布教書を著した有能な司祭志願者だった。だが後に寝返る。反キリスト教論『破提宇子(はでうす)』を執筆。人には謙遜を勧めるが伴天連自身は高慢。日本人を人と思っていないとぶちまける。若桑みどり氏は「この反キリスト教論はそれ以降の日本のキリシタン迫害に理論的な支柱を与えた…日本キリスト教会を破滅させた一因はポルトガル人の…差別的な態度だった」と述べる。
氏はカブラルについて「日本がきらいでそのことばも覚えようとしない人間がどうして日本に来て日本の布教長をやっていたのか…唯一思いつく理由は、彼はキリスト教とヨーロッパをなによりもすぐれていると信じて、それを未開の土地に教えるという義務感(崇高な)でやってきた…人種的に劣っていると思っているところへ恩恵をほどこす…その精神的姿勢がすべての根底だった」と評している。
一五八二年、ヴァリニャーノはカブラルを解任した。だが欧州人の精神的姿勢と日本人の耶蘇(やそ)嫌いはそれぞれ、代々受け継がれる。互いを傲慢と非難する態度が日本の教会を破滅させた。そればかりか、日本人と欧米白人の軋轢として二十世紀まで持ち越された。結果として日本は欧米に叩き潰された。欧米はアジアやアフリカの植民地を失った。今に至るまで何も解決されていない。日本人はキリスト教を拒絶している。その現状にも繋がるだろう。恐るべし傲慢の罪。
1)破提宇子(はでうす):一六二〇年。不干斎(ふかんさい)による著作。中に、「さて慢心は諸悪の根元、謙遜は諸善の礎なれば、謙遜を本とせよと人には勧めれども、生得の国の習ひか、彼らが高慢には天魔も及ぶべからず。高慢なる者共なるが故に、日本人を人とも思わず」とある。
7)真の武士高山ダリオ友照 2011.12.4
フロイスの日本史
<生没年、?〜一五九五年>
アルメイダは畿内を旅したことがある。高山友照(ともてる)を訪ねた。友照の劇的な回心後。一五六四年。アルメイダは彼について、「堂々たる体躯をもつ勇敢なる武人」と誉めた。日本人の歴史家からも評判が良い。明朗快活、愛嬌あり。上品な教養、領民への思いやり深く、多くの慈善をなし、慈悲心あり。高潔、廉直、正直、つまり「理想の武士」と。
彼は貧しい領民に慈善を行なった。比類なきものに、領民の死にあたっての礼節がある。どんな人間でも、名誉ある葬儀がなされる権利があるとした。十字架やイエスの名のついた緞子(どんす)で棺を覆った。武士や民衆がとりどりの提灯で行列を作る。墓場に向かった。身寄りのない貧しい者の葬儀もあった。その時は棺を息子の右近とともに担いだ。とるに足りない草民に対して領主が払った尊敬を見た。誰もが心を打たれた。信者も仏教徒も。武士たちは手にしていたロウソクを置く。鋤を手に取る。競うようにして穴を掘った。貴婦人たちも手に土を取る。死者の穴に投げた。それ以来、庶民の埋葬に対する支援は、武士たちの習わしになった。主君の振る舞いを見たからであった。戦争で死んだ兵士の寡婦や孤児は、たとえキリシタンでなくても面倒を見た。
高山友照の所領は摂津(せっつ)だった。高槻にある教会は多くの信者を得た。一五七七年、畿内の宣教師オルガンティーノは報告した。領内に八千人の信者がいる、と。翌年、高山友照、右近の親子に戦国時代独特の試練が襲う。直属の主君荒木村重(むらしげ)が信長に叛旗をひるがえした。村重か?もっと上の主君信長につくか?親子で立場を異にしたのである。結局、友照は村重について敗北。死罪が当然のところ信長に赦免されている。
最盛期といえるその前年のこと。フロイスはこの世における最も強い希望について質問した。高山友照は答えた。「一は決して主の御心を害さぬこと。二は死に至るまで恩寵と奉仕を保つこと。三は、たとえ自分の命を失うことがあっても、多くの霊魂を信仰に導くこと。四は、貧者、寡婦、孤児、よるべない者に善行を行うことのできる境遇でいること。五はローマの街を見ること」と。ローマには行けなかった。最後は事実上の幽閉生活。「主の御心を害さぬこと」と「地上の主君への忠実」という務めをいかに両立させるか。悩んだ末の結論が、首尾よい結果を生まなかった例ではある。しかし、右近、家族、領民に信仰と佳いものを遺した。残りの希望は充分に叶えられた人生だった。
1)緞子(どんす):先染めの経糸(織物の縦の長い方向の糸、たていと)と緯糸(織物の横幅方向の糸、よこいと)五本以上から構成される織物を繻子(しゅす)と呼ぶが、経繻子の地にその裏組織の緯繻子で文様を表した絹織物のこと。手触りが柔らかくて光沢が良く、重量感がある。
2)摂津(せっつ):いまの大阪府北中部大半および兵庫県南東部。
6)出でよ!現代の琵琶法師 2011.11.27
町田曲江筆
<生没年、一五二六〜一五九六年>
信長上洛前、京を囲む畿内に松永久秀(まつながひさひで)という有力武将がいた。日蓮宗の熱狂的信者だった彼に、比叡山僧侶はキリシタン神父を追放するよう要請する。松永は公開討論会を開くことにした。審判は、キリシタンの不倶戴天の敵である結城心斎(ゆうきしんさい)と、松永の家臣で仏教に詳しい高山友照(たかやまともてる)。二人は吟味役として、何か不合理あれば直ちに神父側討論者を断首する予定だった。教会は非常な危惧を覚える。呼び出されたイエズス会宣教師ヴィレラは行かせなかった。琵琶法師ロレンソ了斎(りょうさい)のみ派遣することを決定。肥前出身の彼は生まれつき視力が弱かった。法師として生計を立てていた。長門の山口で彼はたどたどしい日本語を聞く。路傍伝道中のザビエルだった。それ以来、ロレンソは見事な語り口で日本人多くを導くようになる。当時、仏教側の学者と議論できるのは彼だけだった。今回の討論会では教会の皆が覚悟を決めた。だが一番覚悟を決めていたのはロレンソ自身だっただろう。
ここで想像もしないことが起こる。吟味役の高山と結城が共に入信。討論相手の仏教学者まで信仰を持つ。ヴィレラが呼ばれる。何と彼らの洗礼のために。ロレンソはまず宇宙には作者がいること、人間の霊魂は不滅であること、人類の贖罪(しょくざい)について話し、討論を数日続けた。「日本史」の著者、宣教師フロイスは記す。「それまで信じていたのと全く違うことを聞き、多くの質問を発し満足すべき答えを得たとき、主は最初に高山に恩寵の光を分ちたまい」と。友照は家族に信仰を伝えた。一五六三年、長男に洗礼を受けさせる。その名は高山ジュスト右近。
討論、質問、議論を通して、「理にかなっている」と大勢の人が信仰を受け入れた。当時、キリスト教と科学は最先端を走っていた。逆に現代日本では、情緒や感性が重視され過ぎているのかもしれない。日本宣教と琵琶法師、この組合せに心は躍る。日本で福音の文脈化に用いられた、まさに日本的な人物。琵琶の儚(はかな)げな調べと壮大な叙事詩。それを感動的に伝える盲目の語り部。聖書の真理を大きなスケールで描くのにぴったりだったろう。教会の若者たちが自作の曲で主を証しするのを聴いて秘かに祈る。いつか壮大な物語を歌う曲が作られ日本中でヒットするように。宇宙のデザイナーと人類贖罪の叙事詩がスケール大きく歌われるように。日本の教会が、どんな議論にも耐えられる弁証学を身にまとった、命懸けでカッコいい、現代の琵琶法師を生み出すように、と。
1)畿内(きない):山城、大和、摂津、和泉、河内の五地域。現在の京都南部、奈良、大阪にあたる。
5)キリシタン大名大村純忠 2011.11.19
横瀬浦公園陶板
<生没年、一五三三〜一五八七年>
キリシタン大名は三十人以上いた。最初に洗礼を受けたのは大村純忠(おおむらすみただ)だった。島原有馬家出身の純忠は、大村純前(すみさき)の養嗣子(ようしし)となった。ザビエルが隣国の平戸(ひらど)に来たその年、十七歳で家督を継ぐ。その頃の肥前は、佐賀に龍造寺(りゅうぞうじ)氏、平戸に松浦(まつら)氏がいた。どちらも大村領を狙っていた。純忠は隣国の侵略を防ぐ戦いに明け暮れた。彼が改宗した理由は、ひたすら領土の繁栄とその安泰のためだったという。当時、平戸が安全でなくなった。そのためポルトガル人は新しい港を探していた。純忠は横瀬浦(よこせうら)を提供。宣教師たちに住居も用意。この政策は成功した。南蛮貿易で財政は豊かになった。最新武器を入手。国防に役立てた。横瀬浦が焼き討ちになると、寒村の長崎をポルトガル人に提供。イエズス会に教会領として寄進した。長崎港が大きく発展する礎を築く。
どうすれば良いキリスト教徒になれるか。彼はパードレから一所懸命学んだ。家臣らとともにコスメ・デ・トーレスより洗礼を受ける。一五六三年、三十歳だった。領民にも改宗を奨励。最盛期には信者数六万人を超えた。紋所は白い地球に緑でJesusの刺繍。その下に捨て札INRIのついた十字架と三本の釘が美しく配置されていた。武将たちは全員が頸にロザリオと十字架をかけた。甥の千々石ミゲル(ちぢわみげる)は、純忠の名代として天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)の一人になった。ただ、純忠の信仰は原理主義的だった。領民の改宗も半ば強要。領内の寺や神社を焼打ちにし、墓所も破壊するほど。
彼の特徴を物語るエピソードもある。家臣に対し次のように語った。「この世の何をもってしても信仰を捨てない。たとえパードレ全員が信仰を捨ててもわたしは捨てない」と。高禄の家臣とその家来が死に、沢山の人々が捕虜になった。その時、純忠は喜んで身代金を払い、寡婦、子供たちと家来らを救い出した。この時に救い出されたある家来の長男は、優れたキリシタンとなり迫害下でも棄教しなかった。改宗後、彼は妻以外の女性と一切関係を持たなかった。一国の領主としては大変珍しかった。以上のどれをとっても、彼が本物のキリスト者だったことをうかがわせる。秀吉の九州征伐では秀吉側につき、純忠は本領を安堵されている。一五八七年、五十四歳の生涯を閉じた。伴天連追放令(ばてれんついほうれい)が出る前だった。入信の動機と原理主義的行動の是非はある。しかし、たとい迫害の嵐の時代まで生きながらえたとしても、誰も純忠から信仰を奪えなかっただろう。
1)養嗣子(ようしし):後継者がおらず、家督を継ぐものが不在の場合、跡を継ぐもの、すなわち「嗣子」を養子として迎えた時に、このように呼んだ。
2)平戸が安全でなくなった:一五五〇年にポルトガル船が初めて平戸に入港。それからほぼ毎年来航を続けた。一五六一年、ポルトガル人船員と平戸住民との間に紛争が発生。宮ノ前事件と呼ばれた。それを発端として、来航ポルトガル人の安全が保障されなくなってしまった。
3)横瀬浦(よこせうら):長崎県西彼杵半島北部にある港。街が形成され教会もできたが、反対者の焼討ちにあってしまう。もっと南の福田浦に移ることにしたが、大型船の寄港には適さなかったため、最終的に長崎の港が選ばれる。
4)パードレ:神父のこと。ポルトガル語。
5)Jesus:イエス、イエス・キリスト。
6)INRI:IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMの略。ラテン語。ユダヤの王、ナザレのイエス。キリストの十字架刑において、この罪状書きが掲げられた。
7)ロザリオ:カトリックで祈禱時に用いる数珠。
8)伴天連追放令(ばてれんついほうれい):一五八七年七月二四日(天正十五年六月十九日)に筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において豊臣秀吉が発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制の文書。伴天連とはポルトガル語でパードレ、神父のこと。
4)大友宗麟の生涯 2011.11.12
瑞峯院所蔵
<生没年、一五三〇〜一五八七年>
宗麟(そうりん)は出家後の名。もとは義鎮(よししげ)だった。彼は海外貿易による経済力、優れた家臣、巧みな外交により版図を拡げた。最盛期には九州北三分の二、豊後、豊前、肥前、肥後、筑前、筑後の六カ国を支配。島津氏と覇を競った。歴史家は分析する。彼は野心的、冷静、冷血、策略家。宣教師を優遇したのは商業誘致のため。改宗はその結果だ、と。他方、絶賛の声もある。「あっぱれ天稟(てんぴん)の才に恵まれ、珍しく正しい人であった」と。義鎮十六歳の時、ポルトガル商人が来航した。義鎮は、異人たちを殺し財産を奪えと唆(そそのか)された。だが逆に、彼は助ける。遠方から来た外国人を、罪も理由もなく殺すべきではないとした。助けられた一人は義鎮の弟の鉄砲傷を癒す。彼がアルメイダの医術に信頼し、病院に土地を与え、慈善を奨励した理由の一つだろう。また、天正遣欧少年使節(てんおうけんおうしょうねんしせつ)の一人伊東マンショは親戚筋にあたる。国際感覚豊かだった。
別の逸話もある。義兄に田原親賢(ちかかた)がいた。その婿養子親虎(ちかとら)が入信する。親賢は「親虎に棄教させよ。さもなくば直ちに教会を破壊しみな殺しにする」と脅す。武装した兵士が到着した。信仰の強い人が死を覚悟し、教会に集った。やがて信仰の弱い人や、煮え切らない態度の人たちも加わる。中に紛れ込んでいた仏僧らは言った。「これほど自ら進んで我が身を死に捧げるこの人たちは、死後に期待する至福をもう見ているように思われる。われわれもその至福にあずかるために信者になろう」と。そこに宗麟が来る。「信仰のことは自由にして各人もっともよしと思うものを選ぶべし」「会堂は自分の保護下にある。反対するならその者の首を斬る」。そう宣言して難題を解決した。
宗麟は洗礼を受ける。四十八歳だった。その時に振り返った。この教えは予にふさわしいものに思われ、胸中ではよいものであると認めてはいたものの、国を治める者の責任と、日本仏教の奥義を究める努力をしてからにしようとして、洗礼に踏み切らなかった、と。同じ年、日向(ひゅうが)をめぐり島津氏と戦った。十字架を旗印にキリシタン王国建設をめざした。だが結果は手痛い敗戦。仏教寺院を破壊し、自軍仏教支持派武将たちの反発にあったためだ。大友陣営はこれを機に崩壊。晩年は秀吉傘下の一大名となる。一五八七年、五十八歳で病没。戦乱のなか夢破れた人生だった。だが宗麟は祈りつつ静かに逝った。死にあって人は何も持って行けない。魂を委ねるべき方を知っている。それで充分だった。
1)豊後(ぶんご):いまの大分県の大部分。中津市、宇佐市を除く。大分県東部、中央部、国東半島など。
2)豊前(ぶぜん):いまの福岡県北九州市東側、筑豊地方東側、京築地方、および大分県北部の中津市、宇佐市にまたがる地域。
3)肥前(ひぜん):いまの佐賀県、長崎県地方。
4)肥後(ひご):いまの熊本県地方。
5)筑前(ちくぜん):いまの福岡県西部。
6)筑後(ちくご):いまの福岡県南部。
7)天稟の才:天から授かった資質。生まれつき備わっているすぐれた才能。
8)日向:いまの宮崎県。
3)ルイス・デ・アルメイダ 2011.11.5
西洋医術発祥記念像
<日本滞在は一五五二〜一五八三年>
日本でもっとも慕われているポルトガル人は誰か?本書の答えはルイス・デ・アルメイダである。一五ニ五年頃リスボンに生まれた。ユダヤ人の血を引く改宗カトリック教徒が両親だった。高度な教育を受け、外科医となった。博識だった。ユダヤ人の血筋ということだけで差別を受けた。イベリア半島は居心地良くなかった。彼は商人に転じ、東洋に繰り出す。冒険心が駆り立てたのだ。時は大航海時代。インドのゴア、マカオを結ぶ航路を利用した貿易で、巨万の財を築く。一五五二年、マカオから船に乗り、アルメイダは日本に降り立つ。まだ二十七歳。ザビエルが鹿児島に上陸したわずか三年後である。
ここで転機が訪れる。信仰が覚醒した。日本で活躍を始めていたイエズス会の宣教師たちとの接点がきっかけだろう。一五五五年、精神の修養のためイエズス会に入会し、豊後(ぶんご)にとどまった。儲けたお金を寄進して教会を支える。私財を投じて府内(ふない)に病院を建てる。もちろん最先端西洋医学に基づく日本初の病院だ。体系だった医学教育も行なった。ハンセン病の施設を作る。また孤児院も開設する。当時、ザビエルが日本の三大悪習慣と説教したのが「偶像崇拝、男色、間引き」だった。特に嬰児殺しの風習に心を痛めたアルメイダは、豊後を治めていた大友義鎮(よししげ)にかけあうなど奔走。貧しい母親が秘かに赤ん坊を連れて来られるように施設を作った。いわれない非難を浴びた。「赤ん坊を集めているのは食うためだ」と。こうしてアルメイダは商人をやめる。施し、医療、教育、子育て支援を行ない、やがて宣教に専念するようになる。
相次ぐ戦乱のため物価は高騰。飢餓が蔓延した。命は木葉のように軽い。明日をもしれぬ生き方を余儀なくされた。身分は問わなかった。貧しく果敢(はか)ない時代だった。宣教師の多くは日本の庶民と同じものを食べた。そのためかアルメイダはしょっちゅう病気をした。日本人に看病してもらった感激を綴り、本国に送った。彼ほど多くの人を信仰に導き、日本人に慕われた宣教師はいなかった。コスメ・デ・トーレスは、アルメイダを敢えて宣教が困難とされた地域に派遣した。現在、九州各地にアルメイダの銅像や記念碑が建てられいる。
小説の才能があれば、十六世紀の日本を舞台に選ぶ。アルメイダにも登場してもらおう。彼の回心、旅、出会い、苦難、歓び、信仰を描く。日本と欧州世界の歴史的な出会い、日本福音宣教の輝かしい足跡とその後の悲劇を背景に。
1)府内(ふない):現在の大分市。
2)間引き:生まれた赤ん坊をすぐに殺すこと。嬰児殺し。
3)大友義鎮(よししげ):のちの大友宗麟(そうりん)。
2)佳き後継者トーレス 2011.10.30
http://www.manresa-sj.org/stamps/1_Torres.htm による。
<日本滞在は一五四九〜一五七〇年>
コスメ・デ・トーレスはバレンシア出身だった。一五四六年、東南アジアのモルッカ諸島で運命的な出会いを経験する。ザビエルである。彼の情熱に共鳴したトーレスはインドのゴアに同行。イエズス会に入会する。三年後の一五四九年、ザビエルらと鹿児島に上陸。一五五一年、日本を去ったザビエルの後を継ぐ。日本宣教の責任者となり、山口、九州各地で宣教を続けた。
戦国時代の宣教は困難を極めた。せっかく教会を建て信者が増えても、下克上や隣国との戦争などで庇護者を失った。教会が焼かれる。安全な地に避難することを余儀なくされる。領主が心変わりして禁教となることも度々。だがトーレスは日本人信徒の協力を得た。若い宣教師たちを育てた。社会事業を起こした。貧しい人は信者か否かを問わずに助けた。仏僧たち知識人の議論に答えた。大名や家臣にも福音を伝えた。政情不安定な中、信徒の数は徐々に増加した。一五五九年、念願の京都宣教を開始。信長上洛が一五六八年。畿内(きない)の治安は安定した。宣教が軌道にのるちょうどその頃だった。トーレスは天草で死去。一五七〇年だった。
当時欧州人にとって、新たな宣教地に住む現地の住人とはどんな存在だったか。支配し、教化し、同化させるべき人々だった。だがトーレスは日本文化を尊重した。肉食をやめた。質素な日本食を食べた。日本の着物を着て暮らした。欠点を受けとめた。その上で、日本文化や日本人の優れたところを認めた。日本人を愛し支えた。イエズス会内部にも反対者がいたほど。画期的だった。美しい話が残っている。一五五七年のクリスマスのあと、豊後のある村に信者らを尋ねた。厳寒の中トーレス一行の食べ物が尽きた。ひとりの極貧のキリシタン老女が非常に感激し、彼らを迎えた。食事はわずかに甘蔗(かんしょ)と蕪(かぶ)だけだった。しかし彼女はありあわせのわずかな藁を燃やして火を起こし、愛と喜びをもってパードレたちに何くれとなく心尽くしをした。そのため、道中の難儀はことごとく変じて喜びと化したほどだった。
トーレス来日時、一人の信者もいなかった。一つの教会もなかった。だが二十一年後、京都、堺、山口、豊後、博多、肥前、肥後に多くの教会と信者が誕生していた。ひとえにトーレスたちが働いたおかげだ。ザビエルの夢はトーレスが叶えた。ザビエルほど偉くない。評価もされていない。だがむしろ、トーレスに強く惹かれる。大切な一事(いちじ)を託され、そして見事に成し遂げたからだ。
1)畿内(きない):山城、大和、摂津、和泉、河内の五地域。現在の京都南部、奈良、大阪にあたる。
2)パードレ:神父のこと。ポルトガル語。
1)失意のザビエル 2011.10.23
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/xavier500/index.htm による。
<日本滞在、一五四九〜一五五一年>
バスク人フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する。一五四九年。神父コスメ・デ・トーレスら数名が同行した。薩摩の大名島津貴久(たかひさ)に謁見。宣教許可を得た。だが仏僧との論争の後、貴久が禁教に傾く。そのため京を目指す。平戸(ひらど)の松浦(まつら)氏のもとで宣教。山口では許可が得られないまま辻説法をした。堺を経て入京。天皇と将軍足利義輝(あしかがよしてる)への拝謁を希望する。だが叶わなかった。滞在わずか十一日。失意のうちに京を後にする。平戸に戻った。献上の品々を携えて再び山口に入る。大内氏の許可を得る。二ヶ月後、ザビエルは豊後に向う。山口はトーレスに任せた。大友義鎮(よししげ:のちの宗麟)の保護を受けつつ宣教。日本滞在二年あまり。ザビエルはインドのゴアに戻った。そこから中国を目指す。明の入り口の島まで来た。だが入国は果たせず病死。一五五二年。四十六歳だった。
ザビエルは日本人を高く評価した最初の西洋人とされる。日本人は非常に理性的である。好奇心が強く、理屈の通ったことを好む。知性ある僧侶が多く、言語が統一されている。好意的だ。他方ザビエルの書簡には、異なる思いが多く見て取れる。仏像が礼拝されるのを嘆いた。女犯(にょぽん)と男色(なんしょく)に現(うつつ)を抜かす仏僧を忌み嫌った。日本人の議論好きに辟易し、「ほんとうにうるさくつきまとう人たちです」と愚痴を述べるほど。国家の長たる天皇に謁見することも、布教許可を得ることもできなかった。この現実こそ最大の失望だった。彼は中国を目指す理由を述べる。「中国は…平和で、戦争はまったくありません。…そこは正義がたいへん尊ばれている国で…中国人はきわめて鋭敏で、才能が豊かであり、日本人よりもずっとすぐれ、学問のある人たちだと言われています」「中国は平和ですぐれた法律によって支配されている国で、たったひとりの国王に完全に従っています」。
戦国時代の混乱の極みに来て、失意のまま日本を去ったザビエル。彼はまさに命懸けだった。困難の中で福音の種を撒き始めた。偉大な功績だ。だが彼の目標は日本だけではなかった。理想に燃えてインドに到着。インド各地とモルッカ諸島で伝道。ヤジローという日本人に出会う。日本に対する熱烈な興味を持つ。次に中国への幻想を抱く。理想と行動の人だった。日本人を高く評価した。だがそれ以上に、欠点と日本の現実に幻滅した。残念だ。願わくは日本人の佳さを、もっと知った後で逝ってほしかった。種が芽生え花咲き結実するのを、たとい見ることがなくても。
1)ザビエル:Xavier、ポルトガル語でシャヴィエル。現代スペイン語ではJavier、ハヴィエル。Chavier、Xabbierreとも綴られるという。
2)ヤジロー:アンジローとも。鹿児島出身。一五四七年十二月、マラッカでザビエルに出会う。日本に関する知識と日本語を教えた。インドのゴアで洗礼を受ける。他二人の日本人とともにザビエルらに同行。ジャンク船でゴアを出発。日本を目指す。一行を案内して鹿児島県坊津(ぼうのつ)に上陸。一五四九年八月、鹿児島市内に入った。ザビエルらの通訳を務める。