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日本と世界の歴史散策


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(4)ピースメーカー OWL のひとりごと

i )理想と現実( I )戦後平和絶対主義

戦後平和絶対主義 2009.6.7


by OWL




戦後平和絶対主義

 今回から、平和を創り出す働きについて考えてみる。我々が辿ってきた歴史を振り返り、日本人がいま抱えている課題と、味わってきた苦悩、そして幸福に注目する。


 真のピースメーカーのあるべき姿とは?私たち日本人の考え方の中に歪んでいる部分はないか、考察を加えたい。まず、我々がいま抱えている課題をとりあげる。


ピースメーカーとは?


 平和を創り出す働きとは、どのようなものだろう?平和を創り出すとは、どのような人々のことを言うのだろう?人によって答えはまちまちである。意見が大きく分かれるに違いない。ひょっとすると、明確な答えを出しにくい質問かもしれない。


「平和をつくる者は幸いです」と聖書にある(脚注1)。ここでは第一義的に、「宇宙の造物主である唯一の神と、被造物である人との間の平和を創り出し、仲直りを生み出すことの幸い」が語られている。実践の第一歩は、キリストによる神との和解を自ら受け入れることである、と言われる。


 聖書にまだ価値を置いていない人びとは、その次が聴きたいに違いない。実際にはどうすれば良いのか?キリスト教が浸透していた地域、国家どうしでも、戦争や争いが絶えなかったではないか?いや、キリスト教と無縁だった日本の方が、平和を保てていたではないか?


 人びとの間には敵意がある。民族同士の争いがある。宗教対立がある。通常兵器による戦争が起こる。核戦争の恐怖が存在する。テロリズムでしか抵抗できないと行動にまで移す人びとがいる。テロリズムと断固戦う政府がある。


 実際には、どのようにすれば、平和を創り出せるのだろう?いったい、真のピースメーカーとは誰だろう?そのあるべき姿とはどのようなものだろう?


 人々は言うだろう。マザー・テレサやガンジーのような人びとこそ真のピースメーカーだ。憲法を護り平和を守れ、戦争絶対反対と叫ぶことだ。国境なき医師団などのNGOや、青年海外協力隊のような働きだ。


 かと思うと、次のように考える人も世の中にはいる。PKF(脚注2)のような軍事力を使ってでも、平和維持に介入すべきだ。アフガン戦争やイラク戦争のような先制攻撃まで容認される。


 それぞれ自分が支持する立場こそ、真のピースメーカーの働きだと確信しているのかもしれない。


戦後平和絶対主義


 護憲という言葉がある(脚注3)。もっとも、護憲と一口で言っても、いろいろである。「左寄りの立場が護憲派で、右寄りが改憲派」とは必ずしも言えない。誤用や混乱もある。少しばかり紹介しよう。


a)極端な人びとは、「憲法改正を主張したり、考えたりすること自体が憲法違反である」と主張する。現行の日本国憲法に憲法改正のための条項があるにもかかわらず、である。


b)「天皇制廃止」を訴える人びともいる(脚注4)。「立憲政治」を行うために、君主制を廃止すべきだと主張している。「天皇制廃止論者でなければ護憲派とはいえない」と言う人も中にいる。


c)「日本国憲法の条文の全てを変更すべきではない」と主張する人びとは多い。「民主制を守る、基本的人権や男女同権を維持する、第9条を維持する」との観点から言っている。


d)「天皇制を守る、共産化を防ぐ」という観点から、「日本国憲法の条文の全てを変更すべきではない」と主張するグループもいる。現行憲法を変えないといっても、c)の立場とは違う。


 いわゆる左寄りの護憲派とは、上記a)からc)の立場と言えるだろう。


 その中の人びとの多くは言う。現行憲法のおかげで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだ。長いあいだ平和が保たれた。理想を高く掲げた平和憲法こそ、世界各国の目標だ。世界情勢がどれほど変化しようと、憲法の条文に変更は加えずに行こう。


 一九四五年<昭和二十年>に終わったあの戦争では、国内だけでも数百万人という犠牲者を出した。もう戦争はコリゴリだ。二度と戦争はすまい。そういう国民的コンセンサスがあった。国民は、世界に例を見ない特色を持った現行憲法を受け入れた。陸海空の軍事力を持たないという第九条である。


 国際紛争を解決するために、武力は用いないようにしよう。話し合いを含め、武力以外の方法で、戦争のない世界を実現しよう。そのために日本が先頭を切ろう。模範となろう。


 徹底した平和教育が実践された。戦争は悲惨だ。非人間的だ。いけない。一部の軍国主義者に苦しめられていた。モノを言えない時代だった。指導者は愚かだった。日本は生まれ変わった。平和こそ絶対だ。


 同じ過ちを繰り返さないようにしよう。その頃大事だとされていたモノの中には、戦争につながるものがある。絶対に反対しよう。「戦争の非人間性、残虐性を知らせ、戦争への怒りと憎しみの感情を育てる」(脚注5)ことに焦点をあてよう。平和教育の実践に力を入れよう。


 自衛隊とは殺人者集団であるという、次の一文に代表される。


「軍隊とは、殺人と破壊を専門とする集団のことであり、平時から毎日殺人と破壊の方法を研究、学習、練習している集団であること、自衛隊は軍隊以外の何ものでもないこと、ということをきちんと教えてほしいと私は思います」(脚注6)。


 大学人も、「二度と戦争はすまい」という同じコンセンサスから出発した。歴史学者も教育学を専攻する人も、同じ気持ちだった。中には、マルクス主義的世界観寄りの考え方から出発する人もいた。いや、そういった考え方をする人びとが、大学の中では主流派だった。声が大きかった。


 歴史や教育の専門家から、政治学者、国際関係や国際法の研究者まで、戦争に関する研究には、殆ど手を付けなかった。研究の対象にすべきだと考える人もいたかもしれない。しかし、ほんの一握りの人を除き、いわばタブーだった。


 メディアも戦争反対の論陣を張り続けた。平和教育を実践する側を擁護する論調が繰り返された。時には編集長や論説委員が、時には評論家が陰ひなたに立った。ペンと映像の力を駆使して、日本の世論形成を誘導した。


 左寄りの政党の一部は、安保闘争(脚注7)の中心勢力となった。西側陣営にいることは戦争への道だという政策を訴えた。非武装中立を唱え、戦争絶対反対を主張し、平和教育を支援した。


 政権を担ってきた右寄りの勢力は、国民には内緒で日米安全保障条約(脚注8)を結んだ(一九五一年、昭和二十六年)。占領軍が在日米軍として駐留する国防システムを作った。それでも、「二度と戦争はすまい」というコンセンサスは重んじた。世論を軽く見ることはできなかった。


 軍隊は作った。明らかな憲法違反だった。しかし、正式なものではないとして「自衛隊」と呼んだ。コトダマ国家にふさわしく、「言い換え」をした。問題が出てくるたびに、解釈改憲をして凌いできた。


 本来使われるべきではなかった原子爆弾が、ヒロシマ、ナガサキに投下された。沢山の人々が死に、多くのヒバクシャが苦しんだ。日本は唯一の被爆国だった。核兵器のない世界を作ろうと、世界にアピールして来た。抑止力としての核兵器も持たなかった。


 戦争に敗れたあと、約六十五年の歳月が経過した。日本は、戦争と直接関わりのない時代を過ごしてきた。戦争によって一人も殺さなかった。一人として殺されなかった。武器輸出をしないという原則も守った。


 右寄りの政権勢力が作った国防システムにより、平和が守られた。逆に、平和憲法を護持していたから、平和でいられた。その立場たちばで、それぞれの主張がなされた。正しいのは、どちらだろう?現在に至るまで、意見は分かれている。


 ともあれ、戦後平和絶対主義には力があった。「護憲」の旗印は輝きを放ち、人々の中で一定の力を持っていた。(つづく)




脚注


1)「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるから」マタイの福音書5章9節、新改訳聖書第3版、2003年、聖書図書刊行会。
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/PKF :PKF(United Nations Peacekeeping Force:国連平和維持軍)。PKO(United Nations Peacekeeping Operation:国連平和維持活動)の働きの一環で、紛争解決のために派遣される各国軍部隊のこと。
3)http://ja.wikipedia.org/wiki/護憲
4)天皇制を廃止するために、憲法の改正を主張する立場は、実は改憲派であるが…。
5)山辺芳秀「教研集会からみる日教組の平和教育」教育評論、1993年、教育評論社。
「平和教育とは何か」という章で、平和教育実践について次の三つの目標を掲げている。
一、戦争の持つ非人間性、残虐性を知らせ、戦争への怒りと憎しみの感情を
   育てるとともに、平和の尊さと生命の尊厳を理解させる。
二、戦争の原因を追及し、戦争を引き起こす力とその本質を、科学的に認識させる。
三、戦争を防止し、平和を守り築く力と、その展開を明らかにする。
 しかし実際は、第一の目標にのみに力が注がれ、第二、第三の目標は殆ど触れられていない。そのように、一部から批判されている。
6)城丸章夫「戦争・安保・道徳 平和教育研究ノート」あゆみ出版。
7)http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/日米安全保障条約




(3795文字)






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i )理想と現実( II )対立する歴史観

対立する歴史観 2009.6.8


by OWL




対立する歴史観

変化しはじめる世論


 当初から、平和絶対主義には批判があった。「平和念仏主義」という言葉に代表される。「『平和、平和』と口にして平和憲法を堅持していれば、平和でいられる」とする態度のことである。作家の司馬遼太郎氏はそう表現した。


 現在、「護憲」の旗は、国民にどのように映っているだろう。まだまだ、輝きを失っていない。そう考えて、その旗を掲げ続ける人びともいる。他方では、色褪せが目立ち、イデオロギー的(何らかの先入観を含む偏った考え方)であるとして、避けられ始めているかにも見える。


 最大のターニングポイントは、湾岸戦争(一九九一年、平成三年、脚注9)だろう。戦争終結時に、クウェート政府は世界の主要紙に感謝広告を出した。


 日本は、主にアメリカ合衆国の圧力もあって、多国籍軍に多額の資金協力をした。侵略された小国を助けるために、精一杯の貢献をしたつもりだった。しかし、その広告に日本の名前はなかった。


 開戦当時、多国籍軍による空爆が始まっても、五十四日間バグダッドにとどまって報道を続けた米国人がいる。ピーター・アーネットだ(脚注10)。


 バグダッドを脱出した彼に、日本のメディアは訊ねた。「日本にもキチンと報道してもらえるのか」と。その時、アーネットは次のように答えた。「我々は命をかけている。しかし、キミたちはただの野次馬だ。」


 左右の政治勢力、メディア、一般の我々は、それぞれ一様にショックを受けた。資金提供では国際貢献と見なされない。全く評価されない。それどころか、野次馬扱いまでされる。日本が世界からどう見られているか、その厳しい現実を思い知った。


 湾岸戦争と匹敵するほど影響が大きかった事件がある。二〇〇二年<平成十四年>の小泉純一郎首相(当時)による北朝鮮電撃訪問である(脚注11)。


 金正日朝鮮労働党総書記は、自国工作員による日本人十三名の拉致を認めた。口頭で謝罪した。これがきっかけとなり、日本人拉致問題は急展開した。二〇〇四年<平成十六年>までに、拉致被害者のうち五名とその子どもたちの帰国が実現した。


 一九七〇年代から八〇年代にかけて、不自然な行方不明者が、特に日本海側で続出した。多くの人々の人生が狂わされた。北朝鮮工作員によるこの事件を、国会で最初に取り上げたのは当時民社党委員長の塚本三郎だった(一九八八年、昭和六十三年)。


 日本の公安当局は徐々に動き出し、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚との見方を強めていった。横田めぐみさんの実名が公表されるに至って、報道も爆発的に増えた。世論も次第に後押しして、真相究明を政府に求めた。


 そんな中、違った意見を発表する人々が出てきた(脚注12、13)。「北朝鮮による拉致であるという明確な根拠は存在しない」(脚注12)と。当時、ホームページに、韓国安全企画部や産経新聞のデッチ上げの疑惑があることを載せた政党もあった(脚注14)。


 このように、拉致を「捏造」と主張する個人や団体が存在した。その多くが、左寄りの勢力であり、護憲派とされる人々だった。北朝鮮を擁護し、政府や右寄りのグループを攻撃した。彼らは青ざめた。二〇〇二年の小泉電撃訪問で、シロクロがハッキリとついたからだ。衝撃的だった。


対立する歴史観


 ある人びとは、考えるようになった。


 日本人は、世界の一般常識をあまりにも知らない。「軍事」が、依然として世界の政治を動かしている。その重要性を、我々は全く無視してきたのではないか。世界のどこかで、他国の侵略に苦しんでいる人びとがいる。でも、戦争はいけないと叫ぶだけだった。


「他国の人々は善意のカタマリである」と考え、隣国と誠実に付き合って行こう。こちらに悪いことをするはずがない。そう思って来た。


 他国による人権侵害に苦しんでいる人々が世界(日本)のどこかにいる。でも、邪悪なのは日本政府や体制側の連中だ。そういう宣伝、主張が、ある人々によって続けられてきた。彼らを、これからも信じ続けて良いのだろうか?


「平和こそ全て!」と考え、実践してきた。世界中で最も平和に貢献していたつもりだった。自分たちさえ良ければいいなどと考えたつもりはなかった。しかし、世界の国々からは、自己中心的な人びとと見なされるに至った。


 どうやら世界の常識から、大きくかけ離れていたらしい。苦しんでいる人々に、あまりにも無関心だったらしい。


 平和教育では、「平和は何よりも尊い」「戦争は愚かだ」ということを、子供たちに徹底的に叩き込んだ。そうすることは、「歴史に学ぶ」ことの実践だと思っていた。


 しかし、平和教育は逆に、「歴史」に対する誤解を植え付けた。なぜ戦争が起きたのか、全く知らない。なぜ戦争に参加したのか、その辺りの事情を知ろうとしない。やむを得ない事情もあっただろう。しかし、斟酌したり思いやったりすることができなくなった。


 世界に腹黒い人々はいない。悪いのは、自国の体制側の人びとだと思って来た。悪いのは、西側諸国の指導者たちだと宣伝されてきた。「戦争を準備しようとする人たち」と非難してきた。


 過去に戦争を起こした人びとを「愚か」と考えた。戦争に参加した人びとを「愚か」と考えた。戦争に苦しんだ時代の人びとに、同情を寄せることができなくなった。今も苦しんでいる人びとに、共感できなくなった。共感があったとしても表面的なものにとどまった。


 そのため子供たちは、「『昔の人はバカだったのだ、自分はそんなにバカじゃない』と当然と思う。『歴史など振り返る必要はない』ということにもなる。


 そういう子供たちは大人たちに『なぜ戦争に反対しなかったのか?』『なぜ徴兵を拒否しなかったのか?』と言う。そんなことは到底不可能だったということが、分かっていないのである」(脚注15)。


 ある人びとは、皮肉をこめて次のように言う。戦後日本の教育は、世界の常識を知らず、歴史を知らず、自己中心で、世界観の歪んだ人びとを世に送り出した。これらは、すべて平和教育の成果である、と。


 こうした中、右寄りの人びとは、キャンペーンを展開しはじめた(脚注16)。教育を変えていこうと動き始めた。反対勢力の主だった人々を、「反日日本人」「外国に日本を売り渡す進歩的文化人」と非難した。


 戦後支配的だった歴史観を、自虐史観、コミンテルン史観、東京裁判史観などと非難し、退けた。そのかわり、司馬史観、自由主義史観を標榜し、世論に訴えかけようした。中には皇国史観を振りかざす人びともいる。


 護憲派を含む左寄りのグループはどう対抗したか。彼らは、戦後の歴史観を見直そうという上記の動きを、「歴史修正主義」と呼んだ。非難した(脚注16)。


 日本から平和を奪い去りかねない、アブナイ動き。既に決着のついた問題をことさらとりあげて、歴史の真実をねじ曲げている。歴史に学ばない人びと。危険なナショナリスト。戦争を美化し賛美する人びと、と。


 新聞、出版社、テレビ局も次第に色分けされ始めた。「朝日、毎日」vs「読売、産経」、「岩波書店」vs「小学館」、「テレビ朝日、TBS」vs「日本テレビ、フジテレビ」。


 必ずしも理性的とは言えない非難合戦も、水面下では存在する。自分のメディアでは、反対陣営の動きを一切流さないという、露骨にバイアスをかけた報道姿勢もある。ともあれ、世論を巡っての綱引き、駆け引き、働きかけは既に始まってしまった。


 いったい、こうして対立する左右勢力の中に、真のピースメーカーはいるのだろうか?どちらが真のピースメーカーなのだろう?


 私たちは、どうすれば良いのだろう?歪みのない歴史観、世界観を身につけてゆくために、何が必要で、何が不要なのだろう?歴史に学ぶとは、いったいどういうことなのだろう?真のピースメーカーとなるために、世界と歴史から学びたい。


(了)




脚注


9)http://ja.wikipedia.org/wiki/湾岸戦争
10)アーネット、ピーター「戦争特派員 CNN名物記者の自伝」(沼沢治治訳)、1995年、新潮社。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/北朝鮮による日本人拉致問題
12)和田春樹「『日本人拉致疑惑』検証する」世界、2001年、岩波書店。
13)日弁連元会長の土屋公献も、「拉致問題は存在せず、国交交渉を有利に進めたい日本側の詭弁である」「日本政府は謝罪と賠償の要求に応じるどころか、政府間交渉で疑惑に過ぎない行方不明者問題や『ミサイル』問題を持ち出して朝鮮側の正当な主張をかわそうとしている。破廉恥な行動と言わざるを得ない」と、講演で繰り返し述べていた。後に、土屋は「(北朝鮮に)裏切られたという思い、強い憤りを感じる」と言い、被害者家族らに謝罪している。
14)社民党は、公式ホームページに、事件の捏造を断定する趣旨の論文を載せた。「少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない」と。
15)井沢元彦「歴史if物語」2000年、廣済堂出版。
16)自虐史観vs自由主義史観、平和絶対主義vs歴史修正主義:これらについては、別項目を立てて詳しく述べる。




(3712文字)






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ii )貴い犠牲( I )日露戦争講和に反対

日露戦争講和反対 2009.6.20


by OWL




日露戦争講和に反対

 前回から、平和を創り出す働きについて取り上げている。戦後語り継がれている常識に、次のようなものがある。「世論は戦争に反対だった」「新聞はもともと一貫して反戦だった」「軍国主義者の弾圧で自由が奪われた」「国民も新聞も、心ならずも戦争に協力したのだ」と。


 その常識を検証するために、四つの事例を取り上げる。まず、日露戦争講和反対キャンペーン、次に、陸軍の行動を絶賛したメディア、シビリアンコントロールの破壊、最後に、五・一五事件首謀者の助命嘆願運動である。


 今回は、「世論とメディアはピースメーカーであったか」を検証するとともに、日本人が支配されている根本的な行動原理を探りたい。


日露戦争講和反対キャンペーン


 一九〇五年<明治三十八年>、アメリカ合衆国のポーツマスにおいて、日露戦争の講和会議が開かれた(脚注1、2)。ロシアとの講和が決まった。ところが、一部を除き、当時の新聞は「戦争継続」を訴えた。司馬遼太郎氏は、次のように書いている。


「大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものだった。講和条約を破棄せよ。戦争を継続せよ、と叫んだ。『国民新聞』をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた」(脚注3)と。


 戦争を勝勢に導いたとはいえ、当時の日本には、もはや戦争継続の能力は残っていなかった。日本は、国家予算の約四倍にあたる二十億円もの借金をして戦った。お金はとっくに底をついていた。最善の道は、一刻も早く戦争を終結させることだった。


 ところが、新聞は「屈辱講和」だと煽動した。困難な講和交渉を成し遂げた外務大臣小村壽太郎全権大使は、「国賊だ!」と口汚くののしられた。日比谷焼打事件が起こるなど、民衆は暴徒化した(脚注4)。


 満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権、樺太南半分などを獲得した。しかし、賠償金は獲得できなかった。民衆も新聞も「平和の値段が安すぎる!」と主張した。


 この時、軍部は新聞を弾圧していただろうか?嫌がる民衆を取り締まり、好戦的になるよう仕向けたのだろうか?否。逆に軍部よりも、一般国民の方が好戦的であった。新聞は、好戦的な大衆に迎合した。反戦などとはかけ離れた、とんでもないメディアであったことがうかがえる。


 新聞紙法が政府によって制定されたのは、日露戦争終結から四年経った一九〇九年<明治四十二年>である(脚注5)。言いたい放題、大衆に迎合して戦争継続を煽り、政府を攻撃したツケが、思いもよらない形で廻って来た。そう言って構わないのかもしれない。


 成立した新聞紙法では、内務大臣による「発行禁止処分」が規定されてしまった。陸軍、海軍、外務大臣による、「軍事外交に関する記事の禁止や制限」も盛り込まれた。


 司馬遼太郎氏は感想を述べる。結局、日露戦争講和反対の叫びは、「向こう四十年の魔の季節への出発点」(脚注3)であった、と。(つづく)




脚注


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
2)http://ja.wikipedia.org/wiki/ポーツマス条約
3)司馬遼太郎「この国のかたち1」文春文庫、1993年、文藝春秋。
4)http://ja.wikipedia.org/wiki/日比谷焼打事件
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/新聞紙法




(1400文字)




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ii )貴い犠牲( II )絶賛される帝国陸軍

絶賛される帝国陸軍 2009.6.21


by OWL




絶賛される帝国陸軍

陸軍の行動を絶賛したメディア


 一九二九年<昭和四年>、経済大恐慌が全世界を襲った(脚注6)。世界経済は、植民地を有する西欧主要諸国によりブロック化されていった。自国ブロック以外との貿易を制限し、他国を事実上締め出した。


 日本は、英ポンドブロック、米ドルブロック、仏フランブロックなどから排除された。広大な植民地を持たない日本は、自国ブロック内部での経済成長が見込めなかった。


 国内では、「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていた。一九三一年<昭和六年>、政府の失政もあり、有効な経済対策を打ち出せない状態が続いた。深刻な不景気にもがいていた。


 南満州鉄道を警備するために満州に駐留していた日本軍は、関東軍と呼ばれていた。一九三一年九月十八日、関東軍によって、奉天(ほうてん:現在の瀋陽、脚注7)付近の柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道の線路が爆破された。満州事変の始まりである(脚注8)。


 関東軍は、石原莞爾(いしはらかんじ)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)、土肥原賢二(どいはらけんじ)らによって率いられていた。


 本国からの連絡を待たずに、翌十九日までに、関東軍は奉天、長春(脚注9)を占領する。土肥原を奉天の臨時市長に就任させてしまう。二十一日には、林中将率いる朝鮮軍が、独断で越境し満州に侵攻した。一企業の爆破事件が、国際的な紛争に拡大した。


 若槻禮次郎(わかつきれいじろう)内閣は戦線不拡大の方針を決定した。外務大臣の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は、戦線を奉天で止(とど)めること、錦州(遼寧省、奉天の西隣)までは進出しない方針を、陸軍大臣を通して陸軍参謀総長に伝え、参謀総長も諒承した。


 その旨を、幣原外相は米国にも伝えた。ところが、参謀総長からの抑制命令が届く前の日に、関東軍は錦州攻撃を開始する。もちろん米国は激怒した。関東軍も、政府が作戦を漏洩したと激怒した。幣原外相の国際協調主義外交が、内外ともに決定的なダメージを受けた。


 満州事変では、三万から六万の兵力で十六万を撃破し、六ヶ月で満州全体(現在の中国東北部三省、南から北へ、遼寧(りょうねい)省、吉林(きつりん)省、黒竜江(こくりゅうこう)省)を占領、治安を安定させた。作戦それ自体を見るなら、大成功だった。


 また、こうした軍事行動は、植民地を拡げてゆくために、かつて欧米列強がとった方法とあまり変わらなかった。取ってつけたような理由を後づけする形で、自国の行動を正当化して領土を増やしていった(脚注10)。


 かつて、中南米・アジア・アフリカで自分たちが使った帝国主義的手法を、日本はそっくり真似た。英米からすると、自分たちも持っていた中国への野心を、日本はあまりにも露骨な形でむき出しにした。


 この時まで、欧米の利害と対立しないように、日本はうまく立ち回って来た。しかし、満州事変以降、欧米の既得権に敢然と挑戦するかのような存在となってしまった。


 政府は「当初から、関東軍の公式発表以外の内容の報道を規制した」と言われている。政府の不拡大方針は無視され、国際協調主義外交と訣別することになる。十五年戦争(脚注11)の暗い時代はこうして始まった。


 いかに情報操作がなされていたとはいえ、新聞各紙は関東軍の行動を絶賛した。電光石火の関東軍の軍事行動を見事だと讃えた。失策続きで弱腰な内閣に比べ、関東軍の判断は英断だった。そういう印象を読者に残した。かくして世論は、満州事変賛成に固まっていった。


 当時のメディア・新聞は、戦争に反対だったのだろうか?世論を満州事変賛成に導くのに、積極的に加担した。そう言って良いだろう。(つづく)




脚注


6)http://ja.wikipedia.org/wiki/世界恐慌
7)奉天:現在の瀋陽=シェンヤン;中国東北部三省のうちの一つ、最も南に位置する遼寧(=りょうねい)省にある。
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変:中国側呼称は九一八事変。
9)長春:現在も同じ呼称;中国東北部三省のうちの一つ、中央に位置する吉林(=きつりん)省にある。
10)リーガルフィクション(法的擬態):取ってつけたような「もっともらしい理由づけ」は、リーガルフィクションと呼ばれる。国際政治上の技巧の一つで、黒を白と言ってでも自分の正当性を主張する、欧米諸国が最も得意としてきたテクニックである。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/一五年戦争:日本による侵略性を認めない人々、ないし消極的な人々からは、しばしば否定的に受けとめられる表現である。




(1927文字)






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ii )貴い犠牲( III )シビリアンコントロールの死

文民統制の死 2009.6.22


by OWL




シビリアンコントロールの死

シビリアンコントロールの破壊


 明治憲法下では、軍隊の統帥権は天皇にあった(脚注12)。しかし、実際には、天皇が直接命令を出すことなく、内閣の方針を陸海軍両大臣が軍部に伝えていた。そこには、緩やかだが、シビリアンコントロール(脚注13)の概念があった。


 ところが、その概念を脅かすムーブメントがすでに起こっていた。満州事変の一年前(一九三〇年<昭和五年>)である。ロンドン軍縮会議(脚注14)で、世界各国は軍縮のために話し合いを持った。日本政府は、保有軍艦の比率を米国の約0.7にする条約を結び、批准した。


 これを、野党立憲政友会の犬養毅(いぬかいつよし)と鳩山一郎(はとやまいちろう)は、次のように非難した。「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と。つまり「天皇の承認を得ずにそんな大事なことを決めたのは、憲法違反だ」という非難である。


 本来は天皇にあるべき軍隊の統帥権に対して、内閣が不遜にも干渉した。そうした政府への攻撃は、軍部と右翼団体に大きな同調者がでた。不満が渦巻き、新聞もそれを報じた。時の濱口雄幸(はまぐちおさち)首相は東京駅にて狙撃され、半年後に死亡。シビリアンコントロール死滅の予兆である。


 野党は、「統帥権干犯」問題を政争の道具にした。かけがえのないシビリアンコントロールを人質に出した。危険な目に遭わせてしまった。あとで、野党だけでなく、すべての日本人が大きなツケを払うことになった。


 新しいアイディアで政府を攻撃できるのは小気味良いものだ。広く同調者がでるなら、なおさらである。その気持ち良さの結末がどのようなものになるか。犬養らは、想像することさえできなかっただろう。


 一九三一年<昭和六年>、満州で軍事行動を起こした関東軍は、当時の内閣が打ち出した「戦線不拡大方針」に対して、この悪魔の呪文を唱える。「統帥権の干犯だ」と。こうして、これまでの慣例を破壊し、内閣の方針を無視した。軍隊のシビリアンコントロールが失われた。


 若槻禮次郎内閣は、軍部、世論に対抗できず、内閣の中にも離反者が出たために、総辞職を余儀なくされる。戦線不拡大の方針を堅持できず、軍部の動きを追認する次の内閣が生まれたのである(脚注15)。


 軍部では、次のような見解が生まれる。「既成事実を積み上げよ。そうすれば政府の方針などひっくり返る」と。関東軍は勝手に国策を決定し、実行するようになった。軍部の独走である。


 当時のメディア・新聞は、「統帥権干犯」という悪魔の呪文が広まることを見抜けず、野党、軍部、右翼の考えを垂れ流した。関東軍の働きを絶賛し、国民を勝利の美酒に酔わせた。世論を満州事変賛成に誘導した。結局、シビリアンコントロールに、死刑宣告を出してしまった。(つづく)




脚注


12)http://ja.wikipedia.org/wiki/統帥権:「統帥権干犯」問題は、海軍だけでなく帝国陸軍でも口実となる。満州駐留の関東軍は満州事変を主導した。それに対して、政府は不拡大方針を伝えた。この時、関東軍は「統帥権の干犯だ」と主張し、「東京の支配下には入らない」という強硬姿勢を見せることになる。
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/シビリアンコントロール:文民統制と訳される。軍隊を誰が統率するのか。軍人以外のメンバーが率いる内閣がコントロールするシステムのこと。
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/ロンドン軍縮会議
15)犬養毅:次の内閣を率いたのは、立憲政友会の犬養毅である。犬養は、野党時代に「統帥権干犯」問題を取り上げて与党立憲民政党を攻撃した。五・一五事件で射殺されたことで同情を一身に集めている。しかし、政府を攻撃するために使った同じ論法が、軍部の暴走に利用された。そして自らも命を落とす。犬養は、シビリアンコントロールを葬り去った側の一人。そのリッパな立役者と言えるかもしれない。




(1657文字)






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ii )貴い犠牲( IV )テロリストに甘かった時代

テロリストに甘い 2009.6.23


by OWL




テロリストに甘かった時代

五・一五事件首謀者の助命嘆願運動


 大正から昭和初期にかけて、内閣総理大臣の多くは、在任中に暗殺されたり、暗殺未遂に遭ったりしている。右翼により、原敬(はらたかし)、濱口雄幸(前出)、若槻禮次郎が狙われた。


 本小項目の犬養毅、後述する斎藤實(さいとうみのる)と岡田啓介(おかだけいすけ)は軍部に射殺されたり、射殺されそうになったりした。


 この国では不思議なことに、テロ事件の明らかな犯人であっても、寛大な処分で終わることが多い。たとい無期懲役となっても、恩赦で刑期が短縮されて刑務所を出る。元の活動に戻ってテロを支援する。五・一五事件(脚注16)でも、例外ではなかった。


 一九三二年<昭和七年>五月十五日、大日本帝国海軍急進派の青年将校たちが首相官邸に押し入り、犬養毅首相(当時)を殺害した。裁判が行なわれている時期、テロ首謀者の助命・減刑を願った運動が展開された。


 大正デモクラシー期(脚注17)以降、民本主義思想とイギリス議院内閣制にならって、元老による内閣首班の推薦が行なわれるようになった。実質的に、二大政党による政権交代が実現していた(脚注18)。


「民意は衆議院総選挙を通して反映される。衆議院第一党が与党となり、内閣を組織する。総辞職に及んだ場合は、直近の総選挙に立ち返り、次席政党たる第一野党が政権を担当する」という原理(脚注19)に基づくものである。


 当時、知識階級や革新派は、あからさまに軍隊批判と軍縮支持を行なっていた。一般市民も影響され、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、軍人は肩身の狭い思いをしていたと言われる(脚注20)。


 世界恐慌(一九二九年<昭和四年>、脚注6)、ロンドン軍縮会議(一九三〇年<昭和五年>、脚注14)、満州事変(一九三一年<昭和六年>、脚注8)と続く中、社会不安が増大していた。


 海軍の一部は、軍縮を進め英米と妥協した立憲民政党の若槻禮次郎主席全権大使に対し、不満を募らせていた。野党立憲政友会は、ロンドン海軍軍縮条約の締結と批准を、「統帥権の干犯」(前出、脚注12)であると非難した。


 上述のごとく、一九三一年四月に成立した立憲民政党の若槻禮次郎内閣は、満州事変について不拡大方針を徹底できなかった。軍部や閣僚の離反もあって、閣内不一致で総辞職。一九三二年<昭和七年>二月の総選挙では、立憲民政党は大敗。犬養毅率いる立憲政友会が勝利した。


 首相となった犬養も護憲派の重鎮で、軍縮を支持していた。そのため、犬養は海軍急進派青年将校の標的となった。「まあ待て。話せば分かる」という犬養毅に対し、興奮状態の青年将校たちは、「問答要らぬ。撃て。撃て」と叫んで、拳銃で射殺した。


 これがきっかけとなり、軍人内閣が立て続けに成立した(脚注21)。日本の政党政治は衰退することになった。このテロ事件は、民主主義を死へと追いやることになったトンデモ事件である。にもかかわらず、大衆は犯人たちの助命嘆願運動を支持した。


 犯人である青年将校たちは、東北地方の貧しい農村出身が多かった。彼らは、故郷で苦しい生活に喘いでいる人々や家族を思い、国を憂えていた。天皇陛下を取り巻く、黒い雲のような「君側の奸」(脚注22)を取り除いて何とかしよう、と。


 確かに不穏当な考えかもしれないが、汚職や贅沢にまみれた政治屋が罰せられずに、何故彼らだけが罰せられるのか。彼らには、情状酌量の余地がある、と。


 結局、裁判では、将校たちへの判決は軽いものとなった。二・二六事件(脚注23)など、その後の軍部主導のクーデターの土壌を生み出してしまった(脚注24)。軍部によるテロ、クーデターを自ら招き寄せた、といって差し支えないのではないか。(つづく)




脚注


12)http://ja.wikipedia.org/wiki/統帥権:「統帥権干犯」問題は、海軍だけでなく帝国陸軍でも口実となる。満州駐留の関東軍は満州事変を主導した。それに対して、政府は不拡大方針を伝えた。この時、関東軍は「統帥権の干犯だ」と主張し、「東京の支配下には入らない」という強硬姿勢を見せることになる。
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/ロンドン軍縮会議
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/五・一五事件
17)http://ja.wikipedia.org/wiki/大正デモクラシー
18)伊藤博文系の立憲政友会 vs 護憲運動の中心となった憲政会/立憲民政党
19)http://ja.wikipedia.org/wiki/憲政の常道
20)杉森久英・村上兵衛共著「昭和史の化け物、統帥権」、『ノーサイド』1993年1月号、文藝春秋。大正デモクラシー(軍縮)時代の軍人観を紹介する文章が載っている。
「(昭和5年より以前の時代は)実は軍縮時代でした。軍縮時代というのは、一言で言うと軍隊のいらない時代でした。……当時は軍人が軍服のまま電車に乗ってくると、『この穀潰しめが』とか、『税金泥棒めが』などと見られるために、外出時には制服を着ないという時代でした。……
『村上 大正末期というと、軍縮の時代ですね。おそらく、今おっしゃった左翼思想の影響もあって、軍人が非常に馬鹿にされますね。軍人の発言権利がどんどん失われていく。その恨みが、昭和の初年にいっぺんに爆発したような気がします。
 杉森 そうなんです。あの頃私は中学生ですが、軍人は人殺し商売で普通の人間のやるもんじゃない、というふうなことを、先生たちがじわじわと我々の頭にしみ込むように、授業の合間なんかでしゃべっているんですね。
 たとえば、日本では大きな軍艦を作っているが、あんなものを造る必要はない。あの軍艦一隻あれば、関東地方一円の下水工事が全部できる。あの軍艦一隻のために関八州は蚊のすみかで、あんなものを造らなければ蚊はいなくなる、なんてことを英語の先生が。はあ、そんなものかなと、こちらは子どもだから神妙に聞いていますよね。そんな時代でした。
 村上 そこは現在と似ているところがあるような気がするんですよ。軍人は全部悪いんだ、人を殺すから駄目だと。その反動で満州事変が起きた後、いっぺんに状況はひっくり返ります。
 杉森 僕は10年も20年も前からそう言っているんです。今は自衛隊をみんなでいじめているけれど、今にひっくり返るぞ、と」
21)齋藤實、岡田啓介:二人とも海軍出身の総理大臣である。しかし、斎藤實(さいとうみのる)は首相に就任したが、ほどなく辞任している。その後に内大臣となって再度入閣し、二・二六事件で射殺される。岡田啓介(おかだけいすけ)は、首相に在任している間に、二・二六事件で襲われた。ただ、こちらは危うく難を免れる。
22)君側の奸:「五・一五事件」の犯人たちは、大川周明(おおかわしゅうめい)ら思想家の考えに影響されたとされる。大川周明は民間人ではあったが、犯人側に武器を供与した橘孝三郎とともに、厳しい処分がくだされた。
23)http://ja.wikipedia.org/wiki/二・二六事件:五・一五事件の後、内閣を引き継いだ齋藤實(みのる)、岡田啓介(けいすけ)らは、海軍軍人出身であった。この二人も、二・二六事件で殺害されることになる。
24)山崎国紀「磯部浅一と二・二六事件」1989年、河出書房新社。二・二六事件の反乱将校たちは、投降後も自分たちの量刑について非常に楽観視していた。しかし結局、クーデター主犯格の磯部浅一は、銃殺に処せられる。




(3121文字)






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ii )貴い犠牲( V )犠牲者は無にできない絶対のもの

犠牲者絶対主義 2009.6.24


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犠牲者は無にできない絶対のもの

犠牲を無にできない主義


 先に見た通り、日露戦争終結の頃、日本の大衆は軍部よりも好戦的だった。好戦的な大衆に迎合する形で、新聞は「屈辱講和」「戦争継続」を叫んだ。


 満州事変でも、民衆は好戦的だった。よくやった。汚職と失政ばかりの政治家たちより、よっぽど頼りになる。好戦的な民衆に迎合する形で、新聞は関東軍による電光石火の作戦行動を絶賛した。


 何故、日本の国民は好戦的だったのだろうか?樺太(現サハリン)の南半分だけでなく、全部取れ。満州だけでなく中国全土を取ってしまえ。そういう「領土欲」「帝国主義的欲望」のせいか?


 戦後を支配し続けて来た歴史観における常識は、「日本は『帝国主義的欲望』を満足させるため、他国の領土を侵略した」というものである。


 しかし、「帝国主義的野望」以上に、大きな理由が存在する。「日本人の言動を規定する根本原理」による。他国の人々にはとうてい理解し難い理由である。


 それは次のような考え方である。「ある目的を達成するために多くの人間が犠牲になった場合、その成果はどんなことをしてでも守られるべきである。そうしなければ、犠牲になった人々の霊が浮かばれない」(脚注25)。


 具体的には、日清・日露戦争を通して、日本は大陸に権益を得た。そのために十数万の将兵が犠牲となった。その犠牲者(英霊)に申し訳ないような言動は、厳に慎まなければならない。英霊の思いに応えるような行動こそ、生きている我々は選択するべきだ。そういう考えである。


 だから、日露戦争では、次のように考える。ポーツマス条約で戦争を終結するなんて、大陸に眠った犠牲者に申し訳ない。「講和反対」「戦争継続」「平和の値段が安すぎる」と、大衆の声が燃え上がった。


 満州事変でも、次のように考える。内閣は、英霊に申し訳の立たない方針ばかりを指示する。「軍縮、軍縮」と言い、「戦線不拡大」という。政治家たちに比べ、軍部の方が頼りになる。これで戦争犠牲者が浮かばれる。こういって、帝国陸軍の行動が絶賛された。


 多くの犠牲によって得られた成果は、それ自体絶対的な価値を持つ。これに異議を唱えたり、批判を加えたりすることは、一切許さなかった。もし、批判を加える者があれば、厳罰に処してもかまわない。この成果を守るために、国が滅びることになってもかまわない(脚注25)。


 そういう言い換えが可能である。「まさか」と思うほど極端な考え方だ。しかし、その「まさか」が、現実となった。犠牲によって得られた成果を「死守」しようとするために、国が滅びたのである。


 中国戦線が膠着する中、日本はABCD包囲網による経済封鎖を受けた(脚注26)。アメリカは「中国から完全に手を引け」と要求した。それに対し、陸軍は「英霊(戦死者の霊)に申し訳ないから撤兵できない」と突っぱねた。


 二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、一か八かのギャンブルに出た。一九四一年<昭和十六年>十二月八日のハワイ・オアフ島真珠彎攻撃に始まる対米英宣戦布告である。そして、見事に国が滅び、多くの犠牲によって得られた貴い成果そのものも失ったのだった。


 先の戦争を「自衛のための戦争」と呼ぶ人々がいる。国を守るためにやむを得ず立ち上がったと言う。少なくとも、当時の日本人は、心からそう思っていた。何故か?それは「犠牲を無にできない主義」という、日本人特有の思考原理、行動原理の故である。


 今でこそ、そうした原理に従って行動した人々のことが理解できない。我々は、後知恵から次のように振り返る。当時の多くの人々は、不承不承(ふしょうぶしょう)戦争に狩り出されたに違いない、と。


 しかし、「犠牲者に申し訳ない」という行動原理は、広く広く国民の間に浸透していた。恐らく、左寄りの人々ですら、内心葛藤を抱えつつも、「犠牲を無にできない主義」を肯定する言動をしていたのではないだろうか。


 メディア・新聞も、この行動原理に染まっていた。メディア側は、好戦的になっている大衆の心情がよく理解できた。その心情と叫びにマッチする記事を書いた。イヤイヤではなく、大衆の心情に、心からの同意を寄せて書いた。(つづく)




脚注


25)井沢元彦「『言霊の国』解体新書」小学館文庫、1998年、小学館。
26)http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD包囲網




(1792文字)






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ii )貴い犠牲( VI )絶対視される平和

絶対視される平和 2009.6.25


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日露戦争講和反対

平和の絶対的価値


 戦前の日本を支配していた「犠牲を無にできない主義」に基づく行動原理は、実は戦後の日本をも支配してきた。ここでも、まさかと思うかもしれない。しかし、事実は次のような例で簡単に見抜くことができる。


 大東亜戦争(太平洋戦争)で、三百万人以上の犠牲者を出した。その死を無にしてはいけない。我々の抱えている現状は、戦没者の方々に申し訳ない。よく耳にする言い方である。


 特に「絶対平和主義」を主張する人々は、憲法改正とかPKO(国連平和維持活動)に目くじらを立てて反対する。少しでも賛成の意見を出す者には、戦没者の死を無にするなと声を上げる。反論は一切許さない。「ダメなものはダメ」と。


「平和」には絶対的な価値がある。それは、多くの犠牲によって贖(あがな)われた成果だからだ。その「平和」は、絶対に守られなくてはならない。軍隊はダメ。自衛隊もダメ。殺人集団はダメ。戦争のことを研究してはダメ。国際関係を今も支配する原理を学ぶのもダメ。


 戦前戦中と比べてみる。当時、報道と教育のスローガンは「鬼畜英米」だった。「鬼畜」を非難する内容以外には、一切触れてはならなかった。非理性的、非論理的な報道、教育だった。


「鬼畜」とされたものを分析することは許されなかった。敵国の言葉、英語を使わない報道と教育がなされた。「鬼畜」を倒すための合理的な研究をすることも許されなかった。「こういう良い面がある(あった)」という表現を使うと、非難が浴びせられた。


 戦後、戦争はもうコリゴリだというコンセンサスのもとに、平和絶対主義が生まれた。「鬼畜」は、「軍隊」「戦争」に替わった。新しい鬼畜に対して、とにかく怒りと憎しみの感情を育てるのが、一番の眼目になった。またしても、非理性的な教育がなされた。


 別の面からも比べてみる。日清・日露戦争の頃から設置されていた、最高戦争指導機関を「大本営」といった(脚注27)。軍事報道は、大本営からの発表に一元化されていた。「大本営発表」である。


 大東亜戦争(太平洋戦争)後半では、戦況が不利になっても、さも日本軍が勝利しているかのように、大本営は虚偽の情報を報道した。不利なことは知らせずに隠し、有利になる事実は誇張してでも報道した。


 戦後、大本営発表はなくなったか。どうだろう。連合国軍に占領されていた時期、アメリカやGHQに不利なことは一切報道されなかった(プレスコード、脚注28)。日本人はアジアの人々にどれほどの犠牲と苦難を与えて来たことだろうか。それだけが強調して報道された。


 戦後日本が国際社会に復帰した後、どういうわけか、中国、北朝鮮、ソ連については、良いことだけが報道されていた時期があった。他にも、戦後問題の処理に関して、ドイツが常に比べられる。しかし、そのドイツが戦後に憲法改正を何度もしていることなど、一切報道しない。


 いわゆる平和絶対主義の影響下にあるメディアでは、反対の意見を持っている人々の集会について、一切報道しないことがある。何故かと問うと次のように答える。「あれはナショナリストの集まりであるから」と。


 戦後の「多くの犠牲によって贖われた成果」は「平和」である。その成果を守ることは、絶対的な正義である(脚注25)。その正義のためなら、不利になることは隠そう。不利になる事実は隠そう。有利な情報だけを誇張して知らせよう。それは「大本営発表」と同じである。


 現在も「大本営発表」は続いている。メディア自体の姿勢は、戦中も戦後も一貫して変わらない。メディアは世論を形成するために、載せる記事と載せない記事を選んでいる。形成された世論に迎合する。部数を増やせる記事を書く。そんな批判が当たっていなければ良いが。


立場を超えて支配している日本人の行動原理


 戦後に見られる「犠牲を無にできない主義」は、何も「平和絶対主義」のグループによる専売特許ではない。反対の考えをする人々も、全く同じ行動原理に従って振る舞う(脚注29)。


 次のように言う。「東京裁判史観」(脚注30、31)では、日本だけが悪いことをしたことになっている。戦後、日本人は「自虐史観」を後生大事に保ってきた。


 彼らは続ける。はたしてそうだろうか?三百万以上の人々は、何のために命を落としたというのか?大東亜戦争で死んでいった人々は無駄死にしたのか?


 彼らが主張する「貴い犠牲によって贖われた成果」は、次のようなものである。


 長い間、白人の支配下にあって植民地とされ苦しんでいたアジア諸国は、日本の働きもあって解放された。日本は、良いことをした。一部でうまく機能せず、確かに不都合を生じたり、全員を全ての面で満足させることが出来なかったりした。しかし、全体としては悪くなかった。


「平和絶対主義」のグループが拠り所とする、同じ理由を使って、その人々とは百八十度違った主張をする。すなわち、「大東亜戦争の犠牲者」「英霊」に申し訳ない。もう「自虐史観」はやめよう。日本人が成し遂げた働きを評価しよう。誇りを持とう、と。


 もちろん、数多(あまた)の本を洪水の如く出版し続ける彼らも、次のような指摘を受けている。自分たちに都合の悪い事実をあまり書いていない。有利な情報を選んでいる、と(脚注29)。


真のピースメーカーはどこに?


 日本が鎖国の扉を開けて、世界の荒波に漕ぎ出していく過程の中で、真のピースメーカーとなった人はいたのだろうか?今回取り上げた世論と新聞は、真のピースメーカーだったのだろうか?


 日本人に特有な「犠牲を無にできない」主義は、真のピースメーカーとなるのに、役立っているのだろうか?それとも邪魔になっているのだろうか?


 そういった行動原理は、極端から極端に振れる可能性を有している。歴史に照らして、細心の注意を払い、冷静に判断してゆく必要がある。


 人類の歴史の中で、世界中で戦渦が絶えたことは、ほとんどない。人間の歴史は、戦争の歴史と言ってもよい。戦争はいわば日常であり、当たり前のものであった。その日常の中に、日本は、いっとき身を置いた。


 それを恥じるべきなのか、それとも恥としなくて良いのか。断罪すべきなのか、それとも誇りとすべきなのか。これから、我々はどうしたら良いのか。どちらを向いて進んでいけば良いのか。そのいずれかではなく、違った第三の道を歩むべきなのか。我々は問いかけられている。


 日本は、世界の文明国の中で、例外的に平和が長く続いた国だと言える。日本で平和が長く続いたのは、いったい何故なのか?


 次回は、「ピースメーカーのあるべき姿」の第三回である。はたして、日本に真のピースメーカーは存在したか?日本に平和が続いた理由を、歴史の中から検証したい。


(了)




脚注


25)井沢元彦「『言霊の国』解体新書」小学館文庫、1998年、小学館。
27)http://ja.wikipedia.org/wiki/大本営
28)http://ja.wikipedia.org/wiki/プレスコード
29)自虐史観vs自由主義史観、平和絶対主義vs歴史修正主義:これらについては、別項目を立てて詳しく述べる。
30)http://ja.wikipedia.org/wiki/東京裁判
31)http://ja.wikipedia.org/wiki/東京裁判史観




(3005文字)






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iii )評判よろしからず( I )ノーベル平和賞

ノーベル平和賞 2009.7.5


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ノーベル平和賞

 平和を創り出す働きについて取り上げている。第三回目である。今回は、「日本において、平和がどのようにして創り出されたか」を考察する。私たちの国では、大きなことを成し遂げたリーダーたちの評判があまりよろしくない。そこに焦点を当てる。


ワの精神などの影響


 以前より、本ブログで話題にして来たことから始めよう。まずは、日本人を特徴づける原始的宗教観のおさらいである。


 日本人は、コトダマイストだった。戦(いくさ)の準備をすると、戦争を実際に呼び込んでしまう。そういう考え方が主流だった(脚注1)。


 古くから我々は、ケガレを忌み嫌った。特に、死は最大のケガレだった。死という最大のケガレを扱う連中として、武士や刑事関係者を遠ざけていた。軍隊を基本的に「人殺し集団」と考え、差別していた(脚注2)。


 ワを絶対視する感覚が、日本人には大昔から染み付いていた(脚注3、4)。その感覚と、平和が長続きしやすかったことの関連性について、次のように述べた。


 日本では、専制政治は根付かなかった。「複数トップの合議制で決まったことを、象徴的な最高権力者が裁可する」という権力構造だった。権力闘争でも残酷な殺し合いは少なく、最少の犠牲者を出すだけで済んだ。力による簒奪より、後の者に権力を禅譲する形式が好まれた。


 日本人が当たり前と思っている「ワ」「協調性」「話し合い」の精神、われわれはその恩恵に浴している。鎌倉時代の約一五〇年、江戸時代の約二六〇年、第二次世界大戦以後の六十数年と平和が保たれているのも、日本の権力構造の伝統と無縁ではあるまい、と。


「コトダマ」「ケガレ」「ワ」の感覚が、日本人を支配していた。この三つの原始的宗教観が、日本の歴史全体を通してずっと存在していた。武力によって、力のある者がない者を屈服させるという方法論を、我々は基本的に評価していない。


 三つの原始的宗教感覚は、日本史に悪影響を及ぼして来た。そういった面が確かにある。他方で、見方を変えると良い面もある。これらの宗教的感覚が、日本史全体の中に影響を与えて、平和的な権力委譲が進められて来た、とも考えられるからである。


 こんな国は世界を見渡しても珍しい。平和が長続きしたという点に限れば、こんなにも恵まれた、これほど幸せな民族は、世界のどこにもない。


ノーベル平和賞ってビミョー


 日本人はノーベル賞が大好きだ。ほとんど誰も異論を挟まないだろう。ただ、ノーベル平和賞(脚注5)の場合、ちょっと状況が違ってくるようだ。


 アムネスティ(一九七七年)、マザー・テレサ(一九七九年)、地雷禁止国際キャンペーン(一九九七年)、国境なき医師団(一九九九年)、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とアル・ゴア(二〇〇七年)などには、拍手喝采かもしれない。


 しかし、佐藤栄作首相(一九七四年)、エジプト・サダト大統領とイスラエル・ペギン首相(一九七八年)、国連平和維持軍(PKO)(一九八八年)、パレスチナ・アラファト議長とイスラエルのペレス外相およびラビン首相(一九九四年)などの場合はどうか(いずれも当時の肩書き)?


 あからさまに嫌な顔をする人がいたり、心の奥底で抵抗を感じたりするのが普通だ。何故か?






(http://image2.sina.com.cn/dy/w/p/2006-09-20/U397P1T1D11060916F21DT20060920203956.jpg)
(http://www.geocities.jp/asbury_park_2004/Sadato11.jpg)
(http://wapedia.mobi/ja/メナヘム・ベギン)
(http://art1.photozou.jp/pub/207/207207/photo/15643781.jpg)
(http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_11f/hikosaka/417px-Yitzhak_Rabin_(1986)_cropped.jpg)

 それは、日本人の原始的宗教感覚で説明できる。戦争について取り扱うだけで、戦争そのものを呼び込んでしまうというコトダマ思想。戦争は絶対悪、軍隊は人殺し集団という差別やケガレの感覚。ワ、平和は、絶対善であるという精神。この三つである。


 特に、日本人は「平和には崇高な価値があり、清らかなものである」と考える。それに穢れたものが触れる、関与することに、日本人には心理的な拒否感を覚える。


 結果として、基本的に清らかでない(と多くの人が考える)政治家、お互いに殺し合っていた国どうしの指導者がノーベル平和賞を受賞すると、えぇ?と思う。


 軍隊には、もともと平和の名前を冠する資格がない(と多数の日本人が考える)。いかに国連であっても、である。そこで、国連平和維持軍(PKO)が、ノーベル平和賞をもらうことに抵抗を覚える。所詮、ノーベル平和賞ってこんなもの、という低い評価につながる。


 井沢元彦氏は、次のように、山本七平氏の言葉を紹介している。「ノーベル平和賞と思うからいけないのであって、ノーベル雑巾賞だと思えばいいんだ」(脚注6)。


「平和」とは、実は「雑巾がけ」だと考えるべきだ。「汚れた手」によって達成されるもの、それが「平和」だ。その現実を受け入れるべきだ。「手を汚した」者であっても、「平和」を作り出す資格は十分にあるんだ。そういう、考え方の大きな転換が必要だということである。


「平和」というものは、「汚れた手」によって達成されることもある。そういうことを、日本人は認めたくない。ノーベル平和賞受賞者に対する評価が、異様に低くなる。山本七平氏は、それは間違いだと言うのである。(つづく)




脚注


1)「リアリストになりきれない日本人」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
2)「死、ケガレ、差別」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/3/22_ⅶ)_ケガレと差別.html
3)「絶対視されるワ(1)」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/5/24_ⅷ)_絶対視されるワ.html
4)「絶対視されるワ(2)」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/6/7_ⅸ)_絶対視されるワ(2).html
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/ノーベル平和賞
6)井沢元彦「穢れと茶碗」1994年、祥伝社ノンブック、祥伝社。




(2499文字)






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iii )評判よろしからず( II )源頼朝と足利義満

源頼朝と足利義満 2009.7.6


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源頼朝と足利義満

評価されない源頼朝


 日本では、政治家、指導者たちは、基本的に評価されない。平和の礎(いしずえ)を築く、傑出したリーダーであっても、「汚れた、汚い手」を使ったと考えられるなら、そのとたんに評価が下がり、人気がなくなる。


 最初の武家政権を作ったのは源頼朝である(脚注7、図6)。紛れもなく、安定した秩序ある社会を作るのに貢献した人物である。しかし、その功績はあまり評価されていない。


(http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/yoshitune/yoritomo.jpg)

 頼朝は、平家討伐に抜群の戦功があった弟義経(脚注8)を評価しなかった。義経は、主に西国武士らを率いて戦い、東国武士の間に不満が渦巻いた。義経の補佐を務めた梶原景時(かじわらかげとき)らの弾劾、義経の専横を訴える御家人たちの意見を容れた。


 義経は、朝廷から検非違使少尉(けびいししょうい)、判官(はんがん)に任官された。この義経の行動を、鎌倉側の許可を得ずに行なった軽挙として、頼朝は咎めた。鎌倉に凱旋した義経と会おうともせず、赦しを乞う書状も無視して義経を鎌倉から追放した。


 終(しま)いには、わざと義経を自分に叛(そむ)かせるようにして、配下の御家人には義経討伐の命を下す。義経に加担した京都の公家たちを一掃し、京の朝廷における人事を鎌倉色に一新する。誰も義経をかくまうことができないよう、全国に地頭などをおくことを朝廷に認めさせた。


 当時、まだ朝廷の版図に十分は組み入れられていなかった奥州藤原氏(脚注9)のもとに、義経は逃げ込んだ。義経は、小さい頃にも、藤原氏に匿(かくま)ってもらったことがあった。


 藤原氏その義経を差し出すように、頼朝は藤原氏に要求する。その要求を拒んでいた藤原秀衡(ひでひら)が亡くなり、藤原泰衡(やすひら)が後を継ぐ。自らの安泰を願った彼は、義経を裏切り自刃に追い込んでしまう。


 後に頼朝は、自分に恭順の意を表したはずの藤原氏に対し、長らく義経を匿(かくま)っていたことを責め、戦争を仕掛けた。百年続けて栄華を誇っていた藤原氏を、ここに滅ぼした。奥州も自分の足下に屈服させた。


 こうした頼朝の一連のやり方は、日本人には歓迎されない。頼朝と義経のどちらに人気があるか?政治家として、リーダーとして優れていたのは頼朝の方である。それは認めても、判官贔屓(びいき)の言葉通り、多くの人々は義経に一票を投じる。


 平安時代とは名ばかりで、治安を守るまともな仕組みを平安京政権は作れなかった。頼朝は、その時代を終わらせ、平和を到来させた。全国に守護・地頭がおかれ、幕府御家人による治安確保のシステムが作られた。しかし、その功績はあまり評価されない。


評価されない足利義満


 室町幕府の三代将軍である足利義満(脚注10、図7)も、人気がない。彼の功績は、南北朝の対立(脚注11)という半世紀にわたる戦乱に終止符を打ったことである。しかし、義満の功績が評価されることはまずない。


(http://ameblo.jp/syouzouga/entry-10415271901.html)

 鎌倉時代末期、天皇家は皇位継承権を巡り、大覚寺統と持明院統に分裂した(一二四六年)。幕府の仲介により、両統が交互に皇位に就くことが取り決められた。大覚寺統の後醍醐天皇が呼びかけ、足利尊氏(当時高氏、脚注12)や新田義貞らが鎌倉幕府を滅ぼす(一三三三年)。


 しかし、武士の間では、恩賞を巡る不満が渦巻き、政局は混乱。足利尊氏が持明院統側につくとともに、多くの武士の支持を受けて、後醍醐天皇と対立。新田義貞や楠木正成らの軍を打ち破って、比叡山に追いつめた。


 足利尊氏は、三種の神器(脚注13)を後醍醐天皇から接収し、持明院統の光明天皇を京都に擁立した(北朝)。尊氏は、室町幕府を開く(一三三六年)。ここで、尊氏は非情に徹しきれず、反対派の後醍醐天皇を滅ぼさなかった。島流しにすらしなかった。


 後醍醐天皇は奈良の吉野に逃亡し、「渡した三種の神器は偽物」と主張(南朝)。以降、天皇家が北と南に分裂する事態となった。南北朝時代という抗争が六十年間も続いた(図8a~c)。

(http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_map/mapcase/map_ns.html)

 南朝・北朝の争いは、まさにユダヤとパレスチナの紛争のようなものだった。当時、和解はとうてい不可能と考えられていた。多くの血が流された。


 そんな時、室町幕府三代将軍義満は、南と北に分かれて争っていた天皇家を一つにした(南北朝合一、一三九二年)。半世紀にわたる戦乱に終止符を打った。義満は、南北朝をどうやって和解させたか。


 実は、汚い手を使った。南朝側をだましてペテンにかけた。南朝の皇族も天皇にするという約束をして、南朝側に三種の神器を提出させた。しかし、その後、義満はどうしたか。何食わぬ顔で、持明院統側をずっと皇位に就け続けた。結局、南朝側との約束を反古にしたのだった。


 こうした汚い手を使った義満には、当然のことながら人気がない。かくして、約一〇〇年間つづく平和を創り出した実績自体は、その手腕も含めて評価されないことになる。(つづく)




脚注


7)http://ja.wikipedia.org/wiki/源頼朝
8)http://ja.wikipedia.org/wiki/源義経
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義満
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/南北朝時代_(日本)
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/足利尊氏
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/三種の神器




(2230文字)






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iii )評判よろしからず( III )卑怯な徳川家康

卑怯な徳川家康 2009.7.7


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卑怯な徳川家康

評価されない徳川家康


 徳川家康は、いわゆる徳川三〇〇年の太平を実現した(脚注14、図9)。しかし、政権交代過渡期において、家康はその政治的手腕をいかんなく発揮した。巧みに権力を豊臣方から奪い、最後には豊臣家を滅亡させた。その巧妙さや手口などの故に、家康には信長や秀吉ほどの人気がない。


(http://www.life-design.co.jp/05_corporation/staffblog/徳川.jpg)

 豊臣秀吉(脚注15)が病死した時(一五九八年)、家康は五大老の一人であった。秀吉の遺言は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という内容だった。


 家康の専横が始まった。家康が行なったのは、1)秀吉によって禁止されていた大名同士の婚儀を復活させ味方を増やす、2)大名屋敷への訪問による多数派工作、3)諸大名への石高の加増、4)家康暗殺計画を企んだとして旧秀吉勢力を切り崩す、などである。


 反家康勢力を、関ヶ原の戦いで打ち破り、石田三成をはじめ、西軍に与した諸大名を、ことごとく処刑、改易、減封に処した(一六〇〇年)。戦後処理を済ませた後、家康は京都二条城にて征夷大将軍の宣下を受け、正式に江戸幕府が開かれた(一六〇三年)。


 秀吉の死からわずか四年半後、家康は武家の棟梁としての地位を手に入れた。豊臣家を上回る地位を確保した。あとは、脅威となる豊臣家を滅亡に追い込むだけとなった。家康は、一六一四年に完全に屈服させる計画を実行に移す。


 どんな手を使ったか?それは、ヤクザのイチャモンまがいの難くせをつけたのだった。


 秀吉は、奈良の東大寺に倣(なら)って、京都に方向寺(ほうこうじ)を建立(こんりゅう)したが、完成一年後に地震で倒壊した。それを再建し、豊臣家は大仏の開眼供養を行なおうとしていた。


 ところが、家康は、梵鐘(ぼんしょう)に刻まれている文字を理由に、その開眼供養を差し止めたのだった。鐘に刻まれていた銘文には、「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣」というくだりがあった(図10)。


(http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/b94fd616b4d45a81a66b0059ec4dcf3b)

 その部分を、「家康という名を分断して呪っている」「豊臣氏を君として楽しむと繁栄を願っている」「家康を射ることを言っている」として、徳川方は言いがかりをつけた(諱<いみな>:脚注16、脚注17)。


 豊臣方は弁明の為の使いを送ったが、家康は面会すら拒否。秀頼の大阪城退去などという妥協案も、豊臣方が拒否。家康は、豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣方に宣戦布告する。


 大阪冬の陣(一六一四年十一月)では、大砲の弾を撃ち込み、淀君らをビビらせて和睦に誘い、外堀を埋めることに成功。家康は、和睦案になかった内堀まで埋めて、大阪城を本丸だけの裸城にした。


 豊臣方が、埋め立てられた内堀を掘り返そうとしたのを、「戦準備をしている」と非難し、再び大阪城を大軍で包囲(大阪夏の陣:一六一五年五月)。城外で戦うことを余儀なくされた大阪方を打ち破り、ついに秀頼、淀君、側近らを自害に追いやった。


 家康は、元号を元和と改める。ここに、応仁の乱以来、約一五〇年間続いた戦国時代がようやく終焉した。そう言って元和偃武(げんなえんぶ)と呼び、自賛した(脚注18)。


 家康は、秀頼を殺し豊臣家を滅ぼした。結局、秀吉との約束を反古にしたのである。平和を達成するため、「汚い手段」を使ったのであった。しかし、それによって徳川三〇〇年の平和が実現した。それが、まぎれもない歴史的事実である。


真のピースメーカーとは


 司馬遼太郎氏は次のように述べる。


「平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、戦争のない状態を指すだけのことで、天国や浄土のような高度の次元ではない。あくまでも人間に属する。


 平和を維持するためには、人脂のべとつくような手練手管がいる。平和維持には、しばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利を追うような懸命の奔走もいる。さらには複雑な方法や計算を積み重ねるために、奸悪の評判までとりかねないものである。


 例として、徳川家康の豊臣家処分を思えばいい。家康は三〇〇年の太平を開いたが、家康は信長や秀吉に比べて人気が薄い。平和とはそういうものである」(脚注19)


 人間の歴史は、戦争の歴史と言っても良い。人類の歴史の中で、世界中で戦渦が絶えたということは、ほとんどない。日本以外では、戦争というのは、言わば日常のことだった。当たり前のものだった。日本は、世界の文明国の中では例外的に平和が続いた国である。


 たしかに戦争というのは残虐なものであり、非人間性に満ちたものである。平和であることは貴いことである。しかし、平和を創り出す働きは、そんなに簡単ではない。困難や残酷さ抜きに実現できないこともある。理想的には行かない。


 真のピースメーカーとはどのような人か?日本人の考え方には、平和に対する大きな期待感、先入観、というより理想と潔癖感がどうしても混じってしまう。それとは全く反対の現実、ありのままの現実を、我々は受け入れる必要があるのかもしれない。


(了)




脚注


14)http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康
15)http://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
16)諱:つい最近まで、日本では他人が自分の名を使うことを、自分に対する無礼と考えていた。コトダマ思想の影響で、名を口に出すと、不吉なことがその人に取り憑いてしまうと考えられていた(コトアゲ)。
 諱(いみな)と言って、本当の名を使うことができるのは、両親か主君だけであるとされていた。姓プラス官職、あるいは、姓プラス通名などで呼ぶことを礼儀としていた。
 その名残は、現在も家庭の中で見られる。父親や母親を名で呼ばない。両親もお互いに名を言わず、お母さん、お父さんと呼ぶ。祖父や祖母も、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶ。兄や姉を名で呼ばずに、お兄ちゃん、お姉ちゃんと呼ぶ、など。
 敵は、あえて諱を使って、呪うことがあった。豊臣方の僧侶が諱を鐘銘に使ったのは、軽率な行為だったとも言われている。
17)右僕射:右僕射は右大臣を意味する唐語(からことば)。
18)http://ja.wikipedia.org/wiki/元和偃武
19)司馬遼太郎「風塵抄」1991年、中央公論社。




(2521文字)






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iv )残酷な平和( I )信長は残虐だったか

信長の残虐性 2009.7.12


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信長は残虐だったか

 平和を創り出す働きについての第四回目、最終回である。日本は、世界の先進国の中で、例外的に平和が長く続いた国だと言える。いったい何故か?はたして、日本に真のピースメーカーは存在したのか?


理想化される平和


 前回もまとめた通り、日本人は、コトダマイストだった。戦(いくさ)の準備をすると、戦争を実際に呼び込んでしまう。そういう考え方が主流だった(脚注1)。


 我々は、古くからケガレを忌み嫌った。特に、死という最大のケガレを扱う連中として、武士たちを遠ざけていた。軍隊を「人殺し集団」と差別していた(脚注2)。


 日本人には、ワを絶対視する感覚が染み付いていた(脚注3、4)。その感覚の故か、平和が長続きしやすかった。「ワ」「協調性」「話し合い」の精神の恩恵に、日本人はあずかっている。平和が保たれやすかったことと「ワ」の精神とは、互いに無関係ではあるまい。


「コトダマ」「ケガレ」「ワ」の感覚が、日本人を支配していた。この三つの原始的宗教観が、日本の歴史全体を通してずっと存在していた。日本史全体の中に影響を与えて、平和的な権力委譲が進められ続けた。


 反面、日本人は「平和には崇高な価値があり、清らかなものである」と考える。それに穢れたものが触れる、関与することに、日本人には心理的な拒否感を覚える。


 我々日本人は、あまりにも「平和」に理想を重ねすぎた。少しでも汚れた手段を使っていると、それだけで歴史上の人物を評価しなくなる。日本のリーダーたちは、概ね不人気である。以上が、前回の骨子だった。


 今回は、織田信長に焦点をあてる。考えてみたいのは次の三つである。(1)彼の功罪、(2)その偉業によって味わっている日本人であることの幸福、(3)歴史の逆説、について。


信長の残虐性


 織田信長(脚注5)には人気がある。天下統一の礎(いしずえ)を築き、志半(こころざしなか)ばで非業の死を遂げる。「天下布武」(てんかふぶ)、天(あめ)の下(した)武(ぶ)を布(し)く、という朱印に象徴されるように、武家による日本の統一を試みた。


「天下布武」というのは、「武家の政権を以て、天下を支配する」という意味である。日本人は、基本的に力で相手を屈服させるというやり方を好まないが、その中にあっても、信長には人気が集まる。


 しかし、他方で、多くの人々は「信長は残酷でワンマンだった」と主張する。多くの事例をひいて、信長の残虐ぶりを指摘する(脚注5)。


 特に言われているのが、「信長は非常に残虐な宗教弾圧をした」との指摘である。比叡山延暦寺を焼き討ちにし、みな殺しにした。一向一揆(本願寺)を弾圧し、最終的に屈服させた。それらを引き合いに出して、信長の残酷さ、独裁ぶりを主張する。


 確かに、信長は延暦寺を攻略し、女子どもまで殺した。本願寺派と長年戦って、沢山の血を流した。戦いに戦いを重ね、力だけで相手をねじ伏せ、有無を言わせぬ形で天下統一を進めて行ったように見える。


 しかし、それは一面にしか焦点を当てない、非常に偏った見方である。日本人が歴史に抱いている誤解、無理解が元になっている。真実は次の通りだ。(つづく)




脚注


1)「リアリストになりきれない日本人」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/2/28_ⅵ)リアリストになりきれない日本人.html
2)「死、ケガレ、差別」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/3/22_ⅶ)_ケガレと差別.html
3)「絶対視されるワ(1)」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/5/24_ⅷ)_絶対視されるワ.html
4)「絶対視されるワ(2)」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/6/7_ⅸ)_絶対視されるワ(2).html
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長




(1740文字)






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iv )残酷な平和( II )天才的だった織田信長

天才織田信長 2009.7.13


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天才的だった織田信長

信長は誰の味方だったか?


 信長は、単なる戦国大名の一人ではなかった。流通革命、市場革命の端緒を開いた。「楽市・楽座」(脚注6)を領内に設け、乱立する「関所」を撤廃し、当時としては稀に見る大都会である城下町を作った。


「楽市・楽座」とは何か。モノを売りたい商人や農民が、高いテナント料を支払わずとも、市(いち)に店を自由に出せる制度が「楽市」である。パテント料を払わなくても、価格カルテルに加わらずとも、自由にモノを作ったり売ったりできるシステムを「楽座」と言った。


「関所」の何が問題だったのか。室町幕府から戦国時代は、中央政府が機能していなかった。そのため、少しでも領地を持っている領主は、街道や河川および海に武装兵を配備して、通行料を徴収していた。勝手に、作りたい放題に「関所」を作り、通行税(関銭)を通行人やモノに課した。


 当然のことながら、パテント料、テナント料、通行税は商品の価格に上乗せされる。消費者は、物価高に苦しめられていた。


 専業の武士団を配下に置いて、彼らと家族を住まわせた城下町がなぜ画期的か?信長以前、定期的に立つ「市」に消費者が集まった。四日市、五日市などの地名で呼ばれる町は、その名残をとどめている。また、寺社がある門前町が圧倒的に有利だった。


 信長は、専業の武士団を作った。農業をやらない彼らとその家族を、城の周りに住まわせた。人口が数万人という、京都なみの大消費地を作った。ポルトガルの宣教師フロイスは、信長の城下町岐阜のありさまを「まるでバビロンのような賑わい」と表現した(脚注7)。


 大消費地が作られ、四日おきどころでなく、毎日「市」が開かれた。沢山のモノが運び込まれ、沢山売れた。競争も激しくなった。モノの価格を引き下げる効果があった。


 信長支配下で、物価が下がり庶民の暮らしは格段に良くなった。治安は安定するし、生活は楽になるし、庶民は、より自由でより豊かな生活を享受するようになった。領民は圧倒的に信長を支持し、その改革についていった。


 比叡山延暦寺などは、その過程で信長の前に立ちはだかった抵抗勢力だった(脚注8)。彼ら寺社勢力は、灯明用の油などの工業製品製造許認可権を持っていた。市場(いちば)で商いする人々からショバ代を要求し、価格カルテルを結ばせていた。


 商工に携わる人々から、パテント料やテナント料を徴集していたので、寺社は寝ていても儲かった。配下に土倉(どそう、質屋)や酒屋という金融業者を従え、集めた金をさらに有効活用していた。


 寺社は、自分たちにとって非常に都合が良いシステムを構築していた。まさに、日本の経済を牛耳っていた。その犠牲になっていたのが一般庶民である。物価高に苦しみ、少し離れたところに行くにも、沢山の関所でそれぞれ通行税を徴収された。


「楽市・楽座」「関所の撤廃」「人工都市の建設」など、信長は革命的な政策を掲げ、次々に実行していった。被害を被ったのは寺社である。彼らにとって、信長は、自分たちの既得権益システムを根底から覆す存在になった。信長は「天敵」「仏敵(ぶってき)」となった。


 そもそも、宗教団体は平和勢力だったという日本人の「常識」は、神話に過ぎない。平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代を通じて、仏教の諸宗派のうち主なものは、武装勢力に育っていった。


 国による治安維持のシステムが消滅してしまったために、平安時代には武士が起こった(脚注8、9)。それと同じように僧侶も武装していた。武装して、自分たちの安全と既得権益は、自分たちで武力を使ってでも守る、というスタンスをとった。


 その事実は、武蔵坊弁慶のいでたちで想像できる。有力な宗派は多くの僧兵を抱えていた。往々にして、政治に介入し自分たちの要求を武力で迫った(強訴と呼ばれた)。


 良心的な商人や職人が、安くて良いものを庶民に届けようとしても、寺社おかかえの僧兵や武士など武装勢力がやってきて、コテンパンにやっつけられるか殺されるのがオチだった。武力をもって対抗しない限り、寺社の既得権益はとうてい壊せなかった。


 寺社勢力は、当時の経済を牛耳る武装集団だった。民の生活を苦しめる元凶だった。その事実を棚に上げ、さも自分たちが平和な集団であり、無辜(むこ)の宗教勢力であったかを宣伝する。信長は、無抵抗の仏教徒たちを皆殺しにした。残酷無比な鬼だ、と非難する。


 事実は全く違っている。信長は誰の味方だったか?寺社か一般庶民か?戦国大名の中で、寺社勢力と本気で対決し、彼らに有利なシステムを破壊しようとした者は、信長のほか誰もいない。


宗教戦争の終結


 信長は、血で血を洗う宗教戦争から日本を救った。世界に先駆けて、今から四〇〇年も前に「政教分離」を完成した(脚注10)。非常に荒っぽいやり方ではあった。残酷だった。しかし、僧侶の武装解除に道筋をつけ、宗教戦争を終わらせた。


 当時、法華宗(日蓮宗)と浄土宗、浄土真宗との間には、宗教戦争とも呼べる激しい対立があった。そもそも、双方の教え自体が相容れないもので、ソリが合わなかった。


 浄土宗、浄土真宗側は、悪人正機説に代表されるように、誰でも念仏を唱えるだけで浄土に行けるとした。法華宗は、日本では珍しく排他的な教えを持っていて、他の宗派を否定した。特に、本願寺派を、いいかげんな教えを広める念仏宗、邪教と言って攻撃した。


 お互いに武器を持っているため、敵方の本拠地を焼き討ちにしたり(京都山科<やましな>本願寺の焼討ち:一五三二年、脚注11、12)、女はおろか子どもまでも皆殺しにしたりしていた(天文<てんぶん>法華の乱である:一五三六年、脚注13)。


 信長は「武器をすてろ」「何かあったらオレが守る」という宗教政策を打ち出した(脚注8)。当時まだ新興宗教だった一向宗(浄土真宗、本願寺)は、比叡山延暦寺に代表されるような既得権益は持っていなかったが、沢山の宗徒がいて寄進をし、宗門を立てるためには命を投げ打った。


 彼らは、信長の宗教政策を受け入れず、原理主義に固執した。まず戦いを仕掛けたのは本願寺側だった。信長との間に停戦協定を結んでも、必ず本願寺側が破った。信長は、実の弟を始め沢山の有力な武将を失ったが、最終的に十一年にわたる本願寺派との戦いに勝利した。


 本願寺側が原理主義を捨てたとき、信長は「総赦免」「往来自由」と書状に記し、これまでのことをすべて許し、信仰の自由を保証した。信長は、武器をもっていない無辜の仏教徒を弾圧したのではない。武力で自分の考えを貫こうとする原理主義に終止符を打たせた。それだけである。


 寺社の完全な武装解除は、家康の時代の寺院諸法度(脚注14)まで待たなくてはならない。しかし、信長がした本願寺との戦いの本質は、「寺社は政治に口を出さない」という政教分離の確立と、「他人を害してでも自分の教えを貫こう」とする原理主義との訣別にあった。(つづく)




脚注


6)http://ja.wikipedia.org/wiki/楽市楽座
7)川崎桃太「フロイスの見た戦国日本」2003年、中央公論新社。
8)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
9)井沢元彦「言霊」1992年、祥伝社ノンブック、祥伝社。
10)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆
12)http://ja.wikipedia.org/wiki/山科本願寺
13)http://ja.wikipedia.org/wiki/天文法華の乱
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/寺院諸法度




(3134文字)






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iv )残酷な平和( III )平和を守る分業

平和を守る分業 2009.7.14


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ノーベル平和賞

 平和の逆説について考えている。声高に言い募られている信長の残虐性の裏に何があったのか?守旧勢力はどういう力を持っていて、信長が打ち出した革命的な政策とどうぶつかったのか。そして当時の宗教戦争をどのように終結させたのか。


 それら前稿まででなぞったことを踏まえ、本稿と次稿では、信長によってもたらされた「平和」について振り返る。日本人が享受している「幸い」と「誇り」について思いを馳せる。


政教分離の偉大な功績


 今の(日本の)仏教徒のある人々は、次のように言ってはばからない。「キリスト教もイスラム教も、多くの戦争を行ない、殺し合いをした。今もしている。他方、仏教だけは一度も戦争を起こしたことがない」と。


 しかし、彼らは歴史の真実を知らない。自分の無知をさらけ出している。その考えは、全くの誤解から来ているものである。


 信長が力ずくで仏教徒から武器を奪った。そのために仏教徒同士の宗教戦争が終わり、平和が確立した。織田信長の功績により、宗教のために殺し合うことから無縁になった。その日本に住んでいるため、我々は恩恵を受けているに過ぎない。


 一般的に言って、日本人は宗教に偏見を持っている。宗教をバカにし、次のように考える。愚かで、弱く、判断力のないヤツらが信じるものだ、と。多くの人々にとっては、世界的な宗教もマインドコントロールのカルト集団も、すべて一緒くたである。


 世界のニュースでは、毎日のように報道されている。アラブとイスラエルが対立し殺し合っている。キリスト教徒とイスラム教徒が争っている。それを聞くと、たいていの日本人は次のように言う。「バカだなコイツら。だから宗教は怖いんだ」と。


 こうした考えは、日本人独特のものである。織田信長が今から四〇〇年以上前に成し遂げた「政教分離」という功績の恩恵を受けていることを知らない(脚注8、10、15)。多くの日本人は、信長の功績によって幸福がもたらされたことを、全く感謝していない。


 あたかも、自然に備わっている当たり前のことのように思っている。自分の力で勝ち取ったものであるかのように誤解している。自分を誇っている。だからこそ、近代日本では、一時期「政教分離」をやめてしまった。祭政一致の国家神道を選び取った。


 国家神道は宗教ではないと、日本政府の考えである天皇崇拝を押しつけた。他人を害してまで、政府が特定の考えを強要した。宗教者を迫害した。国民も心から天皇崇拝に賛同し、反対する人々を非国民と呼んで弾圧した。亡国の憂き目にあった。つい六十年ほど前のことである(脚注15)。


 宗教が悪いのではない。「政教分離」を貫かなくてはならないのだ。他の宗教者を害してまで、自分の考えを押しつける人々(集団)がいることが問題である。そういう勢力の「武装解除」が必要だ。カルトでないかぎり、宗教者は尊重されるべきである。


 要するに、宗教をバカにする人々は、歴史から真実を学んでいない。歪んだ世界観を持っている。自分の愚かさに気付かない。自分の考えを押しつけて宗教者を迫害する人々と、本質的に何ら変わりがない(脚注15)。


身分制度の是非


 信長より前の時代、専業の武士はほとんどいなかった。武士は、もともと武装農場主だった。領内の農民とともに、戦に出るのが当たり前だった。大軍勢どうしの衝突となると、農閑期が選ばれた。農繁期に戦をすることは、避けられた(脚注8)。


 信長以前は、自分の安全は自分で守るのが当たり前の世界だった。寺社も商人も職人も農民も武器を持っていた。彼らは、すぐに武器を持って立ち上がれた。兵隊と一般人の境が曖昧だった。身分が固定されておらず、農民が鍛錬、活躍し、出世していくことも往々にしてあった。


 専業の武士団を育成し、農民抜きで戦い始めたのは信長が最初である。桶狭間の戦いに代表されるように、半農半戦の足軽が大半を占める敵の大軍勢は、少数精鋭の信長軍によって打ち破られた。


 身分が固定しはじめた。信長以降、治安を維持する側と、その恩恵にあずかる側の分離に道筋がついた。治安を守る専門家と、維持された平和と安全を享受する人々の分業が進んだ。徴兵制から、志願制あるいは傭兵制に変わったと言ってもよいほどである。


 固定的な身分制度自体を否定的に見る人々は多い。しかし、武装している側と非武装の一般人側の境が明確であるため、非武装の人々の間におけるトラブルが、重大事件化しにくくなるというメリットが生まれた。


 政教分離が実現し、寺社の武装解除が進められ、宗教戦争が日本国内から消滅するようになったことに加え、商人、職人、農民の武装解除も進められて、暴力以外による問題解決に集中するようになった。その点で、日本は、信長の時代に大きなターニングポイントを経験した。


 織田信長の事業は、豊臣秀吉と徳川家康によって引き継がれ、三〇〇年にわたる平和を日本にもたらした。


 そればかりでなく、明治維新という近代市民革命、明治維新後の発展、第二次世界大戦の惨禍をくぐり抜けた後の復興などの過程にあっても、国が一体となって大きな分裂をすることなくやって来られた基となっている。(つづく)




脚注


8)井沢元彦「日本史集中講義」祥伝社黄金文庫、2007年、祥伝社。
10)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。
15)政教分離:別項目を立てあらためて取り上げる予定。




(2202文字)






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iv )残酷な平和( IV )日本人の幸いと誇り

日本人の幸せ 2009.7.15


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日本人の幸いと誇り

日本人の幸いと誇り


 主にヨーロッパで、人々は血を流して戦い、普遍的価値のある「自由、平等、基本的人権」を勝ち取った。そう言われている。それを、欧米人は誇っている。


 日本人は、何もしなかった。欧米人ならずとも、我々自身、そのように考えている。しかし、本当にそうだろうか?日本の先人たちは、ただ殺し合いをしていただけなのか?


 上述したように、特に織田信長は、世界のどの国でもまだ達成していない政教分離を、四〇〇年以上も前に達成した。後を継いだ豊臣秀吉は刀狩(脚注16)を行ない、徳川家康は寺院諸法度(脚注14)などを次々と制定し、農民や寺社が武器を持って殺し合いをしない社会を作った。


 アメリカ合衆国では、武器を所持する一般の人々が沢山いる。学校などでの銃乱射事件が続こうとも、武器所有を制限する方向には行かない。自分のことは自分で守るというカウボーイ精神、自立精神が脈々と続いているためだという。


 日本人で、一般の人が武器を所有することはまずない。許可を受けて所有することは出来るが、アメリカほど簡単ではない。アンダーグラウンドの人々に対して、銃刀法違反が問われることはある。アメリカのような銃乱射事件はおおむね発生しない。


 そういった日米の相違を比べて、日本であれ、海外であれ、人々は次のように言う。「日本で刀狩が行なわれたのは、日本人の自立精神が欠如していたためである。日本人が自己主張をせず、暴動を起こさないのは、日本人に自立精神が欠如している証拠である」と。


 そうだろうか?事実は全く違う。日本では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人により、治安維持にあたる人とその恩恵にあずかる人の分業が完結した。政教分離だけでなく、各階層の人々の間で、武力を使う人々との分業が達成された。


 江戸時代には、草の根民主主義の発達が見られた。がんじがらめの規制社会ではあっても、その制限の範囲内でなら、日本の各階層の人々には自治があり、各人の自由が味わえた(脚注3、17、18、19)。


 暴力に訴える必要がなかった。暴力に訴えるよりも、もっと洗練され、成熟した解決方法を、日本人は身をもって体得したのである。


 世界では、イスラエルとアラブの宗教対立、異なる宗教を持った国どうしの激しい対立などが続いている。一般の人々の間に、沢山の武器が行き渡っている国・地域は多い。兵士と民間人の境がハッキリしない。アフガニスタンでもイラクでも、治安維持がなかなか進まない。


 アメリカ合衆国は、日本での占領政策を自画自賛している。アフガニスタンやイラクでも、日本と同じように行くはずだと考える。が、実際はそれほどうまくは行っていない。


 何故か?なぜ日本でうまく機能したのか?アメリカの占領政策のためか?日本人が自立精神を持っていないためか?否、そのどちらでもない。


 日本人は自国の歴史から、暴力によらない解決法の素晴らしさを、すでに身をもって学んでいた。その原点に、敗戦をきっかけにして立ち戻った。真の理由はそこにある。


 日本では、安土桃山時代における壮絶な努力により、平和で安定した社会が実現した。平和と安定と洗練された解決方法を、血を流して勝ち取った。我々は、こうした「平和への努力」の恩恵にあずかっている。日本人は幸せである。信長らの功績は、胸を張って誇って良い。


歴史の逆説


 本稿で見たように、織田信長は、世界のどこでも達成されていなかった宗教勢力の非武装化と政教分離を、四〇〇年も前に達成した。治安を維持する側とその恩恵にあずかる側の分離に道筋をつけた。楽市・楽座を広めて経済の大改革を行ない、庶民の生活を自由で豊かにした。


 歴史には逆説がある。何と言うことだろう。残虐非道と称された織田信長こそ、真のピースメーカーかもしれないとは。


 真のピースメーカーとはどのような人か?その疑問に対して、我々は、どのように答えて行ったら良いのだろう。


(了)




脚注


3)「絶対視されるワ(1)」、http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/5/24_ⅷ)_絶対視されるワ.html
14)http://ja.wikipedia.org/wiki/寺院諸法度
16)http://ja.wikipedia.org/wiki/刀狩
17)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/1/24_ⅳ)欧米人からみた日本.html
18)松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」(田中敏訳)、2005年、文藝春秋。
19)別項目を立てて詳しく述べる予定。




(1939文字)






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v )歴史の逆説( I )信長による大掃除

信長による大掃除 2009.7.12


by OWL




信長による大掃除

 比叡山の焼討ちは、とても酷(ひど)いものだった。皆殺しだった。『信長公記(しんちょうこうき)』(脚注1)によると、次の通りである。


「霊仏、霊社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時にうんかのごとく焼き払い、灰燼の地となるこそ哀れなれ」「数千の屍算を乱し」「目も当てられぬ有様なり」と書かれていたほどである。徹底していた。


 一向宗徒に対しても、比叡山に負けず劣らずであっただろう。そう信じられている。同じ『信長公記』には、「男女二万ばかり、幾重も柵をつけとりこめおき」「四方より火をつけ焼き殺し」「生捕りと誅せられたる分、合わせて三、四万にもおよぶべく」とある。


 これらを根拠として、人々は織田信長の残虐性を言い募る。正しく説得力があるように思える。しかし、実は別の事実を見落としている。意識的にか無意識のうちに。


 当時の比叡山や本願寺派(一向宗)は、先鋭な戦闘集団だった。武力で自分たちの権益を守り、それを脅かす信長を「仏敵」として殲滅しようと戦いを仕掛けた。前稿で述べた通りである(脚注2)。「神仏に楯突くとは!」と、力で信長をねじ伏せようとした。


 非常に残念なことだが、当時の戦闘においては、敵方を女子どもも含めて殲滅することは普通だった。信長でなくてもやっていた(脚注3)。信長の残虐性を語る時、もし意図的にこれらの事実を一緒に述べないとしたならば、それは一方的で不公平な言い分である。


 残虐性と言っても、中国における実体を見ると、信長ら日本人リーダーの残虐性は比較にならないほどスケールが小さい(脚注4、5)。


 とはいえ、織田信長の残虐性を十分に認めた上で、塩野七生氏は次のように述べる(脚注6)。


「しかし、このときをもって、日本人は宗教に免疫になったのである。いや、とかく守備範囲の外にまで口を出したがるたぐいの宗教には、免疫になったと言うべきかもしれない。


 キリスト教徒だって、信長の存命中はおとなしかったから仲良くしてもらえたので、他の布教国で行っていたようなことを日本でもやりはじめたら、とたんに信長から『焼打ち』にされていたであろう。


 とくに、日本への布教の主力は、イエズス会という、ヨーロッパでさえ追放せざるをえなかった国があったほどの、『悪名』高き戦闘集団であった」と。


 また、次のように続ける。「不思議にも、非宗教的とされている日本が、他のどの宗教的なる国よりも、イエス・キリストの次の言葉を実践しているのである。


『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』


 これも、四百年の昔に、大掃除をしてくれた信長のおかげである。あれで、殺しまくられたほうも頭を冷やし、殺しまくったほうも、怖れから免疫になれたのだ。そして、その後ともかくも四百年の間、無意識にしろ、この傾向は固まる一方だったのである」と。(つづく)




脚注


1)http://ja.wikipedia.org/wiki/信長公記
2)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/7/12_xiii)ピースメーカーのあるべき姿(4)—— 残酷な平和、歴史の逆説 ——.html
3)http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長
4)石 平「中国大虐殺史—なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年、ビジネス社。
5)典型的な例を挙げよう。紀元前二〇〇年代の中国のことである。秦を含む七カ国が並立していた戦国時代。秦の始皇帝の曾祖父、秦の昭王は、中国全土の半分を武力で奪取し、統一の基礎を作った。その時の相手の軍隊に対する大量殺戮は、実にヒドいものだった。その最大のものは、趙という敵対国の主力部隊四十五万人を全滅させた紀元前二六〇年の「長平の戦い」だった。戦闘中に命を落としたのはわずか?五万人に過ぎなかった。残り四十万人は、すべて秦に降伏してから穴埋めにして殺されてしまった(長平降卒坑殺事件)。昭王から始皇帝まで、天下統一にかかった四十数年間で、百三十数万人の敵兵が殺された。当時の中国総人口の五%である。
 その他、焚書坑儒で有名なように、四六〇名の儒学者が穴埋めにされた。長平降卒坑殺事件や焚書坑儒という漢字でお気づきのように、中国で「坑」という字は特別な意味を持っている。穴埋めにするという立派な動詞として使われている。この穴埋めは、始皇帝の専売特許ではない。中国の歴代王朝が引き継いだ残酷極まりない伝統である。中国では至る所で、この「坑」の跡が見つかる。
 ともあれ、こうした中国における虐殺のスケールに比べると、信長のやったことはとても虐殺とは呼べない、と石 平氏は記す。
 余談だが、中国の人々は、自分たちの世界で当たり前だった残酷な「坑」を、十五年戦争当時の日本帝国陸軍がやらないはずがないと考える。日本人は鬼の子なのである。残酷に違いない。それならば、歴代王朝暴君がやった残酷な「坑」を、日本軍も絶対に行なったはずである、と。
 新たな「坑」の跡が見つかると、よく調べもせずに日本軍によるものだと断定する。良心的な日本人旅行者ほど、中国人ガイドに「坑」の跡地に連れて行かれ、その静かだが力のこもった説明に、深く頭を垂れて反省する。また、南京では、日本軍により三十万人くらいの中国人が虐殺されていてくれなければ、日本軍の残虐さを宣伝できないのである。
6)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。




(2242文字)






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v )歴史の逆説( II )政教分離の確立

政教分離の確立 2009.7.12


by OWL




政教分離の確立

 信長の歴史的役割について思いを巡らせている。政教分離についてである。


 日本では、当初キリスト教信仰が広く受け入れられ始めていた。信者が爆発的に増えていった。しかし、豊臣秀吉によってバテレン追放令(脚注7)が出され、徳川家康が禁教令によってキリスト教を実質的に禁止した(脚注8)。


 当時、スペイン、ポルトガルは、ローマカトリック教会を後ろ盾に世界分割を行っている最中だった。東経一三五度によって、日本は真っ二つに分けられてしまっていた。両国による植民地獲得競争の最前線だった(脚注9)。


 すぐには実現が不可能であったものの、両国はまず根拠地を相手国の中に作り、何年もかけてその根拠地を強固なものした。地盤を徐々に拡げ、さまざまなことを口実に利権を増やしたり戦ったりして、やがて相手国を植民地にしていった。


 イエズス会(脚注10)、フランシスコ会(脚注11)などの宣教団体は、言ってみれば両国の先兵隊だった。日本の指導者である徳川家康からすると、日本の独立と安全を守るために、キリスト教を禁じた。


 もし、ヨーロッパが政教分離を先に完成していたならば、日本の歴史はどうなっていただろう?イエズス会などの宣教団体が布教する時に、相手国を母国の植民地にするような行為に加担しなかったなら、物事はどのように進んだだろう?


 そういった歴史を積み上げていったならば、キリスト教は決して警戒されなかったに違いない。日本での信者も増え続けていったかもしれない。もっとも、宣教師たちが母国の直接サポートなしに活動できたかというと、とうてい無理な話だったであろう。


 秀吉や家康は、無垢なキリスト教徒を迫害して殺した。野蛮な指導者である。現代に生きる我々にとってはその通りだ。日本の政治的指導者は、信教の自由を認めず、無抵抗なキリシタンを迫害した。冷酷で無慈悲だった。


 しかし、これは一方的な立場からの意見かもしれない。信教の自由とは、現代先進国の間でようやく確立された人権にすぎない。非常に新しい尺度で物事を言おうとしている。


 別の見方もある。迫害の犠牲となった殉教者らは、確かに武器も持たない無抵抗なキリシタンだった。だが、彼らのバックには、国家と結びついた戦闘的な当時のキリスト教があった。


 日本での宣教の道が閉ざされた一つの理由は、キリスト教と国家が結びついていたヨーロッパ諸国の負の側面があったからである。あわれな殉教者は、政教分離を完成させていない、戦闘的なキリスト教国家および戦闘的なキリスト教会の犠牲者だったと言えるかもしれない。


 戦闘的なキリスト教国家とそれに対抗して独立を守ろうとする非キリスト教国家(日本)の鬩(せめ)ぎあいは、確かに日本に存在した。決して、迫害者の無慈悲な行為を弁護するわけではないが、日本の殉教者は、その冷酷な軋轢(あつれき)による犠牲者と言えよう。


 信長が心理的な政教分離を実現して三〇〇年近く経った頃のことを考えよう。鎖国が解かれ、キリスト教が再び伝えられた時、伝える側の欧米諸国は政教分離を完成させていたか?近代化が遅れた地域を武力で植民地化する帝国主義的発想を、欧米諸国は捨てていたか?


 否である。政教分離は道半ばだった。アジア諸国および日本に対して牙をむき、国家の欲望のまま、次々と植民地化していった。日本は、帝国主義的な欧米諸国と対決せざるをえなかった。当時の日本は、戦闘的な欧米諸国と真っ先に対決した、数少ない国だった。


 織田信長は政教分離を実現した。比叡山延暦寺や本願寺派を殲滅したあと、人々が天台宗や一向宗の信仰を持つこと自体を、信長は禁じたか?「総赦免」「往来自由」として、信教の自由を保障した。前稿に書いた通りである(脚注2)。


 信長の政教分離政策に逆らわない限り、キリスト教徒もその信教の自由を保障されたに違いない。もしも信長が本能寺で非業の死を遂げなかったとしたら、歴史はどのように展開したことだろう。


 だが、信長の後継者たちは、キリスト教を禁ずる方向へ舵を切った。せっかく信長が立てた政教分離の原則には従わず、信仰の自由を制限し、信仰者を弾圧、迫害した。


 彼らは、キリスト教とは全く独立した形の国家を形成する道を選んだ。日本の独立を守るためにとった禁教令と鎖国政策は、日本独自の文化文明を発展させる方向へ大きく動かした。


 ともあれ、塩野七生氏は、信長の偉業について次のように述べる(脚注6)。


「欧米諸国が現在にいたるまで、この問題(引用者による脚注12)で悩み苦しまされてきた実情を知れば、われわれのもつ幸運の大きさに、日本人がまず驚嘆するであろう」「おたがいに守備範囲を守って生きるぐらい、相手の存在理由の尊重につながるものはない」と。


 信長により政教分離の原則が打ち立てられたあと、好むと好まざるとに関わらず、現実の歴史は動いてしまった。そして、鎖国により文明どうしの対決はとりあえず避けられることになった。三〇〇年後に先送りされただけではあったが。


 文明どうしの対決が先送りされず、織田信長が相対することになったとしたら?ふと、そんなことを考える。文明の対決にあたって、信長ならどのような舵取りをしたであろう。


(了)




脚注


2)http://web.me.com/pekpekpek/さてどうしましょう:日本と世界の歴史散策/Blog/エントリー/2009/7/12_xiii)ピースメーカーのあるべき姿(4)—— 残酷な平和、歴史の逆説 ——.html
6)塩野七生「男の肖像」春秋文庫、1992年、文藝春秋。
7)http://ja.wikipedia.org/wiki/バテレン追放令
8)禁教令:http://home.att.ne.jp/wood/aztak/kinkyourei.html
9)http://ja.wikipedia.org/wiki/トルデシリャス条約:スペインとポルトガルは地球上に勝手な子午線を引いて地球をちょうど二つに丸まる分割した。ブラジルからインドネシア・フィリピン・日本の東経135度までの東半球をポルトガルの取り分、南北アメリカ大陸の大部分から日本の東経135度までを含む西半球をスペインの取り分とした。その取り決めを「トルデシリャス条約:1494年」「サラゴサ条約:1529年」と呼ぶ。特に、トルデシリャス条約の締結には、スペイン出身のローマ教皇アレクサンデル6世が深く関与している。キリスト教会が、世界を分割してスペインとポルトガル二国のものとすることを決定したのである。オランダ、フランス、イギリスなどは、事実上世界分割競争から締め出しを食った。フランスは、スペインに次ぐ、ローマカトリック教会の後ろ盾になろうと図り、世界分割競争に参戦しようとした。オランダ、イギリスがプロテスタント側を選んだ理由は、ローマカトリックの支配権から逃れて、世界分割競争に堂々と参加する為である。
10)http://ja.wikipedia.org/wiki/イエズス会
11)http://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ会
12)政教分離が実現していないこと。




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