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(2)日本人の深層心理 OWL のひとりごと

i )コトダマ(Ⅰ)言霊(コトダマ)の怖さ

言霊の怖さ 2009.2.15


by OWL




言霊の怖さ


 日本人は議論が上手か?考えるのが得意か?合意を形成するのがうまいか?目標を達成するために冷徹になれるか?その結果、日本人は歴史の中でどのような利益を享受し、どのような不利益をこうむってきたか?


日欧比較文化学と「日本通史」学


 今回からは、何回かにわたって、日本在住の作家、評論家、日本史研究家として活躍中の井沢元彦氏の著作(脚注1、2、3、4)を窓口にして考えてみる。


 日本人は議論が上手なのか下手なのか、考えるのが得意なのか思考停止しやすいのか、合意を形成するのがうまいのか苦手なのか、目標を達成するために冷徹になれるか他の何かを犠牲にできずに目標を失ってしまうか、また何故そうなのか考えてみたい。


 前項では、海外在住の日本人の作家、評論家で、日欧比較文化学にも造詣の深い松原久子氏の著作(脚注5)を窓口にして、欧米人の世界観、歴史観がどのようなものであるか考えてみた。


 我々日本人は、欧米人の鏡に映る世界観、歴史観をボンヤリと眺めている。無意識のうちに自分をそこに投影している。そういった我々の世界観、歴史観は歪んでいないだろうか。


 他の国の人々の主張をただ黙って聴くばかりでなく、もっと意見をはっきり述べて議論していくべきではないだろうか。問題意識はそこにあった。


 日本人論とか日本人の世界観を考える上でもう一つ大事な視点は、我々が自国の歴史から学んでいるかどうかという点だと思う。そこでご登場願おうと思っているのが井沢元彦氏である。


 井沢氏についてコメントする前に、井沢氏と松原氏の共通点をあげてみよう。作家、評論家として活躍していること。そればかりでなく、本業の他に得意分野を持っていることだ。


 松原氏は、日欧比較文化学という切り口によって、日本の歴史を客観的に描き出すことに成功している(脚注5)。井沢氏は、日本史の研究を通して、日本史全体を貫くキーとなる概念を発見し、歴史のみならず現在の課題を読み解くことにも成功している(脚注6)。


 私は井沢氏の考えに100%賛成しているわけではない(脚注7)。しかし、彼が発見したキー・コンセプトと日本史のとらえ方には、驚きと感嘆の声とともに心から同意する。


 また議論の組み立て方には尊敬を払いたい。我々が自国の歴史から教訓を真剣に学び取り、将来進むべき正しい道を選び取る助けとなる。


 彼は、作家としての活動をはじめたあと、一九九二年<平成四年>に最初のノンフィクション作品「言霊(ことだま)」を発表した。そのあと数々の評論活動を展開し、次々と個性あるメッセージを発信している。


 その中では一貫して、右派的と受け取られる発言を繰り返している。それゆえか、ハナから彼の理論に耳をかさず理解を示そうとしない人がいる(脚注8)。しかし、本当に日本の将来を思うなら、それは決してとってはいけない態度だと思う。


 井沢氏は、日本の歴史を学んで不思議に思ったそうである。なぜ、時代ごとに細分化された話ばかりで、時代を超えたつながりが一切わからないのだろう。日本の歴史とは一体どういったものなのか全く見えてこないのは何故なのだろう、と(脚注9)。


 誰にもわからないのなら自分で調べてみようと、彼は研究に研究を重ねた。日本の歴史全体を俯瞰する、言わば「日本通史」学である。十数年にわたる研究の果てに一つの結論に到達した。それをまず「言霊(ことだま)」として上梓したわけである。


コトダマ(言霊)の怖さ


「コトダマ(言霊)」とは「言葉に宿っている不思議な霊威」(広辞苑)で、古くは「万葉集」にも出てくるらしい。日本語の中で最も古い概念の一つであると紹介したうえで、井沢氏は次のように述べる。


「こう言ってしまえば、この二十世紀にことさら取り上げるべきものではないと思われるかもしれない。


 とんでもない話である。まず、コトダマは今でも生きている。われわれ日本人のすべてがこのコトダマの影響下にあり、支配されていると言っても過言ではない。しかも、さらに致命的なことに、日本人は自身がコトダマに支配されていることを、まったく知らないのである。


 その支配が日本民族全体を幸福へ導くならば、あるいは放っておいてもいいかもしれない。ところが、このコトダマは日本を危うく滅ぼしかけた。そして将来、もし日本を滅亡に導くものがあるとすれば、それもやはりコトダマなのである」と。


 今も生きていて、日本人すべてを影響下におき、無意識のうちに支配し、日本民族全体を滅ぼしかねないコトダマ。そう聞くと、恐ろしい怪物のようなものを思い浮かべるが、実際に次のような説明が続く。


「コトダマとは、日本人の心に巣喰う恐ろしい妖怪である。まず、われわれがやらねばならぬことは、この妖怪の正体を知り、それを退治することだ。そんなことをする必要がないと思う人は、その恐ろしさを知らないのである。


 もっともこうは言っても、にわかに信じられないのは当然だ。私自身もコトダマの研究を始めて十数年になるが、日本人がこれほどまでにコトダマに毒されていることが分かったのは、つい最近のことである。しかし、今ではコトダマを克服さえすれば、当面日本人が悩んでいる問題の大部分は解決されるとすら思っている。


 たとえば、言論の自由の問題、差別語問題、未来予測の問題、そして日本史上の数々の疑問の解決、それに戦争と平和の問題-----。


 それに加えて、あえて言おう。あの悲惨な太平洋戦争も、コトダマを克服さえしていれば、起こることはなかっただろう。これは、けっして誇張して言っているのではない」と。


 井沢氏は、コトダマという恐ろしい妖怪の正体を明らかにし、われわれ日本人を悩ませている当面の問題が妖怪コトダマによることを指摘する。妖怪を退治し、諸問題を解決しようと提案する。


 初めて読む人に特にインパクトを与えるのが、顕著な例として挙げている「あの悲惨な太平洋戦争」についてだろう。そこに行く前に、コトダマの基本的な姿を紹介しよう。まだ妖怪とは思えない段階からはじまり、次第に化けの皮が剥がれていく。(つづく)




脚注


1)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
2)井沢元彦「言霊Ⅱ」1997年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
3)井沢元彦「『言霊の国』解体新書」1993年、小学館。
4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
5)松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」田中 敏訳、2005年、文藝春秋。
6)「優れた歴史小説の書き手は、必ず歴史を読み解くキーを所有している。井沢君にとってそのキーは、言霊であった。日本人の心の奥に潜んでいる言霊への怯えや、無意識な支配力を解析することにより、彼はこれまで歴史の陰に隠された真実を、いくつも掘り起こすことに成功してきた。
 現代の我々の行動も言霊に支配されている。宗教でも道徳律でもない言霊というものが日本人を縛り、それゆえにこそ、日本人は独特なのである。この本は、希有な日本人論ともなっている」(作家:高橋克彦氏による紹介文、井沢元彦「言霊」ibid)
7)後ほどその詳細については述べるつもりである。
8)井沢氏は、「新しい歴史教科書をつくる会」にも所属している関係もあり、いわゆる左翼系の「進歩的日本人」からはあまり良くは思われていないフシがある。
9)井沢元彦「点と点が線になる日本史集中講義」2004年、祥伝社ノンブック、祥伝社。


(3038文字)




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i )コトダマ( II )コトダマイズム 〜かく言えばかくなる〜

コトダマイズム 2009.2.16


by OWL




コトダマイズム 〜かく言えばかくなる〜

コトダマ(言霊)とは?


 コトダマとは「言葉と実体(現象)がシンクロする。ある言葉を唱えることによって、その言葉の内容が実現する」という考え方のことだという。簡単に言うと「雨が降る」と口にすれば実際に「雨が降る」という考え方である。


「雨が降ってほしい」という願いを実現させるために、「雨よ降れ」とか「雨が降る」という言葉を口にする(発音する)ことをコトアゲという。非科学的だと思われるかもしれないが、こういった考えに支配されているのがコトダマの世界だという。


 みんなが「雨が降らない」ことを期待している中で、雨のことを口にするアマノジャクがいたとする。当日ほんとうに雨になった場合、「おまえが変なことを言うから本当に雨になっちゃったじゃないか」と、そのアマノジャクに非難が集中する様子を想像すれば良いという。


 こうした非難は遊び半分でよく耳にする。また、不吉なこと、縁起でもないことを言わないという傾向がある。困難が予想されるかもしれない、ということを口にしないという傾向も。


 ある病院で当直しているスタッフが三人いたとして、「今夜の当直は荒れて救急患者が入ってきそうだ」と誰かが感じてもそれを口にしないようにする。それを口にすると「本当に荒れた当直になったらイヤじゃないか」と遊び半分でたしなめる。


 どういう当直になるか予想すること自体を避けるとか、「平穏無事な当直となる」と予想し心の中で念ずる、など。非科学的だと思っても、こうしたケースは結構「あるある」とうなずけるような気がする。


 こうした「のどか」で無害な例に、何も目くじらを立てる必要はないだろう。しかし、井沢氏はハイジャック犯によって日本の航空機が乗っ取られた場合の対応を例に引いて、コトダマに支配されることの怖さを説明する。


 「たとい犠牲が生じたとしても強行突入すべきだ。犯人にハイジャックは割に合わないことを思い知らせ、こうしたテロを防止するようにすべきだ」と、テレビなどで発言する人は日本にはいない。


 何故なら、その発言の瞬間からテレビ局には非難の電話やメールが殺到する。曰く「それでも人間か?」「家族の気持ちを考えろ」「何故あんなことを言わせた?」など。


 もし日本政府が強硬突入を選択して、ハイジャック犯は全員射殺されたが人質に被害が出たとすると、テレビで強行突入に賛成の意見を述べた人にはますます非難が集中する。「お前があんなことを言うからこうなったんだ」「お前の責任だ」「遺族にあやまれ!」など。


 非難される人は「人質に死人がでることを願った」とみなされ、表明した「意見」に責任が問われる。そんな世論が巻き起こる。


 日本に住んだことのある人なら、容易に予想できる現象である。ある意見を出せば、意見を言ったことの責任まで追求される。ここ日本という国は、何故か自分の意見を言いにくい社会である、と。しかし、本来ならば、それは非論理的である。おかしいのである。


「責任というのは与えられた権限に対応する概念」であって、治安当局には事件に対処する義務があり、事件を解決するための人員と装備が与えられている。


 対処のための方策のうちどれを採用し実行するかという決定は、権限が与えられた人の裁量に任されている。その権限ある人が、事件の対処のために取った意思決定とその結果に全責任を負うのである。


 そもそも悪いのはハイジャック犯というテロリストである。「強行突入をしてでも事件の解決を図るのに賛成だ」という単なる意見を出した人は、人質の中に死人がでることを願ったわけではない。


 しかし、日本では、ハイジャック犯の卑劣さを非難する声よりも、犠牲者を出したことへの非難の方が大きくなる。単なる意見として「強行突入を」と言った人に「言ったことの責任をとれ」という非難が浴びせられる。


 ハイジャック犯が全員射殺された場合、そのことに対しても「なぜもっと話し合わなかったんだ」「そもそも人殺しはいけない」「何故生け捕りに出来なかったんだ」という非難の論調がマスコミを通して紹介されるだろう。


 ハイジャック犯の卑劣さを断固許さないと口では言うかもしれないが、断固許さないという決意を行動で示した人々に賞賛は向けられず、やむなく死者を出したということだけで非難され続けることになるだろう。しかも、単なる意見を言っただけで非難されるのである。


 これはどう見ても健全な現象ではない。社会の病理として原因を探った方が良い。治療法を見つけた方が良い。井沢氏は言う。原因はコトダマである、と。


コトダマイズム


「そもそも論理的に考えてまったく責任のない者に、どうして責任を問うのかといえば、論理以外の『非論理』の世界で責任を問われるようなことをした、と非難する側が考えるからだ。


 ではその『非論理の世界』における責任とは何か。それを解く鍵は『おまえがあんなことを言ったから、こうなったんだ』という非難の言葉の中にある。


 つまり、こういう人間は『言ったこと』と『起こったこと』の間に、因果関係を認めているわけだ。すなわち、何かを言えば、それに対応して現象が起こる。言ったことと起こったことがシンクロする、そう信じているからこそ、この非難の言葉が出てくるのだ。


 言い直せば、結局『おまえ』が発した『人質に犠牲者が出ても止むをえない』という言葉のコトダマが、人質の死を招いた。だからそんなコトアゲをした『おまえの責任』だ、ということなのである」と説明する。


「かく言えばかくなる(こう言えばこうなる)」というコトダマの作用をどこかで信じているのが日本人であり、そういう作用を信じることをコトダマイズムと井沢氏は名付ける。コトダマイズムを信奉している人々はコトダマ信者、コトダマイストと呼ばれる。


 日本はコトダマ信者(コトダマイスト)の住む国であり、コトダマ信仰(コトダマイズム)がまかり通っている国だというのである。


 コトダマの支配する世界では、言葉は「いい(結果を呼ぶ)言葉」と「悪い(結果を呼ぶ)言葉」に二分される。「言っていいこと」と「いけないこと」の区別が生じる。自由に言葉を使うことができない。


 それゆえ、「言い換え」が頻繁になされる。例を挙げると、「値上げ」を「価格改定」と言い換える。「戦乱」の物語を「太平記」、「敗戦」を「終戦」と言い換える。「全滅」を「玉砕」、「明国侵略」を「唐入り、朝鮮征伐」と言い換える。


「中国大陸侵略、日中戦争」を「事変」、「帰化人」を「渡来人」、「支那」を「中国」あるいは「中国」を「支那」と言い換える。そして「言い換え」をしてどことなく安心してしまう。


 コトダマ世界では、「意見」を「一つの見解」ではなく「その実現を望む祈り(願い)」ととらえる傾向がある。


 意見は言葉で表現された一つの見解に過ぎない。しかしこの世界では、「その意見で使った言葉の通りのことを願った」という形で混同され、歪んで受け取られる。その結果、日本では「意見」に責任が問われるのである。(つづく)


(2867文字)




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i )コトダマ( III )それで日本は滅びた

それで日本は滅びた 2009.2.17


by OWL




それで日本は滅びた

日本を滅ぼしたコトダマ


 コトダマイズムの支配する世界では、まわりの人や自分を不愉快にするデータや意見は発表しにくい。


 たとえば、ある軍事専門家があらゆる情報、知識、経験をフル活用して、この戦争は負けると判断したとしても、それを発表することはできない。早く戦争を終結させたほうが良いと結論して提案したとしても、注目されることはない。


 井沢氏は書く(脚注1、2、3)。


「これがイギリスやアメリカなら容易に率直に発表することができるし、マスコミでも『一つの意見として』充分に採り上げてくれるだろう。


 ところがコトダマの生きている国では、絶対にそうはならない。


 まず意見を発表すること自体、大変な勇気が必要である。言うまでもなく『このままでは負ける』が『負けることを願う』と解されるからだ。


『みんなが勝とうと戦っているのに、なんて奴だ』『非国民』『敗戦主義者』『戦死者や遺族の気持ちを考えろ』等々、コトダマ信者からのあらゆる罵詈雑言が飛んでくる。


『いや、私は負けることを願っているのではなく、このままでは負けるから止めるべきだと言っているのだ、私個人が何を言おうと、それが戦局を左右するはずもない』などと弁解してもだめである。


 そのうち本当に戦局が悪化すると、今度は『おまえがそんなことを言うからだ』『おまえの責任だ』と言われるようになる。下手をすると本当に石が飛んでくる。


 いや、それでも意見を発表するならまだいい。コトダマの世界では、そういう意見を発表すればどういう非難を受けるかを、住民は経験的に知っているので、意見を『自粛』するようになる。つまり、本当に正しい判断をできる人が口をつぐむようになる。


 客観的にみて『勝てる』場合ならばそれでもいい。だが、明らかにマイナスの結果しか予測できない時は、だれもがその予測を口にしなくなり、その結果、破滅の終局へとまっしぐらに突き進むことになる。


 終わってみると国土は焦土となり何百万人もの犠牲者が出た、こうなることは予測できたのに、ということにもなりかねない。いや、実際に起こったのである。


 これは戦前、いわゆる昭和十年代から二十年にかけて、コトダマの支配するこの国で実際に起こったことである。コトダマは危うくこの国を滅ぼしかけたのである。そして、さらにおそるべきことには、それにもかかわらずコトダマの支配はまだ続いているということだ」と。


昔の人は愚かだったか


 詳しくは著作を読んでいただきたい。ここで注目すべきは最後の「さらにおそるべきことには、それにもかかわらずコトダマの支配はまだ続いているということだ」という一文である。


 ある人たちは、昔はひどかった。愚かだった。しかし、今は科学技術の時代だ。もう大丈夫だと考えるだろう。しかし、千五百年以上も続いているコトダマ支配が、そう簡単に消えるはずもない。


 あえて言えば、これは日本人の宗教である。我々が無意識に持っている宗教的な感覚である。日本人の心と考え方をずっと支配し続けてきた基本的な精神である。


 歴史を知らない人は歴史から学べない。今の時代の病理を診断し、治療することや処方箋を書くことはできない。


 歴史を知らず歴史から学ばない人は、自分の歴史観や世界観が歪んでいることに気付かない。それはコトダマの支配を否定しようとする人、その支配に気付かない人全体に言えることだろう。


 時代を読み解く「キー」を発見した人物の言うことに、まず耳を傾けた方がよいと思う。彼が同じ意見を持つ人であっても、いかに自分とかけ離れた意見を持っている人であったとしても、その診断を虚心坦懐に受け止める必要があると思う。


(了)




脚注


1)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
2)井沢元彦「言霊Ⅱ」1997年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
3)井沢元彦「『言霊の国』解体新書」1993年、小学館。




(1572文字)



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ii )非リアリスト( I )山本七平氏による分析

山本七平氏による分析 2009.2.28


by OWL
山本七平氏による分析

 リアリズム(現実主義)の反対はアイデアリズム(理想主義)だろうか。現実主義者はリアリストで、リアリストの反対は理想主義者(アイデアリスト)だろうか。


「コトダマ」という「キー」を使って歴史をひも解く人から見ると、リアリズムに対立する反リアリズムのことを「コトダマイズム」というようだ。リアリストの反対はコトダマイストと。


 今回は、日本の歴史がコトダマイズムに支配されていた時代とリアリズムに目覚めていた時代の二つに分けられるという話である。まずは反リアリズムの究極の形である「員数主義」の話から入ろう。


山本七平氏が名付ける「員数主義」


 ことによると山本七平氏についての紹介からはじめなくてはいけないかもしれない。イザヤ・ベンダサンの名前で書かれた希有な日本人論「日本人とユダヤ人」の著者として知られ、一九七〇〜一九八〇年代に日本の論壇で活躍した評論家である。


 現在でも「その評価を巡っては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物」(脚注1)とされる。


「日本社会・日本文化・日本人の行動様式を『空気』『実体語・空体語』といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して『山本学』と呼ばれる」ほど(脚注1)絶賛される。


 かと思うと「山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しない」「山本は読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示しており、ほとんど詐欺師に近い人物である」(脚注1)と攻撃する人々もいる。


 私自身はといえば、後者のような山本氏への攻撃には与(くみ)しない。


 内容に入ろう。対米戦争で負けた要因について、山本七平氏は「員数(いんずう)主義」を挙げている(脚注2)。「員数主義」とは「『数さえ合えばそれでよい』が基本的態度」で「その内実はまったく問わないという形式主義」のことである。山本氏は次のように述べる。


「『紛失(なくなり)ました』という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、『バカヤロー、員数をつけてこい』という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば『員数をつけてくる』すなわち盗んでくるのである。


 いわば『盗みをしても数だけは合わせろ』で、この盗みは公然の秘密であった。


 これは結局、外面的に辻褄が合ってさえいればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が『無』すなわち廃品による数合わせであってもよいということである。」


 この数合わせはインチキであり、形式だけの辻褄合わせである。それを山本氏は「員数主義」と名付けた。戦前の日本では「員数主義」が横行していたというのである。そういう現実が日本にはあった。


 しかも、当人たちは後ろめたさを決して覚えない。何と愚かなと思うかもしれない。実際に愚かだった。井沢氏はこの「員数主義による敗戦」という山本氏の認識について次のように説明する(脚注3)。


「この員数主義が高じてくると、一雨降れば使用に耐えぬ飛行場が、参謀本部の地図に立派な飛行場として記されたり、何一つ役に立たない要塞が完成したと報告されたりする。そしてそういうインチキは、アメリカ軍という『実数』の軍隊に次々と粉砕されていく。


 日本軍の敗北は、参謀本部の『員数』作戦と、それに対応する現場の員数報告による虚構の世界が、アメリカという『員数』のない国の訓隊によって破壊されたというのが、山本氏の認識である。この認識は正しいと思う」と。


 歴史の中で起こった事実を、山本氏は自らの経験を基に独特の切り口でとらえている。「員数主義」はアメリカ(西欧)的リアリズムの前に無力だった。その認識は今でも立派に通用する。


員数主義と日本人的良心


 しかしこれは戦前の軍部だけの話ではない。員数主義は現在も生きているという。


 たとえば、帳簿さえ辻褄が合っていればいいという粉飾決算がそこかしこで行なわれる。政治家が義務づけられている政治資金の収支報告でも、実体のない名目で多額の支出が計上される。


 革新団体の集会でも動員数の水増しという「員数報告」が行われ、警察側発表で数万人、主催者側の発表で十数万人という奇妙な発表が常に新聞の記事に載る。これらにほとんどの人は罪悪感を抱かないし、それを聞く我々も「またか」「いつものことだ」と当然視している。


 他にも、見回りを行なって正確に自体を把握し報告すべきなのに、見回りに行ったことにして記録(形式)だけつけて報告するということが、日本の組織の中では往々にして見受けられるのではないだろうか。


 それに異を唱えると「こうるさい奴」「細かなことに目くじらを立てすぎる」「忙しくて一々やってられないのが分からないのか」「現実を知らない」と非難が浴びせられる。


 何も起こらない時はいい。しかしひとたび事故が起これば大問題である。時として大惨事となり、貴重な人名が失われる場合だってある。組織の中では、内部告発者が出るか正直な人が関与を告白しない限り、報告は実体を伴ったものとして取り扱われる。


 そして内実を想像できる人々の間では、「ああ見回ったというのはウソだな」「見回ったことにして辻褄だけ合わせたな」とささやかれるのである。


 員数主義は健在である。井沢氏は、この「員数主義」はコトダマの影響であると主張する。コトダマの支配下にある結果である、と。


 専門家が知識と経験と情報を総動員して将来のことを予測する場合にも「事を荒立てない」「辻褄合わせ」の心理がどこかで働く。良い予測なら大丈夫だが、マイナスの結果が予測された場合に特にそういった心理が働く。


 ジャーナリストも欧米なら平気で書ける内容が書けないし、原稿自体が届いてもデスクが発表をためらう。一九九〇年<平成二年>のイラクによるクウェート侵攻の予想は、欧米の新聞には堂々と載ったが、日本の新聞もテレビも後追いの発表にとどまった。


 井沢氏は日本人の良心にも注目して断言している。「日本人の良心とは、コトダマに忠実なことである」と。科学者やジャーナリストにとって、本来「良心とは情報や分析をありのまま発表すること」である。


 しかし、日本人の良心はそれとかなり違っている。特に情報や分析の結果が皆の望まない場合、その違いが鮮明になる。その結果を発表するかどうかの判断に、日本人特有の良心が働きやすい。


「コトダマを信じている人間にとって、マイナス予測をそのまま発表することは、そのマイナスが実現するようコトアゲしたことになってしまう。だから、少しぼかしたり論点をすりかえたりして、発表することになる。


 日本人的に『親切で』『優しく』『良心的な』人ほどそうしてしまうのである。……中略……日本人の良心とはコトダマに忠実なことであり、物事を正しくあからさまに表現することではない。だから員数主義を、ゴマカシと呼ぶことすら抵抗があるような心理状態になる。」


 それどころか、日本人的良心に従って員数主義的行動をとるケースさえあるという。「たとえば『これは政府の悪を追求する集会である。にもかかわらず参加者は少ない。だから水増しして発表をおこう。それは結局、社会のためになることだから許される』というような論理である。


 これに対し、『それは虚偽ではないか、悪を追求する大会を“ゴマカシ”という悪でけがしてはいけない』などと反論したらどうなるか。『おまえは政府の見方か、みんなが一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか』と非難されるのがオチだ」と。


 井沢氏の日本人論にはキーワードが幾つか登場する。この「一生懸命」というのもキーワードの一つとして採り上げているようである。一生懸命やっていればゴマカシであっても許される。当事者が日本人的良心に従って行なうなら、内実は辻褄合わせ(員数主義)でも良心が痛まない。よくある話である。(つづく)




脚注


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/山本七平 
2)山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」1984年、朝日新聞社。
3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。




(3326文字)




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ii )非リアリスト( II )コトダマvsリアリズム

コトダマvsリアリズム 2009.3.1


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コトダマvsリアリズム

コトダマ基本作用の応用


 言葉と実体がシンクロするというが、コトダマの基本原理である。コトダマの世界では言ったことがその通りになる。


「雨が降る」と口にすると実際に「雨」を呼ぶ。「死」や「苦」という言葉を口にしたり表現したりすると「死」や「苦」を呼んでしまう。「かく言えばかくなる」の世界である。それを井沢氏はコトダマの基本作用と名付けている(脚注3)。


 シンクロする言葉と実体という基本原理は、人々の願いを実現させるためにも使われた。「雨が降ってほしい」という願いを口にすることによって実際に「雨」を招こう(雨乞いのたぐい)。憎たらしい人の「死」や「苦」を願って呪いをかけよう(ワラ人形)。


 この基本原理は今も生きている。めでタイ、よろコブ、フクろう、など縁起の良い言葉や物を好んで使う(特に正月や婚礼など)。こういった作業を「コトアゲ」という。ある願望を実現させるために言葉を発する「かくなるようにかく言う(コトアゲする)」世界である。


 山本七平氏の「員数主義」を、井沢氏はコトダマの基本原理の一変型(応用)としてとらえる。インチキであっても、数合わせであっても、形式だけの辻褄合わせであっても、「あると言えばある」という態度、精神が「員数主義」だった。


 言葉と実体はシンクロする。「何かがあると言えば、実体はなくてもあるとする」世界、これはコトダマ社会の一現象であり、「コトダマ基本作用の応用」である、と。


 言葉には実体が必ず伴うというコトダマ信仰があるから「言葉」があればそれでいい。辻褄のあった帳簿があるだけで構わない。報告書だけキチンとしていれば「カタチが整った」と表現して中身はあまり問わない。


 井沢氏は続ける。「形式さえ、数さえ辻褄が合えば、それに対応する実体が存在しなくても『存在』することにしてしまう。いや、そう信じるということだ。


『存在するものに名辞あり』というのがリアリズムの世界だが、コトダマという反リアリズムの世界では『名辞があれば存在する』となる。これが員数主義の実体である。これはインチキでありゴマカシであるのだが、日本人はこれに対して罪悪感を抱かない。


『どこでもやっていること』だし、日本人なら『形式さえ整っていればオーケー』という教育を、知らず識らずのうちに受けている。それはもちろんコトダマの影響であり、それが社会に員数主義を生み出すことになる。」


 コトダマ世界ではリアリズムは通用しない。リアリズムを持ち出すこと自体が排除される。リアリズムではなくコトダマイズムの教育が社会で家庭生活の中で無意識のうちに徹底される。さらに井沢氏は次のように記す。


「これは反リアリズムの究極の形かもしれない。自己の信条や思想にかかわらず、現実に存在するものは存在すると認めるのがリアリズムである。きわめて当たり前のことである。


 ところが日本ではしばしば、この当たり前のことが当たり前にならなくなる。その極端な例が冒頭に採りあげた帝国陸軍である。


『アメリカの軍事力、強大な経済力』は無視(ないと思えば実際になくなる)し、『自軍の実力や軍備』については、員数主義(名目上存在すれば存在する)を採る。これで戦争を始めればどうなるか、負けるのは決まりきった話である。」


 山本七平氏が名付けた「員数主義」は日本を滅ぼした。井沢氏の言うコトダマが日本を後戻りできない破滅の道に導いた。


 戦争とは、リアリズムとリアリズムのぶつかり合いである。リアリズムに基づいた究極の戦いである。日本はアメリカ(西欧文明)のリアリズムの前に敗北した。反リアリズムの究極の形であるコトダマイズムで戦っても勝てない。それは、なるほど当然の話である。(つづく)




脚注


3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。




(1552文字)




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ii )非リアリスト( III )日米未来戦

日米未来戦 2009.3.2


by OWL




日米未来戦

日米未来戦ブーム


「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。


 開戦当初、日本はアメリカより海軍力においてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと、海軍はフィリピンに奇襲攻撃をかけマニラを占領し、西太平洋の制海権を握る。


 しかし、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法をとり、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行われたヤップ島沖海戦でも日本は敗北し、アメリカはグァム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は全滅する。さらにマニラも奪い返される。


 この間、ソビエトは樺太に侵攻、これを占領し、中国軍は南満州を支配下におく。ついに内閣は総辞職するなか、アメリカの爆撃機が東京上空に来襲し、爆弾を投下する。ここにいたって日本は、アメリカ側の講和勧告を受諾し、戦争は終結する」(脚注3、4、5)


 読んで「オヤッ?」と思われた方は歴史をちゃんと知っている人だ。史実と違う。その通り。実は、これは太平洋戦争のシミュレーションである。H.C. バイウォーターというイギリスの軍事評論家によって「一九二四年」に書かれた。


 その年は大正十三年、第一次世界大戦が終わって数年しか経っていない頃であり、大恐慌も満州事変もまだで、真珠湾攻撃の何と十七年前に書かれた。幣原喜重郎外相の登場で全方位外交が展開されていた「軍縮」の時代であった。


 バイウォーターの予測が大筋で間違いなかったことは、歴史が証明している。井沢氏はバイウォーターの太平洋戦争を紹介し、当時の日本人がいかにコトダマに支配された行動をとっていたか明らかにしている。


 当時、この予測は日本に全く紹介されなかったか?実際はそうではなく「ただちに数種の翻訳が出版され、ベストセラーになった。ということは多くの国民・軍関係者にも読まれた」と思われる。


 しかしバイウォーターの予測はまともには研究されず、予測が予測として受け取られなかった。逆に「朝野をあげての反発」が巻き起こった。


 何故か。言うまでもなく日本がコトダマの支配する世界だったからである。「かく言えばかくなる」のがコトダマ世界である。従って科学的な予測でも、正確な情報や資料でも、それに基づいた意見でも、すべて「そうなることを望んでいる」と解釈される。


 バイウォーターは「日本の敗北を望んだ」「屈辱的講和を望んでいる」と受け取られた。そう受け取られたからこそ、朝野をあげての反発が起こった。


 その反発の中では、冷静な検討などありえない。うっかり「バイウォーターの予測は検討に値します」などと言うと、非国民にされただろう。まともには取り扱われない。事実、昭和初期に「日米未来戦ブーム」が起こったようだ。


「軍国少年が接した、これに関する小説類や展覧会(当時デパートなどでよく催された)には、ほとんどがこのバイウォーター予測に対する反発がある。それにデパートなどが海軍省後援で展覧会を開く場合、『日本が負ける』という結論になるものをやるはずがない。


 それゆえ『公平な予測』ではなく『誤った予断を与える情報』になってしまい、それによって青少年が『洗脳』されるというとんでもない結果になって」しまったという。


 当時「朝野をあげての反発」が起こった理由を別の角度から言おう。それは、バイウォーター氏が予測した結論が気に食わなかったからである。彼の結論は「日本はアメリカに負ける。屈辱的な講和を強いられる」というものだった。井沢氏は次のように続ける。


「コトダマの支配下にある国では、『かく予想すればかくなる』ことになってしまう。そういう予測は頭から否定しなければならなくなる。それが正確なデータに基づいた妥当な予測であっても、結論が日本にとってマイナスならば、頭から否定されることになる。


 そうなると、その予測の基礎になっている正確なデータも、『嘘』か『誇張』か『事実だが無視してもいい些細なこと』としなければ辻褄が合わなくなる。


(中略)『アメリカの物力は無尽蔵』という事実に対し、『そんなことはない』とか『それほどのことはない』とか『確かに物力は凄いが、決め手は精神力だ』といった議論(?)にすりかえられてしまうのである」と。


 こう見てくると、コトダマに支配されていたのは、昭和六年から二十年にかけての十五年戦争時代だけではなかったことがわかる。コトダマイズムは「マイナスの予測」を受け付けなかったのである。


 日中戦争が本格化して米英との対決が避けられなくなったころ、そして対米戦争に突入したあとのどの時点でも、「この戦争は負けるから早く終結させた方が良い」とは誰一人として言い出せなかった。


 言ったとたんに「負けることを願っている」とみなされる。非国民と言われスパイと言われる。だから正確に判断できる人ほど口をつぐんだ時代だった。コトダマに支配されていた頃だった。


 バイウォーターの予測が紹介された大正末期から昭和一ケタ時代も、みんなが不愉快になるような予測は言えなかった。中国での利権をめぐって米英との対決が予想されても「何とかなる。勝てる」と思いこんでいた。


「かく言えばかくなる」の通り、人を不愉快にさせるような話題は口にせず愉快にさせる話題にだけ絞ろうとする、コトダマ支配の法則に乗っかっていた。


 特高や憲兵が怖くて本当のことが言えなかった、ということもあっただろう。しかし、決して軍部にムリヤリ思い込まされていただけではない。日本人の良心は「コトダマに忠実であろうとすること」である。


 その「良心」が研ぎすまされていた多くの善良な国民が、自ら進んで「勝てる」と信じ、「勝つ」ことを願っていたのだ。そのようにコトアゲすることにより、現実もそうあれと願ったのだ。多くの善良な人々は、コトダマの支配のもと、喜んで真心から戦争に協力していったのである。


 あえて言えば、特高や憲兵もコトダマ支配下の「良心」に従っていた。熱心に「勝てる」と信じ「勝つ」ことを願った。コトダマの「良心」に従わずに「負けるようにコトアゲする(可能性のある)人々」を次々と摘発していったのだろう。


 恐ろしいコトダマ支配の時代だった。コトダマは日本人を思考停止させていた。本物の議論をすることを妨害していた。(つづく)




脚注


3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
4)バイウォーター、H.C.「太平洋大戦争」林 信吾・清谷信一共訳、2001年、コスモシミュレーション文庫、コスミックインターナショナル。
5)バイウォーター、H.C.原著、石丸藤太郎訳著「太平洋戦争とその批判」1924年、文明協会。




(2746文字)




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ii )非リアリスト( IV )徹しきれないリアリズム

徹しきれないリアリズム 2009.3.3


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徹しきれないリアリズム

コトダマイズムの時代 vs リアリズムの時代


 大正末期から昭和二十年まではコトダマに支配されていた。それ以外の時代はどうだったのだろう。平和を脅かす戦争や犯罪とか死に関わることを、日本人は歴史上どうとらえてきたか。井沢氏はコトダマをキーにして読み解いてゆく(脚注3)。


 かつて天皇や皇族は武装していた。大化の改新などをみればハッキリわかる。中国の「律令制度」にはきちんと軍隊や戦争や犯罪を扱う部署があった。兵部省、刑部省と呼ばれるところで、そこにはちゃんと実体があった。


 しかし日本に取り入れられた「律令制度」では、兵部省、刑部省はカタチだけになった。そのかわり令外の官(検非違使)が設けられ、律令の枠の外で都の治安を守る役割を担った。


 戦さをなりわいにする人々を認知すると「実際に戦いを呼び込んでしまう」と信じられた。そこで天皇も貴族も武装しなくなった。正式な軍隊とか警察を法律の中で持つことはしなかった。


 平安時代の貴族は戦さや死に関することを忌み嫌った。一切タッチしようとしなかった(脚注6)。「平安(時代)」をコトアゲすることにより「平和を呼び込む」よう願った。


 検非違使では都に住む貴族の周辺の治安は守れたかもしれない。しかし平安時代とは名ばかりで都の正門である「羅生門」ですら荒れ果てていた(脚注7、8)。


 都から離れた場所ではなおさら治安が守られていなかった。そこで必要に迫られて「武士」が起こった。特に東国(関東)や西国(瀬戸内海地方)などでは武士が有力なグループに統一されていった。源氏と平家である。


 武士による日本の支配は鎌倉幕府が開かれる過程の中ではじめて歴史に登場する。それ以来、天皇および貴族が象徴的に政(まつりごと)を行なうシステムと武士による直接的な支配が見事に分業されていった。


 その分業による二重支配が日本史に登場した。爾来七〇〇年近くも大きな矛盾なく機能した。井沢氏は、次のように記す。


「日本の歴史は、この平安貴族と鎌倉武士、平安コトダマイズムと鎌倉リアリズムの対立の歴史であることが、私には分かってきた。


 大ざっぱに言えば、平安、室町、江戸、がコトダマイズムの時代、鎌倉、安土桃山(戦国)、明治がリアリズムの時代である。つまり、この二大潮流は交互に日本の歴史を支配している。日本人は本質的には、コトダマを信奉するコトダマイストである。


 鎌倉時代や戦国時代、あるいは幕末、明治のように、本当に軍隊というものの存在が必要だった時代には、日本人は一時リアリズムというものに目覚めるのだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるのたとえどおり、すぐにコトダマの影響が復活してくる」と。


 平和を祈るだけという、呪術的な方法で政(まつりごと)を行なう平安コトダマイズム。武力による抑止力で治安を維持する鎌倉リアリズム。この二つの対立が日本の歴史だと言う。


 日本の国防上、元寇が鎌倉リアリズムの時代であったことは幸いだった。日本の国防上だけから言うと、豊臣秀吉や徳川家康が宣教師を追い出し鎖国政策をとったのは、リアリズムに徹した選択だった(脚注9)。


 さらに明治時代の薩長政治は、富国強兵と殖産興業で、帝国主義的時代をリアリスティックに生き抜こうとした時代だった。


 この三つの例は、強力なリーダーシップのもとでリアリズムに目覚めた時代だった。広い視野から見ると、次のように言えるかもしれない。「そのリアリズムの時代にあって、日本人は独立を守るという大きな果実を享受できていたのだ」と(脚注10)。


 その反面、昭和初期から昭和二十年までは、コトダマの恐ろしい支配を受けながら欧米のリアリズムと戦い、ひたすら滅亡への道を突き進んでいった時代だった。


 コトダマ支配下の日本人は、議論が下手で、考えるのがあまり得意ではなく、合意を形成するのもあまりうまくなく、目標を達成するために冷徹になれるほうではないようだ。たびたび思考停止を起こし、比較文化学的発想も全くと言って良いほどできない。


 現代はどうだろう。リアリズムに徹している時代だろうか。それとも依然としてコトダマに支配されている時代だろうか。


(了)




脚注


3)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
6)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。ケガレを嫌う考えからも、戦さや刑事に関わるすべてのことを遠ざけた。
7)芥川龍之介「羅生門」1915年、帝国文学;http://www.aozora.gr.jp、1997年、青空文庫。
8)黒沢 明「羅生門」1950年、大映;2008年、角川映画。本作品は7)と同タイトルだが、芥川龍之介の短編小説「薮の中」(1922年)を原作としている。
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/トルデシリャス:ポルトガル人が来航しはじめた当時は戦国時代末期で、世界はポルトガルとスペインによって分割されようとしていた。日本はイベリヤ半島の国々による植民地争奪戦争の最前線となっていたのである。
10)もちろん、豊臣秀吉の「唐入り」や日清・日露戦争においては他国の独立を犠牲にしようとした。特に後者では、そうまでして自国の独立を確保しようとした。食うか食われるかの帝国主義の時代だったが、リアリズムに目覚めた時代には負の側面も存在した。




(2285文字)




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iii )ケガレ・死・差別( I )穢れと原始宗教

穢れと原始宗教 2009.3.22


by OWL




穢れと原始宗教


 日本人の特徴とは何か。日本人の特殊性はどこにあるのか。外国人と付き合ってみると、お互い感覚的になかなか理解できないところがある。


 それはその民族の人々が特殊な考え方を持っている場合があるかもしれないが、日本民族にも奇妙な特徴があるためだと言って良いと思う。日本人の奇妙さとは何か。日本人はどこが特徴的なのか。


水に流すことを美徳と考える日本人


 例えばお隣りの韓国人の思考様式は「恨(ハン)」が特徴だという(脚注1)。「恨」については次のように説明されている。日本語の「恨み」と同じ漢字をあててはいるが、全く違うようだ。


「朝鮮民族にとっての『恨』とは……不満の累積とその解消願望」で「単なる恨み辛みではなく、あこがれや悲哀や妄念など様々な複雑な感情をあらわすものであり、彼らの文化は『恨の文化』と呼ばれる」(脚注2)。


 日本人には「恨」の思考様式がよく理解できない。「恨」と対照的な日本人の思考様式の特徴は「水に流す」ことであろう(脚注3)。日本人は「不満を累積させる」ことよりも、何でも「水」に流したがる。「水に流す」ことを美徳と考えている。


 非常にひどい仕打ちを受けた相手に「あなたへの恨みは忘れました。すべて水に流します」と言うなら、日本では「大した人だ」と評価される。立派な人物として尊敬される。


 なぜ「水に流す」ことが美徳なのか。前二回で登場してもらった井沢元彦氏によると、「穢れ(ケガレ)」という感覚によるところが大きいという(脚注4)。今回は、このケガレというキーワードによって見事に描き出される日本人の特徴について考えてみる。


日本人は宗教的でないか


「水に流す」ことは美徳であるが、反面、欠点もある。


 何でも「水に流す」ことにより、日本人は自分たちが成長してきた過程を歴史的にとらえることができない。どういう思想遍歴を辿ってきたか、どういう宗教を背景に日本民族が形成されていったか、全く意識しない。検証しようともしない。


 井沢氏は言う(脚注4)。


「明治以降、宗教を軽視する傾向が強くなりました。…宗教というものは、本当にまともな人間の信じるものではない、そういうものを信じるのは、どこか弱い人間なんだ、強い人間はそんなことをする必要がないんだというような言い方すらされたこともあります。」


 アメリカ人にはキリスト教に基づく考え方があり、ロシア人はロシア正教に基づいて考え、中国人は儒教に基づく考え方をしてきた。ところが日本人だけは、そういった過去を把握しようとしない。


 それは、日本人が信じている宗教、日本人がとらわれている原始的宗教感情の中に、『水に流す』という考え方があるためだという。日本人はいまだに万葉時代の宗教感情にとらわれている。


「その代表的なものが、実は『ケガレ』と『言霊』で」、「九九パーセントの日本人は、これに冒されている。悪い言い方をすれば、毒されていると言ってもいい」のだという(脚注4)。


 「ケガレ」という原始的宗教感情にとらわれているため、私たちは「水に流す」ことを好む(脚注5)。「水に流す」から、歴史に学ぼうとしない。歴史に学ばないから、世界中の国々が共通して持っている宗教をバカにする。


 宗教を無視するから、日本人自身の思想遍歴を検証できない。検証しないから、自分たちの奇妙さの本質を知ることもできない。そして、自分たちのどこが変なのかわからないので、異文化との衝突に苦しむことになる。


 ほとんどの日本人は自分を宗教的ではないと言う。宗教的でないことをむしろ良いこととして考える。


 私が米国に留学していたとき、地域の教会に出席するとそこにはいつも日本人留学生がいた。挨拶すると、自分は信じていないと言い、こんなところに来る人間ではないと言いたげな反応をした。


 私たちがそこに続けて出席するようになると、よほどでない限り彼らは来なくなった。こちらが出席しなければ、彼らはずっとそこに行き続けていただろう。そうと思うと、彼らの反応は何とも奇妙な言動のように見える。


 自分を宗教的ではないと言うものの、日本人は無意識のうちに「ケガレ」と「コトダマ」という原始的宗教感覚にとらわれている(脚注4)。


 この宗教感覚は、山本七平氏の提唱する「日本教」についての概念(脚注6、7、8)に匹敵するほど、日本人を特徴づけている宗教的概念ではないかと私は思っている。


 自分の思考や言動を無意識のうちに規定する宗教感覚を否定する日本人は、その感覚から自由になれない。井沢氏の言い方を借りると「毒されている」のである。


 日本人は宗教的でないか?その答えは明快で「極めて宗教的である」となる。


ケガレとは何か?


「水に流す」という感覚が、ケガレと関係しているという話に戻る前に、ケガレとは何かについて触れる。


 いまどきの十代の女の子は、父親の服が自分のと一緒に洗濯機で洗われることを極端に嫌う。以前、そんな話がマスコミを賑わせた。


 本当に不衛生で、不潔な場合もあるのかもしれない。しかし、それよりも、感覚的なものが強いものではないか、と想像する。言ってみれば、その感覚的な汚れ、不潔さがケガレである。


 洗い箸を何となく使いたくない感覚、割り箸を使うのが礼儀と考えられている感覚、家族の中で各自のご飯茶碗、湯のみ茶碗が用意されていること、めいめいの箸が一家に一通り揃えてある風景、これらにはケガレの意識が潜んでいる(最近少なくなっている傾向があるようだが)。


 感覚としての汚れは完全に消毒してもなくならない。一方、実体としての汚れは消毒すれば落ちる。全く別のものである。日本では古来、感覚としての汚れを「穢れ(ケガレ)」と呼んでいた。


 われわれ日本人は「汚い奴」と言われると、恐らく最も腹を立て激怒する。「フケツ」「バイキン」とレッテルを貼る形のイジメが学校で起こる。


 これらも日本人が「ケガレ」にこだわりを持っている例だ。「ケガレ」が大量についている「汚い」状態と指摘されるから、人は激怒しイジメだと感じる。


 風呂に入るなど清潔を保っているかどうかは全く関係なく、実体はないものの「ケガレ」の感覚のほうを気にする。これらは「穢れの意識が、日本人の心の奥深くに生きている証拠」である。


 ケガレとヨゴレの違いについては、「『けがる』と『よごる』の違いは『よごる』が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、『けがる』は永続的・内面的汚れ」「主観的不潔感」とされている(脚注9)。


 また、罪とケガレについて、「罪と併せて『罪穢れ』と総称されることが多いが、罪が人為的に発生するものであるのに対し、穢れは自然に発生するものであるとされる。


 穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられた。穢れは普通に生活しているだけでも蓄積されていくが、死・疫病・出産・月経、また犯罪によって身体につく」と説明する(脚注9)。


 井沢氏は次のように述べる(脚注4)。


「日本人というものは、他の国の人が絶対に感じない汚れ、実体としてはまったくないはずの汚れを感じているんです。」


「『罪(犯罪)も、災い(災禍)も、過ち(過誤)もすべて穢れ』。これが日本古来の感覚なのです。」


「これは実体ではなくて感覚である。つまり日本人特有の感覚の中にしか存在しないものである。ですから、突飛な言い方かもしれませんが、一種の宗教のようなものだといってもいいでしょう。


 ……肝心なのは、穢れという概念は、科学的、理性的な概念ではなくて、宗教的概念であり、日本人の心の中に厳然としてある、ということです。」(つづく)




脚注


1)呉 善花「続 スカートの風」1991年、三交社。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/恨
3)呉 善花「ワサビと唐辛子」1997年、祥伝社。
4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
5)後で詳述する。
6)http://d.hatena.ne.jp/keyword/日本教:山本七平が提唱した概念で、日本人の行動を規定する、神道+日本的仏教+日本的儒教の形式知化されざる宗教。日本を覆う「和の空気」と「世間体」のこと。
7)イザヤ・ベンダサン、山本七平「日本教について」1975年、文藝春秋。
8)山本七平、小室直樹「日本教の社会学」1981年、講談社。
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/穢れ




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iii )ケガレ・死・差別( II )死は最大の穢れ

死は最大の穢れ 2009.3.23


by OWL




死は最大の穢れ

ケガレの落とし方


 外面的な汚れを落とすには石鹸などで洗うことで充分可能だ。しかし、内面的、主観的な不潔感であるケガレとなると、石鹸などでは絶対に落ちない。どうやったらケガレのない状態にすることが出来るというのだろう。


 古代の日本人が考え出した方法は、禊ぎ(みそぎ)と祓い(はらい)である。祓いとは神道の神主さんが榊の枝やそれに似た道具でやってくれるあの「おはらい」だ。禊ぎとは「身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること」だという(脚注10)。


 ケガレとは一種の宗教的な対象物であって実際に存在するものではない。したがって宗教的な方法でしか落とすことができない。


 現代の日本人は祓いや禊ぎを頻繁にやるかというと、それほどしないだろう。いや全くしない人が多いだろう。しかし「水に流す」という言葉をキーワードにすると、われわれの日常に深く浸透していることがわかるという。ケガレとは何かについてもよりよく理解できるという。


 ここで、なぜ日本人は何でも水に流したがるのか、「水に流す」ことがなぜ最大の美徳の一つと考えられるのかという話に戻ってみる。


 冒頭の「非常にひどい仕打ちを受けた相手に『あなたへの恨みは忘れました。すべて水に流します』と言うなら、日本では『大した人だ』と評価される。立派な人物として尊敬される」という話である。


 なぜ『恨みを忘れること』を『水に流す』と言うか。それを井沢氏は次のように説明する(脚注4)。「恨みというものも穢れの一つなのです。ですから、そういう恨みを忘れること、つまりその恨みという穢れを水に流して『禊ぎ』することが、最大の美徳となるわけです」と。


 日本人にとっては、恨みを抱き続けることはケガレたままでいることを意味する。ケガレを水に流すのは美徳になる。ケガレたままでいることが悪いことであるため、日本人は何でも水に流したがる。


 他方、恨みを水に流さずに内に秘めている(あるいは表に出す)ことは悪徳になる。したがって、結果的に朝鮮民族の「恨(ハン)」が基本的に理解できないのである。


 こうした、水に流してケガレを落とすという思想は、日本独自の考え方であり、世界の他の国々にはない考えであろう。


 日本の国の水は清らかでそのまま飲める。どの地方に行っても手ですくってすぐ飲める(さすがに最近はそうでもなくなったかもしれない)。こんなにも自然に恵まれた山紫水明の国はおそらく世界中にはない。


 こうした自然に恵まれた条件のために、ケガレを落とす手段として「禊ぎ」が考えられてきた。他の国々では決して生まれなかった「水に流す」という思想は、日本の自然条件によるのではないか。井沢氏はそのように推論する。そして次のようにまとめる(脚注4)。


「『水に流す』という考え方の根本には、罪は穢れであるという考え方があります。そればかりではなく、罪も過ちも災いも、あるいは不幸も、すべて穢れであって、その穢れを水に流すことが禊ぎである。


 そしてそれは最高の善だという考え方を日本人は持っているということ。ただしこうした考え方は、日本人固有の、日本人だけの考え方だということです」と。


死は最大のケガレ


 そもそもこの世に存在する宗教においては、罪、過ち、災い、不幸などとともに、「死」が取り扱われる。避けて通ることの出来ない「死」と、その対極にある「生」は宗教における最大の命題である。


 ほとんどの宗教においては「生」を賛美する。「生」を賛美することは、意識的な作業を通してなされることが多い。自発的に心の中から出てくる賛美もあるが、多くは意識的に「生きているってことはそれ自体で素晴らしいことなんだ」と自分に言い聞かせる。


 しかし、どんなに言い聞かせても、生きることに伴う「思い煩い」「不幸」は次々に襲ってくる。そのため「生」への賛美は、結局のところ個々人にとっては不完全な試みでしかない。


 行きていく中での最大の不幸は「死」である。「死」は忌み嫌うべき、憎むべき「敵」である。「生」への賛美が不完全であるのに対し、「死」は100%確実に襲ってくる。どんなに意識の中から追い出そうとしても、あるいは追い出すことができても、「死」は不可避である。


「死」が人を襲うとその肉体は朽ち果てる。悪臭を放ち腐敗してゆく。細菌や小さな動物の食べ物となって土に還ってゆく。焼いて灰にすることによって腐敗から守ることは出来ても、土に還ってゆくという本質は変わらない。


 世界的な宗教では「死」は対決して「克服」すべき対象である。たとえばキリスト教では、救い主が私の身代わりに十字架にかかり死ぬ。その「死」によって私の「罪」を赦す。


 救い主は「死」から復活し、「死」を討ち滅ぼして私を永遠の住まいへと導く。このような「死」の「克服」がキリスト教の根幹である。


 日本人の心に深く入り込んでいる原始宗教においても、「死」は取り扱われている。ただ、その扱い方は「死」との対決による「克服」ではなく、徹底して「死」を「避ける」ことだった。


 そこで、神道では「死」を忌み嫌った。「死」に関することを意識から排除した。コトダマの基本原理にあるように、「死」に関係したことを口にしなかった。取り扱おうとしなかった。コトアゲする(実現するように願う)ことにならないよう気を遣った。


 さらに、古代の日本人は「死」をケガレと考えた。ケガレの中でも最大のケガレであった。ケガレなら何でも水に流し続けてきた日本人にとって、「死」は決して水に流せない最悪のものだった。


 それゆえ、われわれの祖先は「死」を避けた。ただただ意識的に、そして徹底的に避けた。


 「死」に関係したこととは次のように多岐にわたる。戦争に関係するすべてのこと、殺人や犯罪とそれらを取り締まったり処罰したりすること、動物を殺して皮を利用する仕事。これらを忌み嫌った。徹底して避けるようにした。


 日本人が「死」に関係したことを徹底的に避けて来たことは、明らかな歴史的証拠がある。それらを一つ一つ挙げていこう。(つづく)




脚注


4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/禊ぎ




(2558文字)




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iii )ケガレ・死・差別( III )平安時代の穢れ

平安時代の穢れ 2009.3.24


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平安時代の穢れ

平安時代におけるケガレの避け方


 五〜六世紀ごろ日本は朝鮮半島の「任那」に拠点を持ち、「加羅(伽耶)」という地域(豪族群)にも影響力を有していたという。六〜七世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国鼎立時代だった。唐と組んだ新羅は百済を滅亡させた(六六〇年)。


 百済の遺臣たちは日本に援軍を要請し、それに答えた日本は新羅と唐の連合軍と白村江で戦った。しかし日本と百済の連合軍は敗北する(六六三年)。高句麗も新羅と唐の連合軍により滅ぼされた(六六八年)。


 唐を敵に回した日本は唐から攻撃される危険に曝され、大和朝廷は九州をはじめ各地に城を築いて国防努力を行なった。実際には、新羅が強くなり唐が侵攻してくる危険性は消滅し、それ以降は国防を考慮しなくて済むようになった。


 そのあと朝廷は京に都を遷した。そこを平安京と名付け、それ以降平和が訪れるように願った(コトアゲした)。名付けただけでなく、平安遷都に先立つ七九二年に、桓武天皇は正規軍を廃棄し「健児(こんでい)」という自治警察制度のようなものに変更した。


 やがて「健児」は、ふだん農業に従事しいざという時に兵隊となる「屯田兵」となって現地に溶け込んでいった。もっと時代が下ると、「健児」は中央政府の手を離れ、完全に土着化してしまう。


 兵部省は形だけになった。経済的な理由もあったかもしれない。しかし「死」に関係する穢れた仕事から貴族が手を引いた。これが実体である。


 桓武天皇はなぜ正規軍を廃したのか。「つまり戦争というものは、死というものに触れるわけです。殺すばかりではなく、殺されることもあります。つまり、日常的に死や血や、そういった穢れに触れる行為であるわけです」と井沢氏は説明している(脚注4)。


 平安貴族にとっては、正規軍が属する兵部省は人殺し集団を統括する部門だった。ケガレに触れる部署だった。


 それゆえ、神聖な朝廷の中に、人殺しで穢れた軍事部門が公式に存在することが許せなかった。ましてや、自分がその長官になろうという考えも毛頭ない。従って、人殺し部門は廃止する。少なくとも、律令機構の中にはないことにする、となった。


 平和主義を実践しようとした平安貴族の願いは、はたして実現したか?実際には「平和」が訪れたのではなく、治安が乱れに乱れた。必要に迫られて武士が起こった。武士によって、治安が維持されるようになった。平安貴族も、武士の助けによって権力闘争をするようになった(脚注4、11、12、13)。


 国防という点では、朝廷に恭順を示さない北の野蛮人、蝦夷に対する「征夷大将軍」は残した。しかし正規軍はもうなくなった。


 どうしたかというと、少数の供のものを連れて都を出発した征夷大将軍は、途中で「健児」を兵として徴募し、にわか仕立ての軍勢で東北地方に向かって奥州の敵対勢力に立ち向かった。


「健児」が土着化して機能しなくなると、代わりに台頭して来た武士を、征夷大将軍の名の下に集めて国防に当たった。ここで集められたのは、坂東の地、関八州、今の関東地方の武士たちである。


 白河の関以北の奥州は、鎌倉時代初期に藤原氏が滅ぼされるまで、完全には朝廷の版図には組み入れられてなかった。坂東は蝦夷対策の最前線だった。そこの武士たち、東国武士は、征夷大将軍の元で数々の遠征を行ない、実践によって鍛えられていった。もちろん朝廷の正規軍ではない。


 正規軍を廃しただけでなく、犯罪を取り締まる警察組織や、犯罪人を裁く法務組織である刑部省も縮小していった。平安貴族は、自分の手を汚してケガレを身に招くような仕事をしたがらなかった。


 律令制度の枠の外に(令外の官として)検非違使が置かれた。検非違使は、都と都周辺の治安維持にあたったほか、清掃業務、非人の管理など、当時の平安貴族がケガレと思うほとんどのことを司ったという(脚注4、14)。


 今の警視庁や自衛隊にあたる検非違使が清掃、掃除も担当していたというのは、ちょっと奇妙に聞こえる。軍事、警察と掃除の共通点は何か?これは日本だからこそ見られるケガレという共通点である。


「この二つは、穢れというものを清める仕事という点で共通しています。つまり戦争という、あってはならない、起こってはいけないものである穢れを、自らも穢れながら、たとえば血を流し、相手を殺し、ときには自分たちも殺されながら清めていくのがいわゆる軍人、侍であり、


 また一方で汚れているごみを拾い、あるいは血で汚れた棺を焼いたり、葬式に使ったものを捨てるというのも、実はこれも穢れを清めるという作業です。これが日本史の構造です」(脚注4)。


 特筆すべきこととして、平安時代の長期にわたって、「死刑」というものは執行されなかった。祟り(怨霊)が怖かったということもあるが、「死=ケガレ」を避けていた具体的な例だと考えられる。


 一般に、世界中のどの国でも、王や皇帝への反逆罪は死刑が当たり前だった。東アジアの国では、重要な建物への放火なども、死刑の判決が下って当然だった。


 しかし、日本では、天皇への反逆罪として告発され有罪となった場合でも、犯人は流刑止まりだった(脚注15)。都の正式な門を、私利私欲のために放火した犯罪人とされ、有罪となった場合でも、その人は流罪にとどまっている(脚注16)。


井沢氏は次のように述べている(脚注4)。


「これは日本史の一大特徴で、おそらく世界にも類のないことだと思うのですが、平安政府というのは、原則として死刑を執行しなかったのです。これは歴史学者なら誰でも知っている事実です。


 日本では、平安時代以降、約三〇〇年間というもの、死刑の執行例は一例もありませんでした。ただ、平安時代末期、保元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)といったような内乱状態において、一種の軍事裁判的なことが行なわれて死刑が復活したという例はあります。


 しかし、そのとき、平安時代になってからずっと死刑の執行例がなかったのに、と当時の驚き悲しんだという記録がありますから、逆にそれまで死刑がなかったということは事実なのです」と。(つづく)




脚注


4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
11)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/保元の乱
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
14)検非違使:平安時代末期、源義経は平家を滅ぼす過程(一の谷の合戦の後)で、当時の後白河法皇からこの検非違使の少尉(判官)に任じられた。それまで、ケガレた武士の出である平家一門が、もともと貴族だけに許されていた政(まつりごと)の要職を独占していた。平家の横暴を苦々しく思っていた後白河法皇とその取り巻きは、平家を都から追い出した功労者である義経を検非違使の役人に取り立てた。
15)http://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/伴善男




(2959文字)




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iii )ケガレ・死・差別( IV )江戸時代と差別

江戸時代と差別 2009.3.22


by OWL




江戸時代と差別

江戸時代におけるケガレの避け方


 ケガレを避けたのは平安貴族だけではない。軍事政権だった江戸幕府でも、明らかに「死」や「犯罪」に伴うケガレを避けていた。


 江戸時代における幕府の政治は、老中の合議制で決められ、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行で執行されていた。三奉行は、最高裁判機関である評定所を構成するメンバーだった。


 寺社奉行は、一時期を除き将軍直轄だった。全国の社寺や僧、神職の統制、門前町の住民や寺社の領民、陰陽師など民間宗教者、芸能民の戸籍の管理や訴訟などが主な任務だった。


 勘定奉行は老中の下で、郡代、代官、蔵奉行を支配し、財政と民政(勝手方勘定奉行)、訴訟(公事方勘定奉行)を担当していた。


 町奉行も老中の管轄下だった。領内都市部(町方)の行政、司法を担当していた。与力や同心が町奉行の配下で働いた。


 与力、同心は非常に特別な役職だった。出世して町奉行になるとか旗本になるなどといったことはなかった。他の役職に就くことができなかった。一代限りだった。でも世襲制だった。


 すなわち、ある与力や同心が引退すると、家督は息子が継ぎ、息子はあらためて一代限りの役職に採用された。一代ごとに契約を更新する形をとった。


 井沢氏は次のように書く(脚注4)。


「江戸時代というのは、原則的に世襲で、身分が固定している社会ですから、一代ごとに採用されるというのは非常に珍しい制度です。


 つまり、こうした役人というのは、いわゆる犯罪という穢れにタッチする人間ですから、いわゆる旗本や御家人、つまり幕府の直属の家来とは別の扱いをするということです。」


 また、「首を切る」という特別な役目を代々引き継いでいた人がいる。幕府が判決を下した死刑囚のうち、町奉行の管轄下にある人を処刑する役目の人間だ。山田浅右衛門(あさえもん)という名前で紹介され劇画にもなったという。


 その役職は、当然のことながら幕府の役人だと考えられるが、本当の身分は浪人だった。幕府の役人ではなく、たまたま幕府の御用をつとめている、という形をとっていた。たまたま幕府の首切り役の代行をしている、という形になっている。しかも、その役目は代々世襲で受け継がれていた。


「つまり、江戸幕府というのは、そうした町人や浪人の死刑囚の首を切るという穢れた仕事を、幕府の直属の役人にはさせなかったということです」と紹介されている(脚注4)。


ケガレと差別


 外国で一般的だった奴隷制度と極端な人種差別は、日本に存在しなかった(脚注17)。しかし、日本人が「差別」自体と全く無関係だったかというと、そんなことはない。


 日本でも、人々は何か異質なところを見つけては「いわれない差別」をする傾向がある。その結果として、不幸な事件が起こったこともある(脚注18)。


 いわゆる「部落」出身者に対する取り扱いは、「いわれない差別」の一つであった。出身地の関係からか、私自身はそういった「差別」自体が感覚的にわからない(脚注19)。正直に言うと、関心が全くなかった。ただ、日本史と日本人を読み解くキーワードを使って、「差別」を見たらどうなるだろうか。


 もちろん、ケガレが日本における部落差別の根源である。科学的には汚れなど存在しないはずなのに、日本人は何となく汚いと感じる。このケガレが部落差別の背景にある。


 ケガレを追求すると、神道の基本的な概念である「『死』=『ケガレ』」に行き着く。


 そもそも「死」を取り扱う職業それ自体は、世の中で絶対に必要な仕事である。たとえば、先ほど出て来た昔の首切り役人の他、死体を片付ける、死体を埋葬する人、火葬にふす人などのことである。


 また、人間だけでなく、動物の死体に触れる作業も存在する。動物を殺して皮を剥ぎ、その皮を生活必需品として、市場に提供する職業である。昔は動物の肉を食べることがなかった。


 しかし、プラスチック製品も合成皮革製品も合成繊維もなかった。そのため、動物の毛皮が一般に重用された。トラクターなど農耕機器がなかった時代ゆえ、農耕作業には馬や牛が使役された。そういった家畜が死んだ場合に、死体を片付けることも穢れた作業となった。


 これらの作業は、社会にとって絶対に必要不可欠な業務である。こうした作業にたずさわる人々がいなければ、世の中は全く動かない。


 しかし、昔の日本人は、人間や動物の「死」を取り扱う作業そのものを、穢れていると考えた。そして、自分は穢れたくない、手を汚したくないと考えた。そこで、人や動物の「死」を取り扱う作業は、社会的な脱落者にやらせた。


 たとえば、犯罪をかつて犯した「前科者」にやらせた。また「前科者の子孫」や家族にもやらせた。ケガレである罪を犯した人々は、それ自体で穢れていると考えた。「前科者の子孫」や家族も、それ自体で穢れていると考えた。そうした穢れた存在に、穢れたものを扱わせた。


 日本では過去において、「死」に関する穢れた作業を、社会的な脱落者がやらされていた。社会的な脱落者は身分が固定され、そこから逃げ出すことができなかった。


「死」に関することを取り扱っていない人々、すなわち穢れていないと自称する人々から「差別」されることになった。非常に残念な話である。


 そして何と呼ばれたか。「非人」=人に非ざる者、「穢多(えた、えった)」=ケガレが多い者と呼ばれた。差別される側は「差別」を強く意識する。他方、差別する側は「差別」しているという事実にすら気がつかない。


 今では信じられないことだが、こうした差別は広範囲に及ぶ。寺社の雑役(死者を扱う)、死んだ牛馬の処理、皮革産業に携わる身分、刑吏(犯罪を扱う警察業務、司法業務)、罪人、病者、乞食、それらの人々の世話をする人々をはじめ、


 陰陽師、神官、医師(病気や死を扱う他、ヤブ医者という蔑称もある)などが含まれる(脚注20、21)。


 ケガレに端を発するこのおぞましい「差別」という問題は、大変気の重くなる話である。井沢氏は、次のように表現している(脚注4)。


「死を扱う作業は、どうしても穢れに触れることになります。しかしその穢れというものは、日本人が最も嫌うものなのです。ですから、いわゆる普通の人間はそれをやりたがらない。


 それで犯罪者のような社会の脱落者にそれをやらせる。それをやらせることをもって、さらに彼らを穢れた存在と見なす。その結果、人にあらざる者、非人という呼びかたをするわけです。」


「日本人はその必要性は認める。そうした職業は、社会には実際に必要である。必要ではあるけれど、その存在を認めたくない。そこで非人という言い方が出てきたわけです。


 これは、人間性に対する大変な侮辱の表現だと思います」と。(つづく)




脚注


4)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
17)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/1/12_ⅲ)野蛮(?)なヨーロッパ.html
18)http://ja.wikipedia.org/wiki/関東大震災
19)明治2年の版籍奉還により身分制度が廃止されたのに引き続き、明治4年に解放令が出されて身分外身分階層が廃止された。北海道には基本的に同和問題は存在しない。解放令後に北海道が開発されたためである。
20)http://ja.wikipedia.org/wiki/同和問題
21)その他「周縁的身分論」として提唱されている、身分差別を把握する近世史研究も存在する。その視点から言うと、土木業者、石切、大工、芸能民(鳥追いと言って、戸口に立ち手を叩きながら祝詞を唱えて米や銭をもらい歩く人々などがあった)、陰陽師、神官、医師など、地域共同体よりも職縁による結合が強い人々も、地域社会から絶えず「さげすみ」の対象となる可能性をはらんでいたという。地域によっては、藍染め職人や織機の部品を作る職人も含まれたようだ。




(3256文字)




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iii )ケガレ・死・差別( V )差別される軍隊

差別される軍隊 2009.3.26


by OWL




差別される軍隊

警察、軍隊を差別した日本人


 昔の時代劇では、与力や同心、あるいは岡っ引きが武士の犯罪人をとらえようとすると、よく「不浄役人の縄目を受けるものか」といったような台詞があったらしい。「不浄役人」というのは「穢れた役人」という意味だ。


 これは、刑事警察にあたる役人は伝統的に穢れたものとして扱われていたということを明確に示している例である。ここには明らかな差別意識が見える。


「徒然草」「愚管抄」などといった貴族の書いた作品では、武士のことを「夷(えびす)」「荒夷(あらえびす)」と表現している。つまり「野蛮人、まともな人間ではない」という意味である。ここにも差別がある。


 まず第一に、これはケガレという、日本古来の神道的宗教感覚に基づいた差別だと考えられる。加えて、もともと外来宗教であった仏教の影響もある。


 そもそも、仏教は殺生というものを悪ととらえる。これは仏教の良いところであり、仏教自体に責任はない。しかし、平安貴族たちは、仏教を信仰することにより、ますます武士たちを差別するようになった。


 つまり、あいつらは『人殺し』だ。あいつらは殺生をする人間だ。ケガレに手を染める人間だ。我々はそうではない。平安貴族はそのように考え、武士を差別したわけである。


 こういった差別は現代でも続いている。もちろん自衛隊のことである。


「軍隊とは、殺人と破壊を専門とする集団のことであり、平時から毎日殺人と破壊の方法を研究、学習、練習している集団であること、自衛隊は軍隊以外の何ものでもないこと、ということをきちんと教えてほしいと私は思います」(脚注22)。


 要するに軍隊、今の自衛隊というのは人殺し集団だ、ということを言っている。人殺しの集まり、あるいは人殺し予備軍の集まりだと言っている。


 井沢氏は、「実はこれは、私がこれまで述べてきた日本古来の差別感情をもろに剥き出しにしたものにすぎません。このような平和教育のやり方は、けっして日本の将来のためになりません」と述べている。


「死」に携わる人々はどのように扱われるべきか


 憲法を議論する上での自衛隊がどういったものであれ、戦争を悪と考え、人殺しと考えることは、日本人の情に訴えるものがある。しかし、だからと言って、それに携わっている人々を差別してはいけない。


 自衛隊を人殺し集団と呼んでいる人々は、自分たちが自衛隊関係者を差別しているとは思っていないだろう。しかし、継子(ままこ)扱いにしていることは明らかだ。差別している方は意識しないが、差別されている方は受けた差別を決して忘れないだろう。


 人を殺すことはいけない。しかし、現実社会では殺人事件が起こり、犯人が有罪であれば、極刑としての死刑も行なわなければならない場合がある。


 死刑制度そのものは国家による殺人である。そのように断じて、死刑を廃止すべきだという主張もある。しかし他方で、犯人に対してあまりにも甘く、遺族感情についてあまりにも斟酌して来なかったという議論も出て来ている。


 こういった仕事をしてくれている人々を、我々はどれだけ評価しているだろうか。犯罪を摘発する業務であっても、人を裁くという役目であっても、死刑を実際に執行する職務であっても、社会に本当に必要で素晴らしい仕事をしている人々として、平等に扱っているだろうか。


 戦争はない方がよい。平和であることが望ましい。もちろん平和は理想だ。その点、世界の歴史の中では稀に見るほど、日本は戦争のない時代を長く続けることができた。それは素晴らしいことである。しかし、全世界的に見ると事情は全く違う。戦争につぐ戦争の歴史であった。


 例えばアメリカは、原子爆弾や都市爆撃で非戦闘員である一般市民を何十万人と非人道的な方法で殺しておきながら、第二次世界大戦を「良い戦争」と考えている(脚注23)。


 その後も、朝鮮戦争への介入、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などとずっと戦争を続けている。


 あまり言いたくはないが、アメリカが戦争をするのは弱い相手に対してである。あって欲しくはないが、核保有国には戦争をしかけない。軍事力の強い国、核による報復の恐れのある国には戦争しない。そういう意味では、相手国の軍事力は抑止力として働いていると言って良い。


 軍事力を賛美して言っているのではない。事実として、軍事力が抑止力として作用している面がある、ということを言っているだけである。抑止力によって戦争が未然に防がれている。軍隊によって、平和が作り出されている。そういう一面が事実としてある。


 そういった軍事力の一面を、日本人は評価しているか。恐らく大半の人は評価しない。全く評価しない。自衛隊は、我が国の平和を守る抑止力の働きをしてくれている。もしそうした一面があったとしても、そのことを日本人は評価しているだろうか。恐らく大半の人は積極的な評価を口にしない。


 逆に、平和に反している、戦争の準備をしている、軍隊は人殺しの集団である、だから恐ろしい戦争に関係する話はやめよう、といった論調の方が好きである。


 いろいろな理由があるだろう。悲惨な戦争に懲りた、平和教育のタマモノ、左翼的な新聞や出版社の世論形成。しかし、平和が来るようにと願って平安京と名付け、桓武天皇と貴族が正規軍を廃棄した頃から、日本人のマインドは全く変わっていない。それが真の理由だろう。


 つまり、戦さの準備をすると戦争を呼び込んでしまう、そういうコトダマの基本原則。戦争は殺人である、「死」である、ケガレの最たるものである、自分はケガレに触れたくない、というケガレを避ける基本的態度。


 自分はケガレを避ける。戦争とか人殺しのこと、穢れたことは、アメリカと自衛隊にやらせる。アメリカ軍に基地を提供することによるアメリカの抑止力と、自衛隊の抑止力で平和が維持されているという面があっても、そのことに評価も感謝もしない。


 かえって、人殺し集団と言って差別する。差別する側は自分が誰かを差別しているとは全く考えない。


 実は、現在の我々のありようは、平安時代の貴族がとり続けて来た態度と全く変わりがない。「死」を避け、ケガレを避け、社会にとって必要なことを黙々とやってくれている人々を差別してきたことである。


ケガレ、死、差別に見る世界観の歪み


 基本的に日本人は、「死」と向き合っている人々、「死」と関わっている人々を、正当には扱って来なかった。それどころか、いわれのない差別を続けてきた。それは日本人が持っている宗教感情に基づくものである。


 現代でも、そういった職業の人々を評価しない傾向がずっと残っている。職業に貴賤はないと言っていながら、実際には知らず知らずのうちに差別を行なっている。


「ケガレ、死、差別」を世界大の視野で見たとしよう。その時に想像できることは、日本人の基本的な考え方に「歪み」が存在しているということである。この「歪み」こそが「日本人の奇妙さ」を特徴付けている。


 そして、日本人自身は、この「歪み」についてほとんど自覚していない。この「歪み」は、日本人の宗教および宗教的感情に裏付けられたものである。何とかして「歪み」を正したほうが良いのではないだろうか。


(了)




脚注


22)城丸章夫「戦争・安保・道徳 平和教育研究ノート」あゆみ出版。
23)原子爆弾や都市無差別爆撃による非戦闘員の犠牲は、日本軍がした悪い仕業に報いた結果であって、アメリカ兵の犠牲を最小限とするためにやむを得なかった、という考えは言い訳にすぎない。非戦闘員を残酷にも大量虐殺したホロコーストであるという事実を決して正当化できるものではない。




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