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日本と世界の歴史散策


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(3)絶対視されるワ OWL のひとりごと

i )日本の草の根民主主義( I )奴婢農奴の世界

奴婢農奴の世界 2009.5.24


by OWL




奴婢農奴の世界

 今回と次回は、「話し合いが大好き」という、日本人の一大特徴がテーマである。その特徴が良い方向に作用した例と、日本を危険へと導いてしまった例を、歴史上からそれぞれ挙げてみる。その上で、現代の我々が持っている世界観の歪みについて考察したい。


日本の民主主義はいつ頃から?


 日本の民主主義は、一九四五年<昭和二十年>に日本が戦争に負けた後はじめて、アメリカ合衆国を中心とする連合国によって導入された。それまでは存在すらしていなかった。存在したとしても十二歳程度のレベルだった(脚注1)。


 こうした神話を、ある人たちはまともに信じている。もっとも、民主主義をどう定義するかによって、それが神話だったか真実だったかが決まる。


 二大政党による米英などの議会制政治以外を、民主主義と認めないという人もいるだろう。その人たちにとっては、日本は未だに民主主義が定着していない。


 しかし、「民主主義または民主政(democracy)」とは、「諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則」(脚注2)である。


 この定義から、民主主義を「話し合いを通して物事を決めること」と言いかえることができるかもしれない。そうなら、民主主義らしきものは、昔の日本にもレッキとして存在した(脚注2)。


 いつ頃からか?その話を始めるにあたり、政治体制としての民主制ではなく、まず草の根民主主義に焦点を当ててみたい。注目するのは、産業革命前の時代における各国の農民の姿である。


 我々が抱きがちなのは、日本でも他の国でも、「昔の農民は苦しめられていた」という固定観念である。あるいは、海の向こうの国々では人々は幸せに暮らしており、日本国内の人々は悲惨な状況に置かれていたというタイプの固定概念もある。


 実際のところ、日本と欧米、アジアの国々の農民の状況はどのようなものだっただろう。簡単な比較をしていこう。


産業革命前のヨーロッパ農民


 貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろといつも鞭で叩かれる「農奴」。貧しく、反抗的で、つねに暴動を企んでいる、顔に深いしわが刻まれた人たち。これが、産業革命前のヨーロッパにおける農民の姿(イメージ)である(脚注3)。


 涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを手に入れる人々。五年に一度、一足の靴を手に入れることのできる人たち。生涯一度も風呂に入ることがない。自立することなど考えたこともなく、読むことも書くこともできない人々。


 フランダースの犬の原作や、映画「グリム兄弟」などを見れば、ほんの少しは想像できるかもしれない。


 農民は、人々の食料生産をひとえに担っていたにもかかわらず、領主の横暴の最大の犠牲者だった。身を守る力も術もなかった。それゆえ、彼らは搾取されつくした。人数的には最大の集団だったが、社会の最も弱い構成員だった。


中国、朝鮮半島の農民


 中国社会も、我々が想像するような牧歌的な状況ではなかった。地主、士紳(地方有力者)、軍閥、匪賊が、農村、都市、山林湖沢をそれぞれに支配し、棲み分けが行なわれていた社会である。


 そこに襲ってきたのが、戦乱、飢餓、流民、そして略奪と避難であった。そればかりでなく、農民は地主や地方官吏(かんり)の税金、詐欺、ワイロ、横領により絶えず搾取され続け、貧しかった(脚注4)。


 英国の使節マッカートニーが、熱河(ねっか)で清の皇帝である乾隆帝(けんりゅうてい)に謁見し、通商要求が断られた後、使節団一行は陸路北京から広州に至るまでを走破し、海路帰国した。彼が記した「奉史記」には次のように語られている。


 十八世紀末の清国は、乾隆帝が「わが天朝にはないものはない。欲しければ恵んでやる」と豪語したほどの国家ではなく、沿道は乞食と匪族だらけの国であった、と(脚注4)。考古学者シュリーマンも、十九世紀の清国について、同様の既述を残している(脚注5)。


 朝鮮半島でも中国と同様だった。十九世紀終わりごろの極東を旅した英国の女性冒険家イザベラ・バードによれば、当時の漢城(はんじょう:今のソウル)は不潔で悪臭に満ちた街だった。


 狭い通りには人があふれ、家々から出る汚物を受ける穴と溝が通りをいっそう狭くし、蓋がないため街中を悪臭で一杯にしていた(脚注6)。


 ましてや、漢城以外の地方の惨状は、推して知るべしである。農民は両班(やんばん)、地主、地方官吏によって何重にも課税され、その上詐欺、横領、ワイロなど様々な手段により、搾り取れるだけ搾り取られた。


 例えば、兵役を免れるために「軍布」というお金を納める仕組みがあった。逃亡した者が出た時には、滞納分をその子孫、親族、隣人に弁償させた。新生児は、生後三日目に軍籍に編入させられ、その分の「軍布」の支払いが強制された。


 それらを地方官吏は自分の懐に入れ、何年か私腹を肥やすだけ肥やす。そのあと次の任地に向かうのだった(脚注4)。


 苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に悩まされた中国や朝鮮半島の農民の姿は、ヨーロッパの農民の姿に共通している。貧しく、入浴することもままならず、読み書きを習うこともできず、一揆や暴動などによって時折反抗するだけの、社会的に虐げられた弱い存在である。(つづく)




脚注


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/ダグラス・マッカーサー:日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官、ダグラス・マッカーサーの言葉として有名。もっともこの言葉は、壮年になっていたはずのドイツが確信犯的に戦争犯罪を行なったのに対し、「日本は誤って間違いを犯しただけである。日本はドイツと違う。日本には可能性がある」という、日本を擁護する文脈で語られた。
 しかし、十二歳という部分がことさらに採り上げて報道され、多くの日本人の反発を招くとともに、偏見に満ちた発言として定着したという経緯がある。逆に、この言葉を自虐的に使い、日本人がいかに遅れているか、民主的な考え方をするのが下手か、政治体制が欧米に比べて立ち後れているかを指摘し、自分たちの主張に利用する人々もいる。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義:議会制民主主義国家であるかどうかの現代的な基準は、次に挙げる通りだ。(a)集会・結社・言論の自由を保証しているかどうか、(b)常に民意を問う選挙を実施しているかどうか。その二つである(ポリアーキー:多数支配)。厳密に言うなら、現代の民主制と本稿で扱う「話し合い絶対主義」は違う。しかし、多くの制限があったとはいえ、江戸時代の「草の根民主主義」などには、現代の民主制の萌芽が見て取れる。
3)松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」(田中敏訳)、2005年、文藝春秋。
4)黄文雄「捏造された近現代史」2002年、徳間書店。
5)シュリーマン、H「シュリーマン旅行記:清国・日本」(石井和子訳)、講談社学術文庫、1998年、講談社。
6)バード、イザベラ、L「朝鮮紀行」(時岡敬子訳)、講談社学術文庫、1998年、講談社。ただ、バードは、一年付き合ったあと、ソウルを評価するに至ったと書いている。「周囲の美しさに恵まれた、世界有数の首都に値する」と。




(2967文字)




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i )日本の草の根民主主義( II )江戸時代の自治ある農村

江戸時代の自治ある農村 2009.5.25


by OWL




江戸時代の自治ある農村

江戸時代の草の根民主主義


 他方、国を鎖(とざ)していた頃、江戸時代の日本はどうだったのだろう?


 日本の農民は、庄屋や地主の横暴の犠牲になる心配はほとんどなかった。それどころか、彼らは自立し、確固たる地位が与えられていた(脚注3、7、8、9)。欧州や中国、朝鮮半島の農民が、生涯体験できなかったことばかりである。


 日本のいたるところに、自立した村落共同体が作られた。どの村にも「議会」に相当する「寄り合い」があった。寄り合いでは、メンバーから代表者一名と二人の委員が選ばれた。対外的に村を代表し、年貢(納税)の問題について、村の人々の意見を代弁する任務にあたった。


 欧州や中国、朝鮮半島と違い、日本の農民に課せられる年貢の額は、決して農民の頭越しに(お上によって)、一方的に決定されたのではなかった。納税額を決める際に、農民は村の代表者を通して、協議・決定に参加する権利を持っていた。草の根の民主主義がそこにはあった。


 もちろん、大飢饉の時(脚注10)や、横暴な領主の圧政に苦しむ地域があり、暴動も起こった。しかし、それらはむしろ例外的で、農民たちの生活は大体うまくいっていた。年貢米を基にした租税制度と全国における米の分配も、至極円滑に機能していた。


 他方で、「毎年農民による暴動があった。鎖国時代には全部で一五〇〇回くらいの農民一揆があった」と言う日本の歴史家がいる。むしろ、それが多数意見らしい。日本にも、専制的な領主や地主がいて、圧政に苦しむ農民がいてという、ある種の「型」に押し込める方が安心できるらしい。


 だが、この「農民一揆」と数えられている事件を詳細に調べてみると、驚くべき結果が出てくるという。年貢米の納入量についての話し合いが持たれたが、合意に至らなかった。そこで、近郷のいくつかの村の代表者たちが一緒に大名屋敷に参上し、年貢の軽減を願い出るために協力し合った。


 たったこれだけのことが、その歴史家たちによって「農民一揆」の一つと数えられてしまった。しかし、暴力沙汰になったのは極々稀なケースで、ほとんどが正当な申し出であり、事実を説明してから静かに立ち去っただけに過ぎないことが証明されている。


 産業革命前の日本では、決して、自由や公正を求める努力や試みが、情け容赦なく弾圧されていたわけではなかった。同時代の欧州諸国や中国、朝鮮半島と比べて、公正と自治が高度に機能していた。


 村人の中では話し合いが尊重された。支配階級である領主との関係においても、静かな意見の交換が重んじられた。話し合いの精神(民主主義)が息づき、行き渡っていた。


 彼らは、概して貧しくはなく、健康的でこぎれいな身なりをし(脚注11、12、13)、読み書き算盤ができ、村や町の通りも非常に清潔で、高度な自治・自立を享受していた(脚注3、7、8、9)。同時代の中にあって、彼らは世界一恵まれていたと言えるだろう。(つづく)




脚注


3)松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」(田中敏訳)、2005年、文藝春秋。
7)児玉幸多「近世農民生活史」新稿版、1957年、吉川弘文館。
8)大石新三朗「近世村落の構造と家制度」1968年、御茶の水書房。
9)渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリ、2005年、平凡社。
10)江戸時代の四大飢饉:http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸四大飢饉
   寛永の大飢饉(一六四〇年、三代家光の頃)
   享保の大飢饉(一七三二年、八代吉宗の頃)
   天明の大飢饉(一七八二〜八年、十代家治と十一代家斉<いえなり>の頃)
   天保の大飢饉(一八三三〜九年、十一代家斉と十二代家慶<いえよし>の時代)
特に、天明の大飢饉(一七八二〜八年、http://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉)では、最終的に30万人ないし50万人の餓死者や疫病による死者が出たと推定される。浅間山大噴火とアイスランドのラキ火山とグリームスヴォトン火山の大噴火の影響が重なったとされる。成層圏にまで達した塵は、地球の北半球を覆い尽くし、地上に達する日射量が極端に減り、北半球の低温化と冷害を引き起こした。フランス革命(一七八九年)の遠因ともなったと言われる。
11)バード、イザベラ、L「日本紀行(上)」(時岡敬子訳)、講談社学術文庫、2008年、講談社。
12)バード、イザベラ、L「日本紀行(下)」(時岡敬子訳)、講談社学術文庫、2008年、講談社。
13)バード、イザベラ、L「日本奥地紀行」(高梨健吉訳)、平凡社ライブラリ、2000年、平凡社。




(1888文字)




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i )日本の草の根民主主義( III )強固な先入観

強固な先入観 2009.5.26


by OWL




強固な先入観

先入観 vs 真の姿


 こうした話をしても信じてもらえず、さまざまな反論が予想される。


 どんな文明や社会の中にも問題は存在する。その社会なりの矛盾があり、悪い人々はいる。しかも、時代は武士の支配する封建制の世の中で、因習や迷信がはびこり、人々は不自由でがんじがらめにされて、もちろん基本的人権などは無視されていた頃である、など。


 小説、芝居、映画、テレビなどでは、悪代官と圧政に苦しめられる農民というステレオタイプな図式で作られている。あの時代はひどかった。それに比べ今は何と幸せなのか。その頃に生まれなくて良かった、などなど。


 私たちの先入観は、なかなかぬぐい去れるものではない。こうした神話から自由になり、歴史の事実に向き合うことのできる人は幸いである。


 話し合い、民主主義が、農民だけでなく他の身分においても日本に定着していた事実、歴史上、かつての日本人がどれだけ恵まれていたかは、別項目を立てて詳しく取り上げる。


 ともあれ、ここでは次のことを強調しておこう。日本では「話し合い」が尊重され、農民には自治が与えられていた。これは全世界的に見て、たいへん珍しく恵まれた状況だった。


 ところで、我々がなかなか自由になれない神話は他にもある。日本国内にある矛盾点を指摘(糾弾)し、改善を迫るために使う、例のあの手である。日本はガイアツによってしか変わらない。そういって自ら相手側にガイアツをかけようとする(脚注14)。


 海の向こうでは素晴らしい政(まつりごと)が行なわれ、民は幸せに暮らしている。特定の国の、特定の事柄が取り上げられ賛美される。


 昔は唐、随、天竺、近代では欧州。第二次世界大戦後は、どんなことを主張したいかにより、米国、中国、戦後を清算した(といわれる)ドイツなど。私たちはなるほどと受け入れる。世論が形成されていくこともある。


 あるグループは、文化大革命時代の中国を賛美した。北朝鮮を「この世の楽園」と宣伝して帰還事業を後押しした。


 どれほど間違った情報を流していたのかは、歴史が明らかに証明している。宣伝文句に踊らされる形で人生の選択をし、塗炭の苦しみを味わった人々もいただろう(脚注15)。しかし、情報を流して人々を困難におとしいれた側は、何の責任もとらず謝罪もしない。


 発信されている情報が客観的で真実に基づいているかどうか、私たちは自ら判断しなければならない。そこに、歴史、比較文化学などから真理と知恵を学んでいく重要性がある。


日本で専制(独裁)政治は長続きしない


 さて、日本人が話し合いを大切にしていたという本題に戻ろう。日本における独裁制(専制政治)についての議論である。


 政治学的な厳密な意味での独裁制(脚注16)とは別に、「支配者が独断で思いのまま事を決する政治」のことを専制政治と呼び、その支配者を独裁的な指導者と呼ぶことがある。


 平清盛、織田信長、井伊直弼、大久保利通など、権力を一手に集中させた独裁的な指導者は、概してロクな死に方をしていない。


 平清盛は熱病に冒され苦悶のうちに死んだし、織田信長は明智光秀の裏切りにあって壮絶な最後を遂げた。井伊直弼は桜田門外の変で水戸浪士に暗殺され、大久保利通も紀尾井坂の変で石川県氏族島田一郎らによって暗殺された。


 日本では独裁者を嫌う傾向がある。専制政治は長続きしない。(つづく)




脚注


14)ガイアツ:海外の諸国はガイアツがなくても変わることができたか?答えは「No!」である。どこの国でも、隣の国と戦争をし、殺し合いをし、互いに干渉し合い、時に良い影響を与えあい、ガイアツを掛け合った。ガイアツのせいで、どの国も変わらざるを得なかったのである。
15)http://ja.wikipedia.org/wiki/在日朝鮮人の帰還事業
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/独裁制:反対勢力を弾圧し、表現、言論、集会、結社の自由を認めず、極端な場合には個人の生存権、幸福に生きる権利まで奪ってしまう(政治犯の処刑、投獄)政治体制のことを独裁制と呼ぶ。




(1671文字)



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i )日本の草の根民主主義( IV )朝幕併存の謎

朝幕併存の謎 2009.5.27


by OWL




朝幕併存の謎

日本人が好む政治体制


 日本人が好んで作る政治体制は、独裁制・専制政治ではなく、トップによる合議制である。


 例えば、江戸幕府を開いた徳川家康は明らかに独裁者であった。二代将軍徳川秀忠は、家康から将軍職を譲り受けた後でも、父である家康の意向には絶対に逆らえなかった。


 しかし、家康が作った体制は、独裁制とはほど遠い合議制である。老中が五人いて、その合議によって決めたことを、将軍は裁可するだけだった。


 それ以降のどの将軍も、老中の話し合いで決まったことにハンコを押す役割を果たした。老中の合議には何人も(たとえ将軍であっても)口を挟めないという場合もあった。


 中には柳沢吉保や田沼意次といった側用人(そばようにん:将軍と老中の間を取り持つ役割の者)をうまく利用して、老中から廻ってきた決定を自分の意向が通るまで何度でも差し戻し、老中をコントロールした将軍もいた(第五代徳川綱吉<つなよし>、第十代徳川家治<いえはる>など)。しかし基本的には、合議(話し合い)が重んじられた。


 日本の独裁的な指導者としてまず思い浮かぶ織田信長ですら、話し合い主義をそれなりに尊重した(脚注17)。


 実際の評定(ひょうじょう:政策・方針決定の会議)で、信長はまず家臣たち夫々に自分の考えを言わせている。一通り家臣全部に意見を言わせる(意見の開陳)。その後で、信長は家臣の一人を指し「お前の意見を採用する」と言う。


 あらかじめ自分が考えていた結論と同じことを言った家臣がいれば、その家臣の意見に決める。たいていそういう方式をとった。そのため家臣たちは、話し合いによって自ら決めたというイメージを共有することができた。


 独裁的と言われている織田信長も、話し合いの仕組みを重んじた。この意思決定の仕組みを最大限に活用したのが、木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)であった。信長の考えていることを推量し、良いタイミングで披露する能力に長けていたのである。


 明治憲法下では、天皇が絶対権力を振るっていたかに思われている。しかし、その意思決定システムは、江戸幕府と基本的に同じである。


 内閣が話し合いによって決めて奏上してきたことを、天皇が裁可した。差し戻すことはしなかった。例外はたったの二回。二・二六事件の「反乱軍の鎮圧」と、終戦間際の「この戦争はもうやめよう」と決断した時だけである。


 現憲法下においても、内閣総理大臣に権力が集中するようにはなっていない。極端なことを言うと、総理大臣の仕事は内閣を招集し、話し合いの音頭をとることだけである。


 最近はちょっと変わって非常事態時の権限集中などがなされてきたとはいえ、内閣みんなの話し合いで物事を決めて政治を行うというシステムが続いている。


血で血を洗う権力闘争が当然の世界


 一般に諸外国では、権力は一元化される。例えば、おとなり中国の秦、漢、晋、随、唐、宋、元、明、清と続く主な歴代王朝交代劇では、前の王朝は後の王朝に文字通り滅亡させられる。


 特に、前王朝の皇帝一族は、後の王朝によって皆殺しにされるのが普通だった。皇帝一族ばかりでなく、征服戦争で沢山の兵士が死に、莫大な数の民間人も犠牲となった。その数たるや、日本とは比較にならないほど多い(脚注18)。


 同じ王朝の中でも、権力闘争が繰り広げられ、反対勢力の残酷な粛正が繰り返された。秦の頃は、父、子、孫の三族を滅ぼす誅殺(族誅)だったが、後にバージョンアップして七族、九族の誅殺という残酷さへエスカレートしていった。


 中華思想における周辺朝貢諸国でも、状況は同じだった。その一つ、歴代朝鮮王朝も例外ではない。


 ヨーロッパの各国でも、王朝交代時に王が殺されることは普通であった。フランス革命(一七八九年)や、イギリスの清教徒革命(一六四一〜一六四九年)などの市民革命でもそうである。逆に犠牲者を出さない国王追放劇を無血革命・名誉革命(一六八八年)と呼んだくらいだ。


日本の権力闘争の特徴


 ひるがえって日本では、中国の律令制度を取り入れたものの、中国歴代王朝に特徴的ともいえる権力の一元集中が見られない。天皇を頂点とする朝廷と武家政権である幕府が並立共存し、権力が分散した状態が七〇〇年も続く(朝幕併存時代、脚注17)。


 朝廷から幕府に政治の実権が移った時(脚注19)、天皇一族が抹殺されることはなかった。


 足利尊氏が室町幕府を開いた時も、反対派の後醍醐天皇を滅ぼしたりしなかった。とどめを刺すことなどしなかった。それどころか、島流しにすらしなかった。そのため、南北朝時代という抗争が続いたほどである。


 薩長連合軍によって江戸幕府が滅びた時でも、十五代将軍徳川慶喜が処刑されることはなかった(無血開城)。


 政権交代における戦争においても、武士・兵士の犠牲者の数は、中国における犠牲者よりも圧倒的に少なかった。人口比を考慮したとしても、比べ物にならないくらい少数だった。


 権力闘争の中でも、反対勢力の責任者一人または複数人が切腹という形で責任を取らされることはあっても、族誅などという連座制とは全く無縁だった。


 日本では、およそ専制政治と呼ぶにふさわしい権力体制は根付かなかった。独裁的な指導者は嫌われた。残酷な殺し合いは、ほぼ皆無だった。前の者から権力を力ずくで簒奪するというより、後の者に権力を禅譲する形式をとった。こんな国は世界を見渡しても珍しい。


「複数トップの合議制で決まったことを、象徴的な最高権力者が裁可する」という権力構造が日本の伝統である。


 現代にもその伝統が生きている。鎌倉時代の約一五〇年、江戸時代の約二六〇年、第二次世界大戦以後の六十数年と平和が保たれているのも、日本の権力構造の伝統と無縁ではあるまい。


ワの精神


 何故か?それは日本人が話し合いを好むからである。話し合いを重んじ、話し合いに無上の価値を置いているからである。


 コトダマ(脚注20、21)とケガレ(脚注22、23)というキーワードも大きく関係する。しかし、物事を分かり易くする目的から、「話し合い」「ワ」だけに焦点を当てる。


 次回はこの続編である。まず「話し合い」「ワ」の精神のルーツを探る。そして、その精神が、歴史上どれほど日本を困難に陥れてしまったか、その例を挙げる。その上で、現代の我々が持っている価値観、世界観の歪みを見つめ、今後はどのようにすべきかを考察する。


(了)




脚注


17)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
18)石 平「中国大虐殺史—なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年、ビジネス社。
19)一一九二年、鎌倉幕府の成立:ただし、これは源頼朝が征夷大将軍に正式に任官された年にすぎず、鎌倉幕府の統治機構の成立は、現在の理解では、それよりもっと前だったとされる。
20)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
21)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
22)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
23)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/3/22_ⅶ)_ケガレと差別.html




(3022文字)




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ii )ワのルーツと危険( I )和のルーツ

和のルーツ 2009.5.31


by OWL




和のルーツ

「話し合いが大好き」という、日本人の一大特徴を取り扱っている。前回、その特徴が良い方向に作用した例を歴史上から見てみた。


 今回はまず、「話し合い」「ワ」の精神のルーツを探る。その後、日本を危険へと導いてしまった例を挙げる。現代の我々が持っている価値観、世界観などの歪みを見つめ、どうすれば良いのか考察したい。


五箇条の御誓文


「話し合い」「ワ」の精神が、いつどのようにして日本人の心に刷り込まれていったのだろうか?その精神が盛り込まれている歴史的文章を、最初に取り上げてみることにしよう。


 明治元年(一八六八年)、薩長土肥連合による明治新政府は、明治天皇が公家や諸候に示すという形で、基本方針を発表した。日本語で国内向けに発表されただけでなく、外国語にも訳されて海外にも公表された「五箇条の御誓文」である(脚注1)。


  広く会議を興(おこ)し万機(ばんき)公論(こうろん)に決すべし
  上下心を一にしてさかんに経綸(けいりん)を行なうべし
  官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、
              人心をして倦(う)まざらしめんことを要す
  旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基づくべし
  智識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし


「広く会議を興し万機公論に決すべし(=盛んに会議を起こして、すべてを話し合いによって決めていくべきである)」、「五箇条」の第一番目である。この項目が公約の形となって、自由民権運動、憲法制定、帝国議会の開設につながってゆく。


 西郷隆盛、大久保利通と並んで、維新の三傑と言われる木戸孝允(桂小五郎)は、岩倉使節団に随行しワシントンに滞在している間の明治五年、一時忘れられかけていた「御誓文」を再発見する。


「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語り、帰国後、立憲政治の出発点として正式に位置づけた(立憲政体の詔書:明治八年、一八七五年)と言われている。


 現行の日本国憲法を審議する国会(一九四六年、昭和二十一年)においても、当時の吉田茂首相は次のように説明した。


「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。


 この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」


 もっとも、吉田茂を認めない人びとは、独りよがりの体制側の主張と一刀両断するかもしれない。


十七条の憲法


 話はさかのぼって、聖徳太子がまとめたといわれる「十七条の憲法」(脚注2)も、話し合い中心主義を訴えている。「和をもって尊しとなす」として有名な冒頭の第一条の全文は、現代語訳で次のようになる。


「おたがいの心が和(やわ)らいで協力することが貴(とうと)いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。


 だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和(やわ)らぎ睦(むつ)まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」(中村元著「聖徳太子」東京書籍)


「お互いの協調性を保つ」ことが最も大切で、「協調性をもって話し合うならば、正しい結論が見つかり、何でも成し遂げることができる」と言っている。話し合い至上主義である。


 聖徳太子は、推古天皇の摂政として国政をあずかっていた。当時、仏教はまだ外来宗教の色合いが濃かった。その仏教の信奉者として、聖徳太子は有名である。天皇中心の政治を推進するべしと、仏教信奉者の立場で書いた部分が、十七条の憲法の第二条と第三条にある。


「篤く仏教を信奉しなさい」
「王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい」


 だが、最後の第十七条では、もう一度「話し合い」の大切さを謳う。


「ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう」


 聖徳太子は、個人的な考えとして、第二条と第三条を主張したかった。「仏教を信奉し、天皇の命令に従いなさい」と。しかし、その主張を第一条と第十七条でサンドイッチのように挟んでいる。


「協調性をもって話し合い、正しい結論を見つけなさい。何ごとでもうまくいきます」というパンで挟んだ。このパンの部分は、聖徳太子が考えたものではない。むしろ、当時から日本人全体を支配していた基本的な考え方、共通原理、信仰のようなものであった。


 話し合いを重んじ、話し合いさえすればものごとは全てうまくいくという考えを、山本七平氏は「話し合い絶対主義」と名付けた。


「話し合い絶対主義」「話し合い至上主義」は、日本史全体を支配している日本人特有の原理と言ってもよい。井沢元彦氏は、「十七条の憲法」は、初めてそれを文章の形で示したものだとしている(脚注3、4)。


國譲りの神話


 この原理は、いつどのようにして成立していったのであろうか?


 現存する信頼できる資料は「十七条の憲法」が最古のものと言える。話はもっとさかのぼって、十七条の憲法より二〇〇〜三〇〇年も古く書かれた書物に載っている神話にも、「話し合い絶対主義」の原型があると考えている人がいる(脚注3、4)。


 天皇家の祖先である天照大神(あまてらすおおみかみ)の言葉で、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」というものが日本書紀にのっている。この言葉を発する文脈の中に、有名な「國譲り」の場面というものがある。


 要点だけを書くと次のようになる。天皇が支配する以前、日本には別の王がいた。中でも出雲(いずも)の大国主(おおくにぬし)が、先住民族の王として日本を支配していた。


 そこに後から、高天原(たかまがはら、九州地方?、畿内地方?、朝鮮半島?と諸説あり)というところに住んでいた別の王がやってきて、その土地を譲るように言った。


 普通なら戦争になるところを、「話し合い」によって決めた結果、大国主が天照大神の子孫に国を譲ることにした。話し合いによって決めたことだから絶対にうまく行く。


「この日本国は、わが子孫である天皇家が治めるべき国であって、その真理は永久不変で変わらない。天地がずっと続く(天壌無窮)ように変わらない」と、天照大神が自信満々に宣言する。


 この神話は、そのまま真実であったわけではない。恐らく、大国主の出雲(先住民族)と天照大神の大和(やまと:新来の民族)の間に戦争があり、その結果、大和が勝ち出雲は無条件降伏した。大国主は捕らえられた。そのあと、先住民族と征服民族は何らかの形で共存した。


「國譲り」の場面では、実際は戦争に勝って国を奪ったのに、それを美化・正当化して、話し合いで譲ってもらったという形にした。昔から、日本では話し合いによる権力移譲・禅譲を「正しく美しい」こととして考えていた。


 話し合い絶対主義は、神話の時代から日本に存在した。その後も日本人特有の原理として、脈々と受け継がれてきたというわけである。(つづく)




脚注


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/五箇条の御誓文
2)最近では聖徳太子の存在を否定する学説もあるという。
3)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
4)井沢元彦「逆説のニッポン歴史観」小学館文庫、2005年、小学館。




(3292文字)




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ii )ワのルーツと危険( II )和の恩恵

和の恩恵 2009.6.1


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和の恩恵

ワの精神の恩恵


 外国ではそうはいかない。先住民族は虐殺されるか追放される。既述したように、中国王朝ではおびただしい人びとが惨殺された。特に権力を握っていた側は、新たな支配者によって、七族から九族に至るまで誅殺される。


 アメリカ大陸でも、主にスペイン人によって、先住民の男は虐殺されるか奴隷とされ、女も奴隷とされた。スペイン人たちは、多数のインディオ女性を妾として性的関係をもった。その関係から生まれた混血の子孫の数はあまりにも多い。現在、メスティーソと呼ばれる人びとがそれである(脚注5)。


 アメリカ建国史でも、先住民族のネイティブアメリカンは西へ西へと追い立てられる。反抗するものは虐殺され、その人口は実際に激減した。先住民族と征服民族は共存できないのが当たり前だった。


 ハワイも、アメリカに組み入れられるまでに、先住民族の人口は十分の一程度になった。何故か?ここに書くまでもない。


 聖書の世界でも、先住民族は皆殺しにされた。日本人からすると、何とも残酷極まりない話だ。受け入れるのがたいへん難しい。しかし、当時の世界的な標準から見ると、残念ながら当然のことだった。


 戦争では、皆殺し、あるいは奴隷か性的奴隷。それが、世界の国々では当たり前だった(脚注6)。もちろん、世界的な標準が必ずしも正しいとは限らない。


 日本人が当たり前と思っている「ワ」「協調性」「話し合い」の精神、われわれはその恩恵に浴している。日本で平和が長続きし易く、権力奪取の際にも他国のように残虐な皆殺しがほぼ皆無だった。権力闘争が繰り広げられる時も、最少の犠牲者を出すだけで済んだ。


 しかも、外国に支配され、むごたらしい仕打ちを受けることもなかった。こんなに恵まれた幸せな民族は世界のどこにもない。(つづく)




脚注


5)http://ja.wikipedia.org/wiki/メスティーソ
6)残虐な殺し合いとレイプは、二十世紀まで続いた。旧ユーゴスラビア崩壊を受けての内戦における「民族浄化」というおぞましい出来事は、ついこの間のことである(ユーゴスラビア紛争:1991〜2000年)。




(879文字)




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ii )ワのルーツと危険( III )負の側面

負の側面 2009.6.2


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負の側面

当事者同士の合意の絶対化


 それでは、日本史を貫く共通原理である「ワ」「協調性」「話し合い絶対主義」の弱点はないのか?もちろん、物事にはカゲの部分がある。たとえば、「合意の上なら何をしても良い」という、行き過ぎた考え方の土壌となる。


 その例として、少女売春、援助交際の当事者にどう話をするかという場合を考えよう。説得しようとしても、当の少女は「相手も楽しいし自分も楽しいし、世の中の誰にも迷惑をかけていない。なぜこれがいけないのか」と反論する。


「彼女たちの主張は要するに当事者同士の合意が絶対で外から拘束するいかなる法や道徳も認めないということだ」と山本七平氏は述べている(脚注7)。


 私たちはよく、「人さまに迷惑だけはかけないようにと、子どもを育ててきました」という親の言葉、教育方針を耳にすることがある。子どもも「親から、人さまに迷惑だけはかけないようにと、口酸っぱく言われました」と語る。


 当人たちは、控えめな気持ちを込めていたり、あるいは、胸を張って「これだけは最低限守って(守らせて)きた」という自負心を込めていたりするのかもしれない。


 「人さまに迷惑だけはかけないように」というのは、日本人が共有している「ワ」「協調性」「話し合い絶対主義」という原理・原則の言い換えである。日本人が共有する倫理観、道徳観、信仰のようなものである。


「話し合い」「合意」「協調性」が「絶対的」であるという前提のもとでは、他の全てが相対的となる。それ以外に、どんな時にも、いつの時代でも共通する真理など、他にはない。


 煎じ詰めると、この前提のもとでは、不倫も、同棲生活も、裏切りも、イジメも、人殺しも、盗みや万引きも、ゴミを散らかすのも構わないことになる。


「誰にも迷惑をかけていない」「(自分が合意したいと考えている人たち<仲間>の間で)合意が得られさえするなら、何をやってもいいではないか」ということになる。


「パートナーも、自分が他の異性と性的関係を持っていることは承知している」「バレなきゃいい」「自分の将来の結婚相手だって、相性を試すために肉体関係を結婚前に持っているだろう」「合意の上だ」と。


「イジメのどこがいけないのか」「イジメられる方にも問題がある」「みんなやっている」「人殺しがなぜいけないのか」「政府だって死刑で人殺しをしているではないか」「理由があるならやっても良い」と。


「店も一定数の商品が万引きされることを前提に商品を仕入れている」「万引き自体は悪いことでもなんでもない」「弁償すれば迷惑かけたことにならないよね」「自分が刑務所に行ったり罰金を払ったりすればいいんでしょ」と。


「ゴミを拾う人の仕事を奪わない方がいい」「ゴミを散らかすのは、拾う人の雇用確保のためだ」などなど。


 この世界が行き過ぎると、倫理観、道徳観は崩壊すると言ってよいだろう。あるいは、既に崩壊しているのかもしれない。日本の倫理・道徳の基盤は非常に脆弱である。絶対的な真理はない。


曖昧な責任、遅い意思決定


 あと、日本のどの組織でも、「みんなで話し合って決めている」ので、「責任の所在」が明確でない。薬害エイズの問題でも、非加熱製剤が原因であることを知った厚生省の役人がいても、患者の立場に立った解決を選択しなかった。全体として決断を見送り放置した。


 当時、非加熱製剤の禁止という措置を迅速にとることをしなかった。そうすべきだったのに、なすべきことを行なわなかった。「みんなで話し合って決めた」という「免罪符」を得ている。そう考えるからである。


 最近流行しはじめ、物議をかもしている新型インフルエンザの防疫体制の問題でも、話し合い絶対主義の弊害が、少しばかり垣間見える。みんなで話し合って決めているので、対応がどうしても遅くなる。後手、後手にまわる。


 日本人は合意を重んじ、話し合いを持つことが最善と考えているため、緊急非常の時に迅速な対応ができない。毒性が季節性インフルエンザ並みと分かった後も、「今までのインフルエンザと違います」と声高に反対する人がいる。


 そのため、毒性の強いトリインフルエンザ用として策定した防疫体制を、なかなか思い切って緩和することができない。「鶏を割くのにいずくんぞ牛刀を用いんや」のことわざ通りとなり、大騒ぎが続く。(つづく)




脚注


7)山本七平「『あたりまえ』の研究」ダイヤモンド社。




(1794文字)




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ii )ワのルーツと危険( IV )和が破滅を招く

和が破滅を招く 2009.6.3


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和が破滅を招く

軍国主義の真の姿


「話し合い絶対主義」「ワ」「協調性」が、日本の国を破滅に導くこともあった(脚注3、4)。もちろん、六十数年前に負けた例の戦争のことである。


 日本は軍国主義で、天皇絶対の国家だった、というのが歴史的常識となっているかもしれない。しかし、日本は軍国主義でも、天皇絶対の国家でもなかった。話し合い中心主義、協調性、ワを過度に重んじるあまり、状況判断能力、意思決定能力が貧弱過ぎたのである。


 北岡伸一氏は次のように述べている(脚注8)。


「誤解を恐れずに言えば、日米開戦前の一九三〇年代後半の日本は意思決定能力が貧弱で、軍国主義ですらなかったと思うのです。軍事の基本は、敵を知り己を知る事です。負ける戦争はしないのが軍事のプロです」


「太平洋開戦当時、中国との戦争は既に四年五ヶ月にも及びながら勝てなかった。主要国の中で同盟国だったのはドイツ、中立関係にあったのはソ連で、いずれもあてにならない国でした。そんな状況で、米英の両大国と戦うのは自殺行為でした」


「国際情勢を踏まえた冷徹な現実認識に欠け、また総合的な意思決定の場がなかったということです。例えば、日本の仮想敵国について、陸軍はソ連、海軍はアメリカをそれぞれ挙げ、両者の妥協の結果、両国共に第一仮想敵国にされてしまった」


「開戦直前の日米交渉では、中国からの日本の撤兵が日米衝突回避のための決定的な条件となったが、陸軍は<戦死者に申し訳ない>との理由で撤兵を拒否しました。<今更やめられない>という情緒的な論法は、昨今の行政でもよく耳にします」


「一方、海軍も<予算をもらって軍事拡張してきた手前、戦えないとは言えない>と考えました。国家の運命よりセクションのメンツの方が優先されたのです」と。


 戦前の日本は、「国家の運命よりセクションのメンツ」「国益より省益」の方が優先された社会だった。真の軍国主義ならば、中国との戦争を継続しつつ、超大国アメリカと戦争を始めるようなバカな判断はしない、というわけである。


 もし、天皇絶対だったならば、ここで戦争は阻止されていたかもしれない(脚注9)。 しかし、当時は天皇絶対だったわけではない。


 二・二六事件(一九三六年)を鎮圧するのに自分の意志を働かせた昭和天皇が、当の反乱軍将校たちにどう思われていたかを示す文章がある。


「二・二六事件の生き残りの人達の座談会が『文藝春秋』にのっていたのを読んで、非常に不愉快だった、吐き気を催しましたね」と、阿川弘之氏がその著書の中で紹介している(脚注10)。


「つまり陛下が二・二六事件を失敗に追い込んだということですね」
「私は、いまでも…ああ、この方がわれわれの事件を潰したんだなあ、と思いますよ」と。


 部下である将校が、トップの命令に従うどころか、テロを実行し天皇を利用して自分たちの考えを実現しようとした。日本では権力が集中せず、天皇独裁ではなかったというのが歴史的事実である。


 日米開戦の直前でも、絶対的権力を持つ指導者がいたならば、そこでストップがかかっていたかもしれない。残念ながら、ストップはかからなかった。


ワの絶対視が危険な時


 当時の世論は日米開戦を希望していた。世論は圧倒的に「アメリカ憎し」だった。日米開戦の大本営発表(一九四一年<昭和十六年>十二月八日)を、日本の著明な文学者が何人も「暗雲晴れて」と表現したほどだった。そういった世論の中で(一九四一年十月十八日)首相となったのが東条英機である。


 当時、アメリカから「ハル・ノート」という最後通牒を突きつけられていた(脚注11)。それを呑んで中国から手を引くことは、日本の滅亡につながると多くの国民が思っていた。東条英機率いる内閣には、その時「ハル・ノート」の扱いに関する決断が委ねられることになった。


 日米開戦を徹底的に避けること、それが日本の生きる道だった。中国から撤退してでも、国を守るという真の国益中心の判断をする以外に道はなかった。


「アメリカ憎し」の世論を抑える必要があった。膠着していた中国戦線から手を引き、中国の内戦(脚注12)には表向き干渉しないというスタンスに、基本方針を大きく変更するべきだった。中国からの撤兵は、決して日本の滅亡にはつながらないことを国民に示す必要があった。


 これまでの犠牲者に申し訳ないという情緒的な反論に、いかに対抗するかも大きな課題だった(脚注13)。ともかく、米英に新たな戦争は仕掛けないという冷徹な決断が必要だった。


 しかし、東条英機は「戦争をしない」という決断ができなかった。日米決戦を支持する強力な世論、陸軍、海軍など八方に目配りをし、「ワ」をもって話し合いを続けた。その結果、ズルズルと日米開戦が決定してしまった。


「話し合って決めたことは正しい」という伝統的な原理・信仰によって、日米開戦は決定されてしまった。「ワ」の絶対視が、国を滅ぼしたと言ってもよい(脚注3、4)。


「総合的な正しい情報処理と冷徹な世界情勢分析」「大所高所から見た正しい決断」よりも、「話し合いによって到達した結論」の方が重要だったのである。(つづく)




脚注


3)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
4)井沢元彦「逆説のニッポン歴史観」小学館文庫、2005年、小学館。
8)北岡伸一「21世紀への視座」1997年8月15日夕刊、読売新聞。
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇:1941年9月6日の御前会議では、対英米戦やむなしの方針が決定された。席上、昭和天皇は慣例を破り発言した。その中で、明治天皇が作った短歌「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」を吟じ、反対の思いを間接的に表現したと言われる。もっとも、天皇の戦争責任を問うグループや、当時が天皇絶対制だったと主張するグループの意見は違う。上記の短歌を詠み上げて日米開戦に反対したという逸話も、昭和天皇が戦後にGHQを意識した回想録の中で述べているので、後からつけた単なる言い訳に過ぎないと主張する。
10)阿川弘之「国を思うて何が悪い」光文社文庫、光文社。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/ハルノート
12)中国の内戦:当時は、満州族(タタール、韃靼人)による、植民地的な他民族支配(清王朝)が終焉を迎え(辛亥革命:1911年)、漢民族が国民党(アメリカが支援)、共産党(コミンテルンが支援)、地方軍閥、汪兆銘政権(日本が支援)に分かれて戦っていた。そればかりでなく、チベット(英国が支援)やモンゴルも独立を宣言し、満州族は日本の支援で独立国家を成立させていた(欧米諸国の承認は得られていない)。このように、当時のこの地域では、清王朝の領土的遺産を、いったい誰が相続するかという、深刻な内戦を繰り広げている状態にあった。日本は、こうした内戦に直接は首をつっこまず、あるいは内戦の火に油を注がない方が身のためだった。
13)情緒的な反論:日露戦争講和(ポーツマス条約)に反対した頃の日本の新聞の論調は、「平和の値段が安すぎる」というものだった。犠牲者に申し訳ない。講和反対。戦争継続だった。日中戦争に突入していって後戻りできなくなる頃も、戦争不拡大方針という日本政府の方針に反対する陸軍は、声高に主張した。このままでは「英霊に申し訳ない」。さらに、日米開戦かどうかという時も、陸軍省の理由は、「戦死者に申し訳ない」「引くに引けない」だった。
 こういった論調は、現在も引き継がれている。左翼グループは、「太平洋戦争戦没者」に申し訳ないので、「戦争」に反対し、護憲運動を展開する。右寄りのグループにも、同じ理由で、すなわち「大東亜戦争の犠牲者」に申し訳ないので、「自虐史観」はもうやめようと主張されている。
 平和の値段に関する議論、犠牲を無にできないという情緒的な考えについては、今後、別項目を立てて詳しく扱う。




(3245文字)




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ii )ワのルーツと危険( V )話合い絶対主義との訣別

話合い絶対主義との訣別 2009.6.4


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話合い絶対主義との訣別

歴史に学ぶと


 私たちは、「ワ」「協調性」を重んじてきた。そこから、多大な恩恵にあずかってきた。草の根民主主義の精神は今も生きている。ボトムアップでの話し合いや打ち合わせを重ね、地域社会がかかえる課題への取り組みや会社での製品の品質改良などに貢献している。


 敵対する相手がいても、最後まで徹底して追いつめることをせず、共存がはかれるような工夫と忍耐をすることに長けている。誰も見ていなくても、敵対する相手に卑怯なことはしない。ウソをついてでも相手をやりこめたり、攻撃したりすることを本能的に控える傾向がある。


 言葉で表現せずとも、共通した文化の中で暮らしているものどうし、互いに分かり合える傾向がある。そのため、荒々しい言葉でトゲトゲしたやりとりをすることが少ない。無用な争いを控える傾向がある。


 困難に際して、諸外国なら暴動が起こってもおかしくない時に、日本人は整然と忍耐強く振舞うことができる。「公(おおやけ)」のものを大切にし、秩序を守り、与えられた任務に忠実で、時間を守るなどという特性にも通じている。


 それは、我々が何も考えておらず、自立精神が欠如していることを表しているわけではない。狭い国土の中で意見の違う人びとと共存するために生み出した知恵と言って良い。「ワ」「協調性」をもって過ごす方が、より心地よく暮らせることを、自然と身につけたからである。


 これらの長所は、もっともっと伸ばしていけば良い。無理解な批判に対して、動揺したり恥じたりする必要はない。世界に誇れる、道徳的にも優れた特性だと言って良い。


 しかし、「ワ」を絶対視することに伴う危険性が、確かに存在する。上述のような「話し合い絶対主義」の欠点を、私たちはどれだけ認識しているだろうか?


 当事者同士の合意を絶対視して、他のいかなる倫理的、道徳的、法的な拘束を受けないという行き過ぎた考え方と対決しなければならない。当事者同士の合意以上に大切な価値や基準が存在することを伝え、基盤が脆弱な倫理観、道徳観を強固なものとしなければならない。


 責任が不明確になりやすい傾向がある。「話し合って決めた」ということを免罪符としてはならない。責任の所在を明らかにする必要がある。「話し合い」の結果、実行すると決めたことについて、結果責任を問うシステムをさらに作り上げる必要がある。


 逆に、「話し合い」の議題に上らず、そのまま放置してしまった場合の結果責任も、追求していく必要がある。


 意思決定のスピードが要求される場面がある。「話し合い」の中に、絶えず時間のファクターを入れ込んでゆく必要がある。時間をかけてじっくり決めてゆけば良いことと、時間を限って最善の方策を決定していかなければならないこと、緊急事態・非常事態とを峻別する必要がある。


 緊急事態・非常事態には、タブーを設けず、あらかじめそういった事態を想定した行動計画をシミュレーションしてゆく必要がある。


 日本人同士なら言わなくても分かる「ワ」「協調性」だが、異文化に育った人々と接する時には、まず通じない。外国と付き合っていく時、すなわち外交や経済交流でも、ちぐはぐな経験をする。


 自分の考えを言葉にして、具体的に発信することが苦手である。そのため、何を考えているかわからない、得体の知れない民族と思われてしまう傾向がある。


 それを防ぐためにも、意見を表明するべき事柄、時(タイミング)、場所、状況を判別する能力と、自分の考えを発信する能力(コミュニケーション能力)を養い育てる必要がある。


 セクショナリズム、別な言葉を使うなら、官僚主義、省益優先主義を絶対に許容しない仕組みが必要である。国益を最優先して総合的・大局的に判断する場、システムを確立する必要がある。国益優先主義を徹底させる不断の努力がなされるべきである。


 総合的で冷徹な世界情報の分析と判断、大局に立った意思決定のためには、「話し合い絶対主義」と戦い、時には反対勢力を押し切ってでも正しい選択をしてゆく、強いリーダーシップが求められる。


 日本では、独裁的な指導者は嫌われ、リーダーシップの発揮には重大な責任が伴う。「歴史が判断し、やがて答えをくれる」といった大きな視点に立ち、「話し合い絶対主義」と訣別しなければならないこともある。そうした視点や決断が、指導者にも国民にも求められる。


 話し合いによってしても、到達することのできない真理や実現できない目標がある。その事実を受け入れるところから、「話し合い絶対主義」との訣別は始まる。日本人にとって簡単なことではないだろうけれど。


(了)




(1885文字)






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