(9)ふくしま、東日本大震災 OWL のひとりごと
東日本大震災( I )ヒューマンエラーと原発
ヒューマンエラーと原発 2011.4.17
福島第一原発事故後の航空写真
ヒューマンエラーと原発
かつて日本では、医療事故のうちヒューマンエラー(患者取違え、健康側臓器の摘出、医療器具の置忘れ、誤投与など)は、医療者が起こす筈がない「想定外」のこととされた。起こしたら犯人として罰するだけだった。それで対策を立てたつもりでいた。
最もマネジメントしなければならないリスクをマネジメントしない状態が永く続いた。だが被害者はあとを絶たなかった。
多くの犠牲を出してしまったが、その反省に立って、現在はずいぶん改善されてきた。つまり、ヒューマンエラーは確実に起こりうる。そういう前提で、複数の医療者によるダブルチェックなど各種の対策が立てられるように変化してきた。まだまだ不十分というご指摘もあるだろうけれど、である。
今回の原発事故も、甚大な被害と代償を支払うことになって初めて、抜本的な対策が求められようとしている。残念でならないが...。
そもそも論から云うと次のようになる。あんな高さの津波など来る筈がない。バックアップ電源が働かなくなるなどという事態が来る筈がない。そういった「想定外」の事情のために、世界を揺るがす大惨事になってしまった。今となれば「あと知恵」だが、システム設計思想自体の不備がこんなに大きく深刻な事態を招いた。
3月11日の夜に福島第一原発の電源喪失の第一報を聴いた時に非常に驚いた。直感として個人的に沢山のことを想像した。その時予想したことはその後ほとんどすべて起こってしまった。大気中へのベント、水素爆発、格納装置の破損、海洋への汚染水流出、大量避難民の発生、人体への被害、現場での困難な作業などなど。
ただ、原子爆弾が爆発したわけではない。外部被爆と内部被爆を峻別し、適切な対策を立てるなら、人間への被害を最小限に食い止められるだろうと予想した。
他方、予想できなかったことがある。風評被害である。科学的根拠に基づかない迷信的な忌避である。特に、海外の反応がことのほかヒステリックで感情的な印象だ。大地震と大津波の被害に対する暖かい同情と支援に感激したが、それも束の間、そのギャップの大きさに驚いた。
そして、それを煽る人たちの存在である。首相官邸+政府と東電とマスコミ非難に忙しい人々も含めてのことである。危険をあげつらう人はある種の人々の中ではいつの世でも人気者である。環境ホルモンもダイオキシンも。
彼らは首相官邸+政府と東電とマスコミのミスを数々述べ立てて、「こんなに危険なのに彼らは隠しているんですよ」「これから多くの子供たちに癌が発生します」「すでに手遅れです」「チェルノブイリでは100km以上離れたところで最も多くの被害が出ています」「彼らの言うことを信じてはいけません」「彼らこそ風評被害を生んでいる原因です」「彼らの仕事を取り上げて危機管理チームを作る以外にありません」「行動を起こすとしたら今です」などと述べる。
彼らの言うことに真実が含まれていないわけではない。特に飯館村の避難指示が未だにないこと、屋内退避指示から来る混乱、モニタリングの不十分さとそれがもたらす混乱や風評被害などに関しては、政府が批判されてしかるべきだという意見に賛成である。
しかし、彼らのレトリックに引っかかってはいけないと思う部分もある。外部被爆と内部被爆、確定的障害と確率的障害、すでに起こってしまったこととこれから防げることをいろいろと織り交ぜて危機を訴えているところである。聴く者の心証をある方向に持って行こうという意図がありありだ。
結果的に、全体としてバランスの欠けた誤った情報となっている。「真実だはこれだ」と言っておきながら、科学的には疑わしい「危機だ」「大変だ」という印象を聴く者に抱かせ記憶に残そうとする。これが風評被害を煽っているのでなくて、何なのだろう。聴いた第一印象である。
当たり前だが、汚染された食べ物を口にしてはならない。汚染された水を飲んではいけない。一度でも入って来たらダメか?そうとも限らない。正確には、体内に入る量を最低限にしなくてはならない。
自然放射線というものがある。自然界には一定量の放射性同位元素が含まれている。人工的に汚染されたものを口にし続けてはいけないという意味なのである。それで、内部被爆による小児甲状腺癌などの発症は防げる。
必要なのは必要十分な食品飲料水のモニタリングである。基準値を超える農作物や水産物は出荷停止にする。それ以外は安全である。今のところそれで納得する。モニタリングと出荷制限さえ正確に行われれば、一般国民の安心安全は十分と言えよう。
どこの誰が危機をさけぼうが、官邸や東電やマスコミが何と言おうが、福島第一原発事故は大変な事態であり、甚大な影響を及ぼしていることに変わりはない。それは最初から明々白々だった。大事なこととは何だろう?
大変な事態であっても冷静で落ち着いた対応をしよう、もう起きてしまったこととこれから立てられる対策を峻別して行動しようと考えるか、危険だ危険だと感情的になりヒステリックに買いだめや自己避難に走るか。選択が私たちに求められている。
そもそも、正直なところ、津波のあとの原発事故の収拾策に、それほどの選択肢があったとは思えない。日本人なら誰がやっても、放射能汚染水の海洋への流出や風評被害など大なり小なり防げなかったのではないか。
情報をきちんと公開していたら?世界の英知を集めれば別だった?この国のリーダーたちが他国の申し出を断ったから?もっと迅速に決断していれば?今批判している人たちがリーダーだったら?
少しは変わるだろう。ただ、劇的に変わるとは、正直云って、私には信じられない。別のもっと批判的なことを云う人たちからもっと別の批判が起こると確信するからである。
世界の日本に対する評判が今回の原発事故で地に落ちている(らしい)が、首相官邸+政府と東電とマスコミを叩くだけでは解決しないだろう。首相の首をすげ替えるだけでは回復しないだろう。下記の抜本的対策を含めた、永年にわたる血のにじむような努力が日本人全員に求められることになる。
やるせないが、何とも大きな重荷を背負わされたものだ。
抜本的対策を考えるとする。例えば、もっとリーダーシップのある首相を選んでいれば...というなら、教育と文化を変え、本当にリーダーシップを発揮できる人材を育て、憲法を変えるなどして議院内閣制をやめて首相公選制とするしか方法がない。何十年とかかるだろうが。
首相官邸+政府と東電とマスコミを叩くのは、叩く人たちの自由だ。私も不満はイッパイある。自分を安全な場所に置いて裁判官か神のように一刀両断にしたい気持ちはある。ただ、首相官邸+政府と東電とマスコミ叩きは、彼らに一定の仕事を任せることにした私たち、その現実を変えようとしなかった私たちに、ブーメランとして返ってくるに違いない。
原発を電力供給源の一つとする政策を選び、上記のような(あと知恵によるとしても)杜撰なシステム設計思想で繁栄を享受する道を選んだ。そのような人間の英知(浅知恵)を遥かに超えた大自然の驚異の前に、我々はひとたまりもなく吹っ飛ばされてしまったのだ。
人間のやることに100%はない。「ヒューマンエラーは起こる」のである。事故やエラーを起こした人を罰すれば済むという前時代的な発想はやめようではないか。代わりに、ヒューマンエラーや大災害が起こっても大丈夫な社会やシステムをどうやって築くのか。それが問われているのではないだろうか。
大地震と大津波にあった日本人は、秩序があり思いやりにあふれ勇気ある行動をとれた。それらは海外のどの民族国民にもない特質らしい。
我々は大災害だけでなくヒューマンエラーにも適切に対処できる社会やシステムを構築する能力が備わっているか?大地震と大津波のあとの日本人の行動は、その能力を持っていることの証や希望となっていて欲しい。心からそう願う。
(3210文字)
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東日本大震災( II )静かな勇者たち
静かな勇者たち 2011.5.7
福島県いわき市久ノ浜の光景
静かな勇者たち
まず、震災後の福島第一原発事故の経緯から振り返る。
地震で原子炉が自動停止。続いて襲った津波により全電力が喪失。原子炉冷却システムが完全にコントロールを失う。未曾有の大事故が始まった(3月11日)。炉心を守るため、圧力を下げる必要からドライベントと呼ばれる大気中への放射性物質放出を行う(12日)。
「水素爆発」やその他原因が特定できない火災が発生した(12〜16日)。日本政府は半径20km以内の住民の避難(12日)と20〜30km圏の住民の屋内退避(15日)の指示を出す。別途、米国政府などは自国民の80km圏外への退避を勧告した(16日)。
福島の原発事故はいつ終熄するか見通しもつかない。余震も追い打ちをかけた。直下型が増え、特に4月11日の大きな余震は、住民全てに不安を与えた。本震では何ともなく、それまで持ちこたえていた屋根瓦が多くの家で落ちるほどだったという。
仲間の呼びかけに応じて、4月29日と5月3〜4日、私たちは被災地に入ってみた。場所は福島県いわき市。四倉、久之浜、湯本、勿来など。回復期・復興期のメンタルヘルスなどを担う医療支援チームの一員として参加させてもらう形をとった。
図1 いわき市全図と福島第一原発からの距離
いわき市は最北端が若干30km圏にかかっている。久之浜が32〜33km。しばらくの間、久之浜や四倉には誰も支援や物資輸送に来なかったらしい。住民や市の職員は、見捨てられ感を強く抱かざるを得なかったそうだ。
地元行政や教会の協力により、避難所巡り、フリークリニック、保育所での講演などを行った。住民の皆さんや責任を担う何人かにお会いできた。あるいは淡々と、あるいは涙ながらに、心の中の重荷をお話してくださった。私たちはそれをお聴きするだけだった。
「こんなところで言って良いことか分からないんですけど」と、あるご婦人が切り出した。「(16日以降)真っ先にいわき市からいなくなったのが医療関係者でした」「よく知識を持っている人たちが自主避難するのですから、ここは本当に危ないに違いないと思いました」と。
市内のある災害拠点病院は、院長が「決して撤退しない」と檄を飛ばしたこともあり、その役割を唯一、立派に果たした。しかし、そのご婦人は「あの病院も半数の職員がいなくなりました」「私たちは見捨てられたと感じました」と、悲しいお顔で心のうちを吐露された。
この話に私たちの心は痛む。被災地から戻った今も、重く自分たちの心にのしかかっている。自分の職務とは何か?自ら率先して避難し、安全は自ら守るよう人々に呼びかけることか?それとも危険を承知で留まり、ニーズのある方々と共に歩み支援を継続することか?
目に見えぬ放射能の恐怖は、日本政府と原子力工学専門家が報道で言っていることを、全くデタラメで信用ならないと判断させた。特に、医療関係者は逃げ足が速かった。結果から言うと、まさに過剰反応だったのだろうか。
上述のご婦人の視点からどう見えるか?単純明快である。ニーズのある人々を置き去りにしてしまった。利己的な動機により職務放棄をした。我々医療従事者に弁解の余地はない。「申し訳ありませんでした」と頭を垂れる他はあるまい。
今回の大津波では多くの人が犠牲になった。他方、とっさの機転や指示で助けられた人々もたくさんいた。その人たちの機転を利かせたリーダーシップは大きい。名もない人々の勇気ある判断により、犠牲者を一人も出さなかった話が報道されている。
例えば、JR仙石線に乗務していた職員の話である。地震が起きた時に、列車がたまたま高台に急停車した。マニュアルでは乗客を列車外に連れ出すことが決まっていた。しかし、「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」と乗客の一人から提案される。
乗務員は、マニュアル度外視でその提案を受け入れた。しばらくして轟音(ごうおん)とともに津波が襲来。あっという間に家や車をのみこんだ。津波は線路の直前で止まった。冠水しなかったのは、電車が止まっていた丘の上だけ。全員が助かった(脚注1)。
とにかく高いところへ高いところへと誘導し、生徒全員を助けることができた釜石の学校の例もある。「津波てんでんこ」という、責任者の指示がなくても高いところ高いところにいち早く逃げ上がる言い伝えが徹底されていたそうである(脚注2)。
図2 さらに高台へと非難する釜石市の小中学生。校舎は
約10分後に津波に呑まれたが、小中学生は全員助かった。
この他、悲しみとともに報道されたケースもある。
例えば、南三陸町役場勤務の遠藤未希さんである。街全体が津波にのみ込まれ、約一万七千人の人口のうち、約一万人の安否が分からなくなるほどの被害を受けた。
遠藤さんは町の危機管理課職員。地震直後も防災対策庁舎に残り、防災無線放送で住民に避難を呼びかけ、津波に襲われるまで持ち場を離れなかった。彼女の切迫した「早く逃げてください」という声に促され、高台に避難して助かった町民も多くいたことだろう(脚注3)。
中国人研修生の安全を確保した後で、自ら家族を捜しに行って津波の犠牲となった佐藤充さんの例もある。佐藤さんは宮城県女川の水産加工会社専務で、地震が発生すると、寄宿舎近くにいた遼寧省大連出身の中国人女性研修生二〇人を高台の神社に避難させた。
女川の人口一万人のうち当時の行方不明者五千人余り。同町で研修していた中国人研修生百余人に犠牲者は一人も出なかったという(脚注4)。
津波被害と原発事故と状況は違うが、3月半ばの福島でも、自分の安全よりも職務を優先させた方々がいた。真っ先に逃げ出した医療関係者とは違う行動を選択した人々である。
市の職員のある方は、当時のことを振り返り内面の葛藤を語ってくださった。「自分たちも自主避難したかったが、職場放棄になるので踏みとどまった」「職務を遂行しながらも言いようもない怒りが込み上げてくるのを感じた」と。
私たちがお会いした教会責任者の方々も、異口同音に「踏みとどまることを選択した」とおっしゃっていた。救援物資の集積所として教会を開放し、地域の人々が救援物資を受けとりにくる場を提供した。不安を覚える方々の心の拠り所となった。
上述の災害拠点病院医師であり、また地域の教会責任者もされている一人の先生からもお話をうかがった。先生は、診療の傍ら各地の避難所を巡り歩き、急性期の頃から医療支援を続けた。しかも、教会を通して地域の方々を支援された。
いわき市だけではない。二〇〜三〇kmラインがかかる南相馬市の教会責任者である先生の場合もそうだ。自主避難地域であり毎日避難を勧められていたにもかかわらず、危険を承知で地域にとどまった。避難しない、また避難できない地域の方々に寄り添った。
こうした方々は、自分も被災者でありながら、他のニーズある方々を支援し続けた。自らの危険を顧みず、職務に忠実であられた。おそらくやり場のない思いをかかえ、心の中に大きな動揺を覚えながら、ここまでこられたのかもしれない。
これらの話には、自分に重く問いかけるものがあった。職務とは何か。自分が関わる人々の生活と安全を支えるとはどういうことを意味するのか。安全を自ら守ることとどう両立するべきなのか。
図3 大地震、大津波、原発事故の三重苦にあるいわき市久ノ浜市街地の光景。
地元の人々に国内、海外のからのボランティアが加わり、復興に励んでいた。
「静かな勇者」がそこにいた。大津波で自分を犠牲にして他の方たちを救った方に匹敵する方々がそこにいた。大津波に遭った時に、とっさの機転で近くの人々を救った方々に優るとも劣らない。名もない「勇者」が、福島には沢山いたのだった。
勇気あるのは、大声で政府や関係者を批判する人たちとは違う。もちろん、黙ってチェーンメールやMLで風評を煽る人々でもない。風評に煽られ、持ち場を逃げ出す人たちとも違う。当然、買い占めに走るのとも違う。
目に見えない恐怖との闘いに、じっと向き合いつつ取組む。いま自分の傍(かたわら)にいる隣人(となりびと)のため、しっかり持ち場にとどまる。なすべき小さなことに全力を傾ける。勇気ある人々とは、そういう方たちのことだろう。
今回、私たちは「静かな勇者」の何人かにお会いした。その声を聴いた。みな多くは語らない。しかし、言葉にならない苦悩や闘いに少しだけ触れた気がした。
震災後六十日になろうとしている。もう充分に闘った。疲れも出ているはずだ。癒され、十二分に報われても良いだろうに。だが、闘いはまだ続く。これからは、もっともっと理解され、支えられ続けるべきではないだろうか。
出会うことのできた「勇者」であるお一人ひとりのために祈りたい。そう強く思うようになった。フクシマの真実に少しだけ近づけただろうか。遅まきながらの被災地入りだった。
(3428文字)
脚注
1)http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110501/dst11050120060023-n1.htm
2)http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/281397.html
3)http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110503/dst11050300110000-n1.htm、http://www.youtube.com/watch?v=M-neskB4FOc
4)http://ameblo.jp/starfortune/entry-10833249382.html、
http://www.youtube.com/watch?v=B-YjaF4TpvA
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