(10)取材日記 OWL のひとりごと
取材日記( Ⅳ )五島列島 (壱)下五島(福江島)
2014.9.12-17
五島列島 (壱) 下五島(福江島)
二〇一四年九月十二日午後七時過ぎ、長崎空港に降り立つ。今回の取材旅行にちなんだストーリーをスナップショットとともに幾つか紹介しよう。
<下五島(福江島)>
工事中
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取材日記( Ⅳ )五島列島 (弐)下五島(久賀島、奈留島)
取材日記( Ⅳ )五島列島 (参)上五島(中通島、若松島)
取材日記( Ⅳ )五島列島 (四)上五島(小値賀島、野崎島)
取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (壱) 長崎市(壱)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (壱)
二〇一三年七月十四日午前九時半、長崎空港に降り立つ。今回の取材旅行にちなんだストーリーをスナップショットとともに幾つか紹介しよう。
<長崎市(壱)>
二十四人のキリシタンは京都で耳を削がれ長崎に移送された。一ヶ月かけて十字架への悲しみの道を進んだ。途中で自ら同行を申し出て捕縛された二人が加わった。一行は二十六人になった。二十六人は唐津(からつ)に到着。唐津城主で長崎奉行の寺沢広高に引き渡されることになっていた。広高は秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の兵站(へいたん)司令官として朝鮮に渡海していた。そのため弟のFasambro(フロイスによる。寺沢半三郎と言われている)が代行。唐津から厳しい山道を越え武雄(たけお)に到着した。二日の道のりだった。ただ伊万里(いまり)を通ったのか、もっと厳しい別の山道を辿ったのか不明である。武雄は当時塚崎と呼ばれていた。塚崎城(現武雄高校)で一泊。翌朝そこを後にし、峠を越えて彼杵(そのぎ:現在の東彼杵)に下りた。途中、一行は腰を下ろしてしばし休んだ。その時バウチスタ神父の目からは涙が流れた。番人の一人が気づき仲間と嘲笑った。パウロ三木は涙を拭くようにバウチスタに頼んだ。彼は何を思って涙していたのだろう。
一五九六年二月四日午後十一時すぎ、二十六人の切支丹を乗せた小舟が数艘、西彼杵半島の時津(とぎつ)に到着した。大村湾の対岸、彼杵から渡ってきた。彼杵を出たのは、武雄を出発した日の夕方四時頃だった。時津港にはいま記念碑が立っている。当時をわずかに偲ばせる。
昭和三〇年代の時津の浜辺
時津から長崎への道はほとんど平坦だった。午前六時半ころ、二十六人は最後の行程に出発。道を急がされた。
現在の長崎市内
北から南へ、爆心地周辺の浦上地区、
長崎県庁から長崎市役所にかけての中心部、
大浦天主堂やグラバー邸のある南山手地区があり、
西に稲佐山を望む
ようやく小休止できた場所は、浦上にあったサン・ラザロ癩病院だった。そこでジョアンそう庵とディエゴき斎は誓願を立てた。晴れてイエズス会修道士となったのだ。場所は現在の長崎大学医学部から山王神社のあたりのどこかにあったと推定されている。特定されてはいない。
爆心地に移設された浦上天主堂の一部。
サン・ラザロ癩病院の場所は、
爆心地からそう遠くなかっただろう
浦上天主堂
平和記念公園近くから望む
長崎原爆公園
原爆受難者名奉安
米軍による爆心地の杭
西坂公園入口
午前九時半ころ、二十六人は西坂の丘(現在の西坂公園)に到着。
長崎を一望できる丘で二十六人は十字架刑に処された。亡くなったのは十時から十一時の間。大きな壁に、船越保武氏の手による二十六人の大ブロンズ・レリーフ像が埋め込まれている。
西坂巡礼所の碑
二十六人のブロンズ像の裏面にあるのが、今井健次氏のモザイク壁画「長崎への道」という作品だ。殉教記念館に出入りする時に見ることができる。SURSUM CORDA 「心を高め」というラテン語が読める。殉教記念館とともに鑑賞。
殉教記念館の中の様子
ザビエルと母子を描いた版画
フランシスコ・ザビエルが
日本に滞在した期間は長くない
ただ初の宣教師の命がけの渡日
与えた影響は大きかった
殉教者の血がしみこんだ布
分析の結果、約四〇〇年前の
血液の存在が証明されている
聖歌の楽譜
広げると約九〇センチにもなろうかという横幅
アルファとオメガを囲む二十六本の十字架
アルファとオメガはイエスを、
二十六本の十字架は西坂の殉教者たちを表す
西坂公園の句碑
天国の夕焼けを見ずや地は枯れても 水原秋桜子
たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる 下村ひろし
イエズス会宣教師ルイス・フロイスを顕彰する碑が西坂公園にある。ポルトガル・リスボン出身のフロイスは十六歳でイエズス会に入会しインドのゴアに赴く。三十一歳で来日。盲目の元琵琶法師ロレンソ了斎とともに時の権力者、織田信長や豊臣秀吉に謁見。宣教の許可を得た。大著「日本史」を完成。宣教師の努力や信徒の活躍、教会の苦難と成長とともに、外国人から見た日本の政治、社会、風習、風物などをこと細かに記録した。天正遣欧少年使節に関する記録、二十六殉教者に関する記録も残した。彼が没したのは西坂の殉教が起こった翌年、一五九七年。場所は長崎市のコレジオ(トードス・オス・サントス教会に併設、現在の春徳寺)。六十五歳だった。
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取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (弐) 長崎市(弐)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (弐)
<長崎市(弐)>
現在の長崎市内
南蛮船来航波止場跡、
現在の長崎県庁付近をめざす
近くに出島の記念館がある。立ち寄った。
出島を偲ばせるアールのかかった水路
出島にちなんだ扇型のナンバープレート
デジマノキ
出島敷地内にある
シーボルトの画による紫陽花
妻の名、お滝さんにちなんで学名が付けられている
Hydrangea Otaksa
ハイドランジア オタクサ
於 出島記念館
ジャンク船
模型
ザビエル渡日の時にも使われた
こんな貧弱な舟で東シナ海を渡ってきたのだ
於 出島記念館
ポルトガル商船
風を待って一年に一回来航し、
一年に一回出帆した
当時の最新鋭帆船の模型
カラカ・アトランティカ号とのこと
於 出島記念館
長崎海軍伝習所の様子を描いた錦絵
現長崎県庁は明治維新の頃、
幕府の海軍伝習所だった
勝海舟も入所したことで知られる
出島の様子が鮮やかに描かれている
現在の長崎市中心部
当時は長崎市役所から長崎県庁までが岬になっていた
たくさんの教会が岬とその付け根の山の手に建てられた
南蛮船来航の波止場跡は、
長崎県庁前の県庁坂を西に降りたあたり
ポルトガル船は一五五〇年から平戸に来航していた。間もなく領主松浦(まつら)氏領民とのトラブルが発生してしまう。一五六二年からは、大村純忠の計らいで横瀬浦に寄港することになった。だが敵対者の焼討ちに遭う。横瀬浦の信者は迫害され港も破壊された。やむなく一五六五年に福田に移動。そこは良港ではなかった。福田にいたフィゲイレード神父が長崎を調査。イエズス会責任者、年老いたコスメ・デ・トーレス神父の下ごしらえにより、長崎開港の話が進んでいく。一五七〇年、大村純忠は親戚筋の有馬義純、家臣長崎甚左衛門、イエズス会の新責任者カブラルと協議。長崎開港の協定が成立する。実際のポルトガル船入港は翌一五七一年である。
南蛮船来航の波止場跡
南蛮船来航の波止場跡
波止場からは、イエズス会管区長ヴァリニャーノと天正遣欧少年使節の一行がローマに向けて船出。また高山右近や内藤如安ら切支丹が国外追放となったのも、この波止場からである。
現在の長崎市役所から長崎県庁のところまでは、長く延びた狭い岬(長いみさき、つまり長崎)になっていた。そこに町並みが作られた。島原町、分知町、大村町、外浦(ほかうら)町、平戸町、横瀬浦町の六町から成り、諸地方で迫害されていたキリシタンたちの安住の地を造ることにしたのだ。写真の図は稲佐山附近からの遠望として描かれたものだろう。
南蛮屏風に描かれた岬の教会
一六〇一年、岬の先端には教会が建てられた
これを人々は岬の教会と呼んだ
三階建てで正式名は「ご上天のサンタ・マリア教会」
岬の教会はイエズス会の本部でもあった
岬の教会跡から現長崎市役所方向へ、一直線に延びる道がある。いまフロイス通りと名付けられている。
フロイス通り右手に面して現長崎法務局がある。その手前の道をわずか行ったところに、ミゼリコルディア本部跡がある。慈悲の組、慈悲の兄弟会、慈悲仲間という日本初の慈善事業の助け合い組合である。信仰の実生活への現れは「慈悲の所作」として長崎の人々の中に根付くことになる。
隠れキリシタンのオラショ(祈禱)によると、慈悲の所作(十ふのささ)は、
1)餓えたるものに食を与え
2)渇したるものに者を飲ませ
3)肌えをかくしかねたるものによろい(衣類)を与え
4)病人をいたわり見舞い
5)あいきょうな(行脚の)ものに宿を貸し
6)捕はれ人の身をお(請)き
7)死骸を納める
という、しきしめ(色身、身体)に関する七つのことと、
8)人の(に)意見を加え
9)道なき(無知なる)ものに道を教え
10)悲しみあるものなだめ
11)折檻すべきものに折檻をし
12)恥辱を勘弁いたし
13)ホロシマ(隣人)の不足をゆるし
14)生死の人とありや(われらに)後(仇)をなす者がために
デウスを頼み奉る
という、スペリテ(霊)に関する七つのことからなっていた。
これは生月伝承の慈悲の所作十四ヵ条で、一五九一年加津佐版「ドチリナ・キリシタン(Christian's Doctrine)」の暗唱だという。
一六一四年に長崎の教会はすべて破壊された。一五八三年に始まったミゼリコルディアはその活動が一六二〇年まで容認された。だが一六二六年に厳重な弾圧が始まり、一六三三年には完全に解散した。餓死者、殉教者の数は計り知れないほどだった。かくて、長崎の町をキリスト教的愛徳の花で飾ったミゼリコルディアの組は、創立五十年で解散のやむなきに至った。だがキリシタンの「慈悲の所作」は長崎の人々の心に長く残った。
ミゼリコルディア本部跡から少しくだり、中島川にかかる常磐橋を渡り切った右手にサンアウグスティノ教会跡がある。アウグスティノ修道会系。
常磐橋の少し上流に有名な眼鏡橋がある
常磐橋からフロイス通りに戻りさらに市役所通りに出て先に進むと、長崎市役所別館が右手にある。そこにサンフランシスコ教会、修道院跡の碑が立っている。フランシスコ修道会系。
市役所通りの反対側に渡り、そこを進むとすぐに桜小学校校舎が見える。サンドミンゴ教会跡の碑が立っている。ドミニコ修道会系。
小学校校舎沿いに左に折れるとサンドミンゴ教会跡資料館がある。資料館入口。考古学的に貴重な遺跡に出会える。
排水溝跡
石畳跡
多量に出土した花十字紋瓦の一つ
資料館を出て左手山側に少し進むと長崎歴史文化博物館がある。その敷地内南側「イベント広場」に山のサンタマリア教会跡の碑が立っている。
公会堂前通りに下って春徳寺に向かう。市電(長崎電鉄)を利用する。少し戻って公会堂前停留所から乗るか、しばらく通りを進んで諏訪神社前停留所から乗る。蛍茶屋行きの電車だ。新中川町で降車。春徳寺を目指して山側へのぼる。ルイス・デ・アルメイダの顕彰碑が我々を迎えてくれる。長崎開港前の一五六七年、アルメイダが当地に来た。福音を長崎に初めて伝えたのを記念している。
アルメイダ顕彰碑の直ぐ上が春徳寺だ。門の向かって左手に、長崎初の教会であるトードス・オス・サントス教会(諸聖人の教会)跡の碑が立っている。一五六九年、アルメイダの後任ガスパル・ヴィレラ神父は、大村純忠の家臣長崎甚左衛門純景(ベルナルド)から使われていない仏寺を与えられた。それを改造し小さいながらも美しい教会とした。それがトードス・オス・サントス教会である。一五九七年、コレジオ(十年制大学校)・セミナリオ(中等学校)が、一時ここに移設された。その記録の文字も刻まれている。
西坂の二十六人殉教の地のすぐ近くに本蓮寺というお寺がある。その入口あたりにサン・ラザロ病院跡、サン・ジョアン教会跡の碑が立っている。このサン・ラザロ病院は、二十六人が小さな休憩をとったサン・ラザロ癩病院とは別ものだろう。
一六一四年、長崎の人口五万人のほとんどがキリシタンだった。これだけ教会があっても多すぎることはない。ただ迫害は同じ一六一四年に始まった。全教会が破壊されたり閉鎖された。長いキリシタン迫害の時代の始まりだ。だがミゼリコルディアの慈悲の所作と信仰は、迫害下にあっても長崎の人々の心の中に長く息づいた。一八六五年の歴史的「信徒発見」につながってゆく。
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取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (参) 長崎市(参)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (参)
<長崎市(参)>
長崎市中心部
西坂公園付近から長崎駅に歩き、
大浦天主堂のある南山手地区に市電で移動する
有名な大浦天主堂
一八六五年、歴史的な「信徒発見」の場となった
http://freephoto.artworks-inter.net/
旧羅典神学校
キリシタン資料館として公開されている
旧羅典神学校跡案内
江戸時代に掲げられた切支丹禁制の高札
はてれんの訴人 銀六百枚、いるまんの訴人 銀三百枚、立かへり者訴人 同数、同宿并宗門訴人 銀百枚の文字が読める。一六八二年から密告者への褒美は増額され上記のようになった。はてれん=伴天連(司祭)、いるまん=修道士、立かへり者=踏み絵を踏んで転んだ後に切支丹に立ち返った者、同宿=修行中の者、宗門=信者と解して良いだろう。
フランス人プティジャン神父
プティジャン神父は仲間とともに
長崎大浦に天主堂を建てはじめた
創立当時の大浦天主堂
一八六五年、大浦天主堂が完成。日本二十六聖人に献げられた。連日大勢の見物人が集まった。
一八六五年三月十七日、浦上村から見物人を装ったキリシタン十数名が来訪。プティジャン神父に話しかけた。プティジャンが母国フランスに宛てて書いた手紙が残っている。
「二時半ごろ十五名ほどの男女うち混ざった一団が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とは何やら様子が違っています。私は急いで門をあけ、聖所の方に進んで行きますと見物人も後からついて参りました。私が躓いてほんの一瞬祈ったと思うころ、四〇歳か五〇歳位の年ごろの婦人が一人、私の傍らに近づき、胸に手をあてて申しました。
『ここにおります私たちは、みな あなた様と同じ心でございます』
『本当ですか? あなた方は、どこの方ですか?』
『私たちは、浦上の者です。浦上の者はみな、私たちと同じ心を持っています』
こう答えてその同じ人がすぐに私に、
『サンタ・マリアのご像はどこ?(Santa Maria gozo wa doko ? )』と尋ねました。
私はもう少しも疑いませんでした。今 私の前にいる人は、日本の昔のキリシタンの子孫に違いないのです」
大浦天主堂わきにあるレリーフ
次々に名乗り出た浦上の信徒たち。次第に仏式の葬儀に出ることを拒みはじめた。長崎奉行所はついに取り締まりに打って出た。主な六十八名が捕縛されることになる。これが浦上四番崩れと呼ばれる大弾圧の発端となった。
明治政府によって改めて立てられた切支丹禁制の高札
明治政府も基本的な立場は変わることがなく、
厳しい弾圧が続いた
浦上四番崩れ
浦上村の人々は全国各地に流配された
地名に続く数字は流罪にあった人数、
括弧内は殉教者数を示す
三三九四人(三四一四名という説もあり)が全国に流配され、六一三名(同様に六六四名)が厳しい仕打ちと病気で亡くなり殉教者となった。キリシタンたちは流罪を「旅」と名付けたという。明治六年、西欧各国の非難をかわす目的で高札は撤去された。信者たちは、ようやく帰村をゆるされた。そして一八八九年、明治憲法で信教の自由がようやく明文化された。条件付きながらも自由が保障された。長い戦いのすえに勝ち取ったものだ。苛烈な迫害も信仰を根絶やしにすることができなかった。そこに希望と信仰の勝利を見ることができる。
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取材日記( Ⅲ
)長崎 平戸 生月島 (四) 平戸島・生月島(壱)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (四)
<平戸島・生月島(壱)>
長崎市を後にして西彼杵半島を北上。西海パールラインを通って佐世保市に向かう。
佐世保市を過ぎて少し左に入り、石岳展望台入口へ。車を降りて徒歩で展望台に向かう。気持の良い山道だ。
九十九島を一望できる。奇麗だ。小島と小島の間を遊覧船が進む。ここからの日没の様子は映画「ラストサムライ」でも使われたという。この日の夕暮れはあいにく雲が広がり、夕日は見られなかった。
平戸大橋を渡る前、そのまま直進し、北松浦半島から平戸港を望む岬に向かう。焼罪(やいざ)史跡公園という。
焼罪史跡公園
手入れが行き届いているとは言えず、
すこし残念だった
焼罪(やいざ)史跡公園からは、平戸瀬戸の対岸に平戸港、平戸城、カトリック平戸ザビエル記念教会などが一望できる。本公園に建っているのが、「日本のキリシタン一同と聖なる結婚をした」と言われるほど日本人を愛し、日本人のために働いたイタリア人宣教師の殉教碑だ。
カミロ・コンスタンツォ神父殉教碑
焼罪(やいざ)史跡公園にはイタリア人宣教師カミロ・コンスタンツォ神父を顕彰して碑が建てられている。神父は禁教令によりマカオに追放になった。一六二一年に日本に潜入。佐賀の不動山、唐津、平戸島、生月島で活動したが、翌一六二二年、五島に渡ったところで捕縛される。同年九月十五日、こんにち焼罪(やいざ、やけじゃ)と呼ばれるこの地で火あぶりとなった。その日、平戸に寄港していた英蘭連合艦隊の乗組員たちが大勢、処刑の様子を見に来た。神父は柱に縛られながら、日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、最後は賛美歌を歌いながら殉教したという。五〇歳だった。
なお、それに先立つ九月十一日、神父と行動を共にしていた同宿のガスパル籠手田(こてだ)は、長崎で斬首されている。
生月島から中江ノ島を望む
その向こうは平戸島の北部
神父に隠れ家を提供していたジョアン坂本左衛門(三一歳)と小舟を提供したダミアン出口(四二歳)は、平戸島と生月島の間に浮かぶ中江ノ島で斬首された。遺体は袋に入れられ海中に投棄されたという。一六二二年五月二七日。
六月三日、ヨアキム川窪庫兵衛(四七歳)。六月八日、ジョアン次郎右衛門(四七歳)。七月二六日、ガブリエル一ノ瀬金四郎、ジョアン雪ノ浦、パオロ塚本。これらの人々はコンスタンツォ神父を助けた信者たちだった。いずれも中江ノ島で斬首された。
一六二四年にはその家族にまで累が及ぶ。三月五日、ジョアン坂本とダミアン出口の家族が中江ノ島で処刑された。特に坂本の年長の子供たち三人は一緒に縄で縛ってもらい、首に別の袋を被せてもらった後、海中に投げ入れられたという。
中江の島は殉教者の島だったのだ。
平戸島(下)と生月島
二つの島に挟まれるようにして中江ノ島が浮かんでいる
生月島から中江ノ島が望めるところに
黒瀬が辻と呼ばれている場所があり、
十字架の碑が立っている
クルスの丘とも呼ばれている
一五五二年、生月島の領主である籠手田家の兄弟が、バルタサル・ガーゴ神父から洗礼を受ける。籠手田氏は実際には平戸に住み、生月に奉行の西家を送り込んでいた。一五五八年、ガスパル・ヴィレラ神父は平戸島、度島、生月島を巡回し、約一五〇〇名に洗礼を施した。奉行の西家もキリシタンとなった。ヴィレラ神父は大きな十字架を建て、そこに信者たちの墓を造った。
一五六一年、ルイス・デ・アルメイダは度島を訪問し、その後生月に立ち寄った。船の上から、その大きな十字架を見た。島の小高いところでクルスの丘と呼ばれていた。現在の地名、「黒瀬の辻」は「クルスの辻」が訛ったものと言われている。アルメイダは手紙で、生月島の人口二五〇〇人のうち、八〇〇人がキリシタンだったと書いた。
その後、コスメ・デ・トーレス神父はもっと大きな十字架を建てた。イエズス会修道士フェルナンデスが書いた報告によると、一五六三年正月、千人の信者が長い行列をつくり、みんな花輪を被り、聖歌を歌いながら行進し、クルスの丘の十字架のところに集まり、神に賛美を捧げ、十字架を称賛し、これを崇敬する理由についての説教を聴いたという。
だが、一五九九年、平戸領主松浦隆信が死去。息子鎮信が当主となると、一転してキリシタン弾圧が始まる。生月の領主ジェロニモ籠手田、バルタザル一部は、家族と家臣六〇〇名を連れ、密かに長崎に脱出。信仰を守るためだった。生月は鎮信の隠居地となってしまった。
黒瀬の辻殉教碑
アルメイダが見たのと同じところに今も十字架が立っている。一六〇九年、生月最初の殉教者となったのがガスパル西玄可だった。彼は籠手田氏の総奉行を勤めた人で、生月信者の総責任者だった。迫害の手が伸び、玄可はこの黒瀬の辻で斬首され、葬られた。妻ウルスラと息子ジョアンも連行される途中で処刑されたという。当時すでに十字架は取り壊されていたが、後に中江ノ島で処刑されたキリシタンたちも、舟で運ばれながらこの十字架に思いを馳せ、天に帰った。
黒瀬の辻殉教碑銘板
黒瀬の辻殉教碑の碑文
碑文の後半には次のようにある。
「黒瀬の辻の十字架は、こうして生月のキリシタンの信仰を養い育て、見守ってきました。そして迫害の嵐が吹き始め、目に見える十字架は取り去られた後も、『あの十字架のもので命を捧げたい』との願いは残りました。
一六〇九年、生月最初の殉教者となったガスパル西玄可とその家族は、この地で殉教し葬られています(※)。また、中江の島で殉教した多くのキリシタンたちも、十字架を心の中に思い浮かべながら、舟にゆられ、最後の祈りの中で『ここから天国は遠くない』という確信を得て、その命を神に捧げていきました。
わたしたちは、こうした生月の多くの殉教者たちの遺徳がこれからも讃えられ、その精神が子々孫々にまで心に刻まれていくことを、この記念碑建立の願いとします」
※ 取材者注:一五六〇年、生月島舘浦(たちうら)におせんという娘がいた。おせんはキリシタンとなったが、棄教を迫られて拒否。切り捨てられてしまう。おせんが生月最初の殉教者とも言えよう。
私たちはこうした事実を知らない。教えられて来ただろうか。否。まず無知を恥じて真実を知ろう。そして次のことを忘れないようにしたい。私たちの祖先は、一時期、無慈悲で苛烈な加害者、迫害者だった。今も記憶にほとんどとどめていない。自分たちと無関係の遠い昔の出来ごとと思っているのだ。
殉教者たちは、権力者たちを恨んで旅立ったのか?否。権力者たちを少しも恨まず、むしろ彼らの赦しを願って逝った。私たちが赦しと和解を求めるべき相手は誰だろう?捏造の歴史を押しつけて正しい歴史観を持て!とかまびすしい異国の人々に対してか?それより何より、まず真っ先に静かに眠る殉教者たちに対してではないか!
忘れていて本当にごめんなさい。赦してください。このように赦しを乞い、「これから、あなたがたの赦しの宣言を、世の人々に私たちも知らせます」と決意を言い表したい。
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取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (伍) 平戸島・生月島(弐)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (伍)
<平戸島・生月島(弐)>
平戸白石、平戸生月島博物館「海の館」を巡った。特に博物館は、隠れキリシタンの概要を知ることのできる貴重なひと時だった。
<ロレンソ了斎の故郷、平戸白石>
平戸島の白石港と生月島
平戸白石付近から生月島を望む
この湾の向こう側、生月大橋直前の岬のすぐ手前側に平戸白石港がある。十軒ばかりしかない貧しい集落だった。一五二六年、ここに一人の男の子が生まれた。片目は視力がなく、もう片方もぼんやりとしか見えなかった。少年は寺にあずけられ、琵琶を弾きながら古武士の物語を覚えた。彼は金属性できれいな声の持ち主であったものの、読み書きはできなかった。容貌も醜かった。あらゆる面で、彼はハンディキャップを背負っていた。しかし、彼には明晰な理解力、抜群の記憶力、豊富な知識、愛嬌のある性格、誰にも負けない機知、溌剌とした才気が備わっていた。彼は琵琶法師としての旅に出る。一五五一年、二十五歳の琵琶法師は、周防国山口でザビエルの路傍説教を聴く。彼こそ、後にフロイスとともに信長に謁見し、オルガンティーノとともに信長に愛され、秀吉にも可愛がられ、日本の宣教に卓越した働きをなしたイエズス会伝道士(いるまん)ロレンソ了斎だった。彼の説教には説得力があった。論争を挑まれても打ち負かされることはなかった。彼の説教により大勢の人が信仰に立ち返った。ロレンソなくして日本の伝道なし!イエズス会、日本の教会にとって、天の絶妙な配剤、恩寵だった。
<平戸生月島博物館「海の館」>
平戸生月島博物館・海の館
この博物館二階に、隠れキリシタンに関する資料が常設展示されている。内容に圧倒される。必見。
<生月島キリシタンの歴史概説>
西暦 | 和暦 | 出来ごと |
一五四九年 |
天文一八年 | ザビエル鹿児島に上陸 |
一五五〇年 |
天文一九年 | ポルトガル船平戸に初入港。ザビエルが平戸で宣教 |
一五五三年 | 天文二二年 |
ガーゴ、平戸で伝道。籠手田安経(ドン・アントニオ)入信 |
一五五八年 |
永禄元年 |
ヴィレラ、籠手田領の生月島南部で伝道 |
一五六一年 | 永禄四年 | アルメイダ、生月島、度島で伝道 |
一五六二年 | 永禄五年 | トーレス、生月島で伝道。平戸に教会が建立される |
一五六三年 | 永禄六年 | フロイス、フェルナンデス、生月島で伝道 |
一五六四年 | 永禄七年 | カブラル、コスタ、生月島で伝道。生月島北部の一部の領民が改宗 |
一五八二年 | 天正一〇年 | 籠手田安経没 |
一五八七年 | 天正一五年 | 豊臣秀吉、伴天連追放令を出す。日本中の宣教師が生月島に集合。対策を練る |
一五九二年 | 文禄元年 | 唐入り(朝鮮出兵)始まる。籠手田氏、一部氏も従軍 |
一五九七年 | 慶長二年 | 二十六人長崎で殉教。井元権右衛門、度島のキリシタンを壊滅させる |
一五九九年 | 慶長四年 | 平戸藩主松浦隆信没。後継の鎮信、キリシタンに法要参列を強要。籠手田安一と一部正治、信徒六〇〇名とともに長崎に脱出 |
一六〇九年 | 慶長十四年 | ガスパル西玄可の殉教。オランダ船平戸入港、オランダ商館建つ |
一六一三年 | 慶長十八年 | 徳川幕府、全国に禁教令を出す |
一六一四年 | 慶長十九年 | 宣教師、信徒の国外追放 |
一六二二年 | 元和八年 | カミロ・コンスタンツォ、焼罪(やいざ)で焚刑。生月の信徒、中江ノ島で処刑。元和の殉教 |
一六二四年 | 寛永元年 | 元和の殉教の信徒家族が中江ノ島で処刑。寛永の殉教。踏み絵始まる |
一六三三年 | 寛永一〇年 | キリシタン密告者に賞金が出始める |
一六三七年 | 寛永十四年 | 島原の乱 |
一六四五年 | 正保二年 | 熊沢作右衛門、生月島に来てキリシタンを弾圧 |
一七二五年 | 享保一〇年 | 畳屋又左衛門、田中長大夫と捕鯨を始める |
一八六四年 | 元治二年 | 浦上潜伏キリシタン、大浦天主堂のプティジャン神父に接触 |
一八七二年 | 明治五年 | 出口大吉兄弟、生月にカトリックを伝道 |
一八七三年 | 明治六年 | キリシタン禁制の高札撤去 |
一八七八年 | 明治十一年 | 山田の米倉伝作、西村藤之助、長崎でカトリックの伝道を受ける |
一九一二年 | 大正元年 | カトリック山田教会の完成 |
一九三一年 | 昭和六年 | 田北耕也氏、生月島の隠れキリシタンの調査を開始 |
生月島にキリスト教が伝わったのは、ザビエル来日から四年経った一五五三年、籠手田安経(こてだやすつね)が入信したのが始まりだった。妻も入信しイザベラという霊名をもらう。籠手田安経の弟である一部(壱部)勘解由(いちぶかげゆ)も同時に入信した。籠手田氏は生月島南部、度島(たくしま)、平戸島中央部西海岸沿いを所領とする松浦(まつら)氏一門の武将で、領主松浦隆信に次ぐナンバーツーの実力者であった。一部氏は、生月北部、平戸島の根獅子(ねしこ)を支配していた。当時、生月島は籠手田氏、一部氏、キリスト教嫌いの加藤氏の三者によって支配されていた。一五五八〜一五六四年、ヴィレラ、アルメイダ、トーレス、フロイス、カブラルらの伝道により、籠手田氏、一部氏の勢力下にあった生月島、度島、平戸島西海岸への伝道が進んだ。
ヴィレラはあまりにも熱心で、仏像を焼いたり海に投棄したりするなど、仏教徒と軋轢を起こした。そのため、一五五八年、反対者により一時期平戸地方を追い出されることになる。一五六〇年、生月島舘浦(たちうら)におせんという娘がいた。おせんはキリシタンとなったが、棄教を迫られて拒否。切り捨てられてしまう。翌一五六一年には、平戸島西海岸根獅子の浜で、改宗僧侶の青年マテオスが一部勘解由の母(仏教徒でキリスト教に敵対していた)の手の者によって切り殺された。この二人が日本最初の殉教者と言われている。
一五六五年、加藤氏は松浦水軍を率いてポルトガル商船と戦って敗れ、以降衰退していった。籠手田氏、一部氏の庇護のもと、生月島、度島、平戸島西海岸の信徒は育っていった。特に度島では島民全員が信者になったという。一五八二年、籠手田安経没。一部勘解由はその後も活躍し一五九九年までとどまったものの、当地のキリシタン最大の庇護者が逝った。ただ一五八六年、大村純忠の娘メンシア(松東院)が、松浦隆信の跡継ぎ鎮信(法印)の嗣子久信に輿入れしてきた。当時まだ十二歳だったメンシアは、やがて平戸地方のキリシタン庇護者となってゆく。
一五八七年、秀吉が伴天連追放令を出した。全国のイエズス会宣教師が平戸の籠手田領に集まり対策を話し合う。マカオに帰る者以外はシモ(九州)に潜伏する覚悟を決めた。一五九二年、松浦鎮信(法印)が領内の宣教師追放を命じる一方、松浦久信の正室メンシアが生んだ松浦隆信(宗陽)が洗礼を受ける。この頃、松浦領内のキリシタンにとっては、不幸と幸福が入り混じった状況が続いた。だが、一五九七年、二十六人が長崎西坂で殉教した年、井元権右衛門という人物によって、度島のキリシタンはついに壊滅させられてしまう。
一五九九年、平戸藩主松浦隆信没。鎮信(法印)が後を継ぎ、隆信の法要にキリシタンの参列を強要。籠手田家の後を継いだ安一と一部家の家督を譲り受けた正治は、信徒六〇〇名を連れて長崎に脱出した。勘解由も行動をともにした。籠手田氏、一部氏の領民は庇護者を失ってしまう。
その中で生月にとどまり、島のキリシタンを取りまとめていたのが、かつて籠手田氏の奉行として生月を治めていた西玄可(にしげんか)である。玄可は奉行職を解かれても妻ウルスラとともに生月のキリシタンのリーダーとして世話をしていた。だが一六〇九年一月十四日、西玄可は捕縛され、黒瀬の辻で斬首される。同日、妻ウルスラと息子ジョアンも捕えられ、連行途中に斬首された。[一部「長崎、平戸、生月島(四)」に既述]
イタリア人宣教師、カミロ・コンスタンツォは渡日後、一六一四年に国外追放となる。だが再潜入し、平戸、生月、五島、唐津などで信徒を支援した。一六二二(元和八)年、捕縛され焼罪(やいざ)で焚刑に処される。コンスタンツォを助けたり匿ったりした罪により、生月の信徒数名が同年中江ノ島で処刑される。元和の殉教である。一六二四(寛永元)年、元和の殉教の信徒家族が中江ノ島で処刑される。寛永の殉教と呼ばれる。その年、踏み絵が始まり、以降二四〇年間キリシタンたちは潜伏を余儀なくさせられた。[一部「長崎、平戸、生月島(四)」に既述]
<生月島周辺の地理>
十六世紀後半、キリシタン時代の生月島周辺
生月島のほとんど、度島、平戸島中央部西海岸沿いは、篭手田氏、一部(壱部)氏の勢力範囲だった。主な教会は、生月の山田、壱部、度島、平戸島の根獅子、平戸にあった。黄色で描かれたのは主な隠れキリシタン集落である。
隠れキリシタン時代の生月島
白で示した地名は、主な隠れキリシタン集落。赤い十字架は、主な殉教者の出た場所を示し、それぞれガスパル様、ダンジク様、サンバブロー様、アントー様、ハッタ様などと呼ばれる。殉教者に対する思慕と崇敬の思いは、生月・平戸系隠れキリシタンの信仰を支える伝説として二四〇年以上伝えられた。
<隠れキリシタンの二系列>
長崎県下隠れキリシタンの分布図
長崎県下の隠れキリシタンには二つの系列がある。生月・平戸系と外海・浦上系である。
大村領では大村純忠(バルトロメオ)の後を喜前(よしあき;サンチョ)が継いだ。喜前は一六〇二年に棄教。以降は、純忠が熱心な信徒であった反動もあり、苛烈な迫害者となってしまう。領内のキリシタンは潜伏。後に十八世紀、一部は甘藷の栽培技術を携えつつ、漁業振興地域である五島や平戸に移住したという。また明治期になって禁教が解かれ、五島の隠れキリシタンは一部カトリックとして平戸や北松浦半島へ移住したという。
松浦領では、既述の通り、鎮信(法印)が禁教の追従者となる。ただ父松浦隆信は信者とならず、家臣の間にキリシタンと仏教徒という二大勢力を抱えていた。鎮信(法印)は父の法要をきっかけに、キリシタン勢力の籠手田氏、一部氏の一族が長崎に亡命するのを黙認。籠手田領、一部領のキリシタンは庇護者を失ったものの、集落単位で信仰を潜伏させることになる。
<隠れキリシタン二系列それぞれの特徴>
信仰系統 | 生月、平戸系 | 外海、浦上系 |
対他宗教 | 他の宗教、信仰との併存状況が顕著。 | 他の宗教、信仰への姿勢は、特に仏教に対する阻害意識が強い。禁教解除後には寺との関係を絶つ組も出現。 |
解除後合流 | カトリックに合流する組は多くなかった。 | 幕末以降の再布教でカトリックに合流する者が多く出た。 |
信仰形態 | 十六世紀中期頃における、前〜中期のキリシタン信仰。 | 十七世紀前期における、後期のキリシタン信仰のスタイル。 |
いわば禁教以前の隠さなくて良い時期の信仰形態。 | 禁教に対応し、教義に沿った信仰を続けられるべく自律的に整えられたスタイル。 |
生月・平戸系は、十六世紀中期頃におけるキリシタン信仰が受け継がれた。いわば禁教以前の隠さなくても良かった時期の信仰スタイルである。それが禁教時代初期に、信仰を地下に潜ませるために他宗教でカムフラージュ。表面的な変容はあったが、当時の信仰スタイルがそのまま代々受け継がれていったという。
外海・浦上系は、十七世紀前期におけるキリシタン信仰が受け継がれた。禁教に対応し、教義に沿った信仰が続けられるべく、自律的に整えられた信仰スタイル。表面的には他宗教を告白するも、他宗教に対する阻害的意識が強いという。こうした信仰スタイルが代々受け継がれていったらしい。
かつては、どちらの系列も同じスタイルからスタートし、時代とともに地域によって変容していった度合いの違いが、二つの系列を生んだと考えられていた。だが現在では、むしろ禁教直前の信仰スタイルの差が、二つの系列の違いを生んだと理解されている。当時の信仰スタイルを保ちつつ、潜伏するその瞬間に表面上の変容を遂げ、以降はそれぞれのスタイルを愚直なまでに踏襲し続けたのだろう。
<ミゼリコルディアと隠れキリシタン共同体>
隠れキリシタン共同体はどのように存続し得たのか?それを理解する上で重要なのがキリシタンの組織とその変遷過程である。
キリシタン組織の変遷過程
一五五〇年代以降、教会組織が成立するに伴い、村落にはミゼリコルディア(慈悲の組)が組織された(図の信仰前期)。一五八〇年代以降、特定対象の信心や実践を目的とする任意加入の信心組が導入された。集団による導入形態に違いがあった。禁教に対応して総加入の組に変化した(図の信仰中期)。一六三〇年代頃、長崎周辺では禁教対応の信仰形態へ移行が進んだ。隠れ組織として二四〇年間以上、キリシタン共同体が存続してゆくことになる(図の隠れ組織)。
平戸の根獅子、天草の今富、外海の出津、長崎に隣接する浦上などでは、信仰前期のミゼリコルディアが慈悲仲間(小組)を含む組織として生き続けた。一人の「惣領」のもとに、何人かの「慈悲役」が惣領を支え、慈悲仲間の小組には一人「組観」と呼ばれるリーダー役がいた。
生月の山田、境目、壱部、天草の崎津などでは、信仰中期にミゼリコルディア・信心組複合型の組織となった。慈悲仲間が信心組の下部組織となるが、ミゼリコルディアの形は存続した。信心組のリーダーが「組観」、慈悲仲間の代表が「役中」である。何人かいる「慈悲役」がミゼリコルディア全体を支えていた。
生月の元触などでは、信仰中期にミゼリコルディアは消滅。信心組・慈悲仲間複合型の組織となった。慈悲仲間は信心組の下部組織として存続した。信心組のリーダーが「組観」、慈悲仲間の代表が「役中」であるのは『慈悲の組・信心組』複合型と同様。ミゼリコルディアを支える慈悲役は信心組それぞれの「御爺役」として「組観」を支えた。
外海の黒崎、五島の横瀬などでは、ミゼリコルディアならびに慈悲仲間は信仰前期に組織されることはなかった。信仰中期に信心組の組織のみが形成され、それが隠れ組織として存続した。信心組の代表が「組観」、「水役」が代表を支え、「触役」がさらに前二者を支えていた。
<生月島の隠れキリシタン>
生月島では、農業集落である壱部(いちぶ)、境目(さかいめ)、元触(もとふれ)、山田を中心に信徒が分布している。集落ごとに垣内(かきうち)、津元(つもと)と呼ばれる組が複数存在する。垣内、津元は御前様と呼ばれる御神体を祀るグループである。
御神体として祀られているのは次のようなものだという。メダイ(メダル)、コンタツ(ロザリオの十字架)、お掛け絵(掛け軸型の聖画)、お札(十五玄義(後述)を示す)、お水瓶(みずびん;聖水(後述)を納める壷)、オテンペンシャ(元々贖罪の鞭で、祓いに用いる)。
垣内では、御前様(御神体)を祀る家の主人、親父役(おやじやく)を各家が年交代で勤め、信徒の代表である役中(やくちゅう)らとともに年間行事を行なう。親父役のことを津元では御番主(ごばんぬし)と呼んでいる。
年間行事には次のようなものがある。上がり様(復活祭)、御誕生(クリスマス)、農耕関係の行事、家のお祓い、お授(さず)け(洗礼)、戻(もど)し。「お授け」は、新たに信徒に加わる者に親父役が洗礼を施し、アニマ(魂)の名前(洗礼名)を与える。死亡すると寺社の葬儀と並行して「戻し」と呼ばれる行事を行ない、アニマを天のパライソ(天国)に送り出す。
※ 十五玄義:玄義とは啓示によってのみ知ることのできる信仰の真理(奥義)のこと。キリストの生涯を十五に区切り易しく説明した。絵にして説明したものを十五玄義図と呼び、絵にできない場合は「お札」として大切に扱った。
※ 聖水:殉教者が多く血を流した中江ノ島などで採取した湧き水を聖水とした。特にお授けに使用した。
御誕生(クリスマス)
お授け(洗礼)
屋祓い(家のお祓い)
風止めの願立て(野外の行事の例)
これらの行事の際には、オラショ(御誦:ゴショウ)と呼ばれる独自のお祈りが唱えられる。
<オラショ>
オラショを唱える男性戸主たち
通常の行事の時に唱える三〇曲前後の一連の祈りをオラショ一座という。通常三〇〜四〇分ほどかかり、全曲通せた時に「オラショが通る」と表現したという。
生月島山田のオラショ一座(左列上から下へ、その後右列上から下へ並べてある)
○ 神寄せ ○ パーチリノーチリ+
○ 申し上げ マリヤメマリア(3回繰返し)
○ デウスパアテロ ○ エメテスペリト
○ われらがてきを ○ 十五の観念「よろこび」
○ ダダンヤス 「かなしみ」「ぐるりよーざ」
○ デウスパアテロ ○ おやをもって申す
○ 天にまします ○ 七度のくあんねん
○ ガラッサみちみち ○ 十一ヵ条
○ 誠の信じ奉る ○ パライゾ
○ 憐れみのおん母 ○ ダオダテ
○ 十のマダメント ○ ノージュミステリ
○ サンタイケレンジャのナダメント ○ マニヘーカ
○ 贖罪のこんぼー七悪 ○ ベレンツス
○ サンタイケレンジャのサカラメント ○ ウグルリヤ(唄オラショ)
○ 慈悲の所作 ○ 神寄せ
○ ビワベンチランサ ○ 申し上げ
○ 萬事叶い給うデウス ○ 全てのお水うち(3回)
○ ミジリメンデ ○ 蝋燭ベンジ
○ おんからだまき
オラショの例(1)
中江ノ島様(サンジュワン様)の唄
んー 前はな 前は泉水やな
後ろは高き岩なるやな
前もなうしろも 潮であかするやーなぁー
んー この春はなー この春はなぁー
櫻や花かやちるぢるやーなぁー
又くる春はな つぼむ開くる花であるぞやーなぁー
オラショの例(2)
ダンジク様(地獄様)の唄(柴田山)
んー 参ろやな 参ろやなあー
パライゾーの寺にぞ参ろやなあー
パライゾーの寺とは申するやなあー
広いな寺とは申するやーなあー
広いな狭いは我が胸に在るぞやなあー
んー 柴田山 柴田山なあー
今はな涙の先なるやーなあー
先はな助かる道であるぞーやなあー
オラショの例(3)
壱部「グルリヨーザ」
ぐるりよーざ どーみの
いきせんさ すんでらしーでら
きてやきやんべぐるーりで
らだすでさあくらをーべり
原曲「O gloriosa Domina」
O gloriosa Domina.
excelsa super sidera,
qui te creavit provide.
lactasti sacro ubere.
上記曲「輝ける聖母」の訳(加藤 武氏)
輝ける聖母よ
星空越えてはるかに居ます御母よ
汝を造られた方を御胸により
清き乳房もて育く
<生月・平戸系と外海・浦上系の比較>
信仰系統 | 生月、平戸系 | 外海、浦上系 |
特徴 | 殉教物語に関連する聖地が多い。地元殉教者に対する畏敬の意識が強い。 | お帳(宗教暦)に従った生活規律の遵守が信仰の中枢。 |
ご神体 | 組単位でご神体を祀る。ご神体にはお掛け絵をはじめさまざまな種類がある。 | 信者の家々でご神体を所持する。 |
行事の頻度 | 組では年間を通じて多くの行事をおこなう。 | 信者が集う行事は年数回程度と少ない。 |
戸外行事 | 戸外や農耕関連の行事も多い。 | 野外の行事はほとんどない。 |
参加主体 | 各家の戸主(男性)が主に行事に参加。 | 男女とも。 |
オラショ | オラショも男性のみが唱える。 | 男女とも。 |
有声無声 | 生月島では声を出して唱える。 | オラショは無言で唱える。 |
生月・平戸系は、組単位で助け合いながら多くの宗教行事を行なった。戸外や農耕関連の行事も多い。地元殉教者の聖地を多く有しており殉教者への畏敬の意識が強い。各家の男性戸主が主に行事に参加し、オラショも男性だけが唱える。生月では声を出して唱える。
他方、外海・浦上系は各家でお帳(宗教暦)に従った生活規律の遵守が信仰の中枢となっている。信者が集う行事は年数回程度。野外行事もほとんどない。オラショは男女とも無言で唱えるという。
<魔鏡>
魔鏡
潜伏キリシタン時代、壁に反射させた光の中に浮かび上がった十字や聖像を、信仰の対象としたものと言われている。ただ、現在、具体的な信仰がどこでどのように行なわれていたのかは明らかではない。今のところ、生月にも魔鏡に対する信仰は存在しないという。
<復元展示された隠れキリシタンの家の様子>
垣内、津元と二種類ある「組」のうち、垣内組の隠れキリシタンの家が復元展示されていた。もちろん江戸禁教期には柱時計も電灯もなかったわけだが、昭和に入ってからの姿がイメージできる。貴重な文化財の一つ。
垣内組の御前様(御神体)
垣内組の御前様(中)
行事に使われる座敷(左)
ここで親父役や役中が集まりオラショを唱える
神棚、仏像など他宗教の祭壇(右)
土間から撮影した全景
取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (六) 平戸島・生月島(参)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (六)
<平戸島・生月島(参)>
平戸大橋を挟んで
左が平戸島、右が北松浦半島田平地区
平戸港、平戸城のある平戸市中心部をめざす
平戸市中心部
平戸城、ザビエル記念教会、
オランダ商館、オランダ井戸、オランダ埠頭跡、
ザビエル記念公園、各種記念碑をまわった
ポルトガル船平戸入港四五〇周年記念碑
一五五〇(天文十九)年にポルトガル船は初めて平戸に入港した。それからほぼ毎年、一五六四年長崎福田浦を寄港地とするまでの間、平戸に来航を続けた。一五六一(永禄四)年に宮ノ前事件が起こる。ポルトガル人船員と平戸住民との間に紛争が発生し、それが事件となったのだ。ここ入港比定地は本事件の現場でもあるという。事件は、横瀬浦、福田浦を経て、長崎港が開かれるきっかけとなった。日本の国外への窓口は、平戸から長崎に移っていくことになった。
じゃがたら娘の像
一六三九年、平戸、長崎の外国人に関わりのある婦女三十二名がインドネシア(じゃがたら)に追放された平戸から出航し、二度と日本の地を踏めなかった。
日蘭通商四五〇周年記念塔
先の二つの記念碑、像と並んで立っている
けっこう大きなモニュメントだ
オランダ塀
日本の石垣とは趣きが異なる白い漆喰の塀を人々はオランダ塀と呼んだ。一六〇九年から一六四一年までオランダ商館が置かれていた。商館を外から覗かれないために、延焼などから守るために、この塀が設けられた。高さは約二メートル、底辺の幅は約七〇センチメートルある。当時の様子を知ることのできる数少ない遺構の一つだという。
オランダ井戸
通りからの眺め
オランダ井戸碑文
和蘭商館時代から残存する数少ない遺構の一つがこのオランダ井戸である。北側と南側の二つの部分からなっていて、北側井戸の内部は礫状玄武岩で円形に、南側井戸の内部は板状玄武岩で方形に築かれている。深さ約八メートル。海岸近くに位置するが、海水の浸入はないという。
オランダ井戸の碑
二つあるオランダ井戸本体の一つ
板状玄武岩で方形に築かれている南側井戸
オランダ埠頭跡
階段の下、水辺まで降りたところ
埠頭の大きさを物語っている
オランダ埠頭碑文
東インド会社所有帆船の荷卸し、積み込みを行なっていたところ。背後に水門があり、さらに荷物を置く広場があったと考えられる。築造年代は明らかでないが、商館移転の際に破壊を免れた遺構であるという。
平戸オランダ商館
ライトアップされている
平戸和蘭商館跡に復元された建造物、平戸オランダ商館。HPには次のように紹介されている。
「平戸オランダ商館は、一六〇九年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅一軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い...順次施設の拡大整備が行なわれました。特に、タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオランダ商館との紛争事件)後...に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。
しかし、一六四〇年十一月九日、将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重により...キリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令の下、全ての建物の破壊が命じられました。一六四一年五月、商館は長崎出島へ移転。これによって、三十三年間の平戸オランダ商館の歴史に幕が下ろされました。以降、跡地は平戸の町人地となり、「御船手屋敷」(船を操る人たちの屋敷)が建ち並びました。 江戸時代の絵図をみると、井戸に「阿蘭陀川」、塀に「阿蘭陀塀」と書き込まれており、商館の遺構のいくつかは、江戸時代を通じてオランダの名を付して呼ばれていました」
オランダの大航海時代にまつわる品々も展示されているという。残念ながら時間がなく鑑賞はできなかった。
旧オランダ商館跡の碑文
「大航海時代の冒険者たち
その礎の上に今の私たちはある
眠りたまえ
ここを小さき和蘭として」
とあり、その下に何人もの名前が刻まれている
彼らは皆、母国に帰ることなく平戸に没した
ザビエル記念公園のモニュメント
ザビエルのメダイを模した碑
碑文
「聖フランシスコ・ザベリオ師四度往来し
布教に努めた由緒のこの地に
聖師来訪四百年記念に當り、
餘徳を慕って此の碑を建つ」
とある
夕日に映える平戸城
別名亀岡城ともいう
美しい
松浦(まつら)隆信の後を継いだ松浦鎮信(法印)は、秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵される。唐入り(朝鮮出兵)の後、一五九九(慶長四)年現在の城地、日之嶽に最初の築城を開始。だが完成間近の一六一三(慶長十八)年、何故か城を自ら焼却した。一七〇二(元禄十五)年、四代藩主松浦鎮信(天祥)は幕府に築城を願い出る。翌年許可された。江戸時代中期の築城裁可は異例。一七〇四年二月着工、一七〇七年に完成。天守は上げられず、二の丸の三重三階の乾櫓が代用だった。
一八七一(明治四)年の廃藩置県に伴う廃城令により、現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し城は解体された。一九六二(昭和三七)年、模擬天守及び復興の見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられたという。
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取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (七) 平戸島・生月島(四)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (七)
<平戸島・生月島(四)>
教会(天主堂)を巡った
紐差(ひもさし)教会、宝亀(ほうき)教会、
平戸ザビエル記念教会、田平(たびら)教会
紐差教会
宝亀教会
世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」
十三の遺産に準じる遺産として仮登録されている
宝亀教会から望む入り江
綺麗な眺めだ
平戸ザビエル記念教会
平戸ザビエル記念教会
平戸ザビエル記念教会
平戸ザビエル記念教会
寺院と教会の見える道から望む
ザビエル記念教会敷地内にある
平戸殉教者顕彰慰霊之碑
神
かれらを試み
爐の中の金の
如くためされ
ふさわしき
犠牲として
受け給いき
と記されている
田平教会
世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」
十三の遺産の一つに数えられている
田平教会
田平教会
隣接する墓地の挟んで田平教会を望む
たくさんのお墓があり、歴史を感じさせる
取材日記( Ⅲ )長崎 平戸 生月島 (番外編)
2013.7.14-17
長崎 平戸 生月島 (番外編)
<取材の合間のスナップをいくつか>
おなじみ長崎皿うどん
長崎トルコライス
大人のためのお子様ランチ?
佐世保バーガー
専門のWebサイトもあるほど人気
McDonaldの高級バーガーのはしり?
大村藩の角寿司
戦勝祝いとして大村藩家臣たちが用意し
労をねぎらって振る舞われた
平戸銘菓カスドース
一五五〇年、ポルトガル商船が平戸に初来航。同行してきたイエズス会神父によって、カステラなど南蛮菓子の一つとして伝えられたのが、このカスドースである。一口大のカステラを卵黄に潜らせ、煮立てた糖蜜で揚げたあと、グラニュ糖をまぶしたもの。平戸藩門外不出の「御留め菓子」として密かに作られつづけたため、戦前まで一般にはその存在すら知られることのない幻のお菓子だった。カスドースのカスはカステラ、ドースはポルトガル語の「甘い」doceである。湖月堂老舗の登録商標。
ホテルオークラJRハウステンボス
遊覧船からの眺め
分譲リゾートの一角とホテルのチャペル
中心部タワーから
タワーの影が伸びている
ハウステンボスパノラマ
午後、中心部のタワーからの眺め
ハウステンボスパノラマ
中心部タワーからの夜景
その日歩いた歩数は一万九千歩を超した。温泉で疲れを癒して次の取材に備える。翌朝は六時起きの八時出発。
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