千字でたどる日本の教会史 近世三百年編 初めての迫害から高札撤去まで
OWL のひとりごと
第三十七回 十字架の二十六人
37)十字架の二十六人 2012.11.26
長崎西坂の公園
<一五九七年二月五日のできごと>
一行は肥前彼杵(そのぎ)の港から大村湾を船で越え、対岸の時津(とぎつ)に着いた。船中で夜を明かし、一五九七年二月五日午前六時頃、最後の行程十二kmに踏み出す。浦上にある癩病院で休息するまでは急がされた。その時、イエズス会の二人は誓願を立て、晴れて修道士となった。五島からジョアン草庵の父が来て「元気でゆけよ。神さまへの忠節のために死ぬのだから、喜んでお前の死を見とどけよう」と励ました。
刑場はもともと普通の罪人を処刑する所で、既に穴が掘ってあった。だがポルトガル人たちは考えた。ここはいけない。殉教地にはゆくゆく教会が立ち巡礼地ともなるだろう。もっとふさわしい場所を、と。そして小高い小さな岬を選んで変更を願い出た。それは聞き届けられ、二十六本の十字架が移された。こうして一行は、浦上から今の西坂公園にあたる場所に到着した。
群衆四千人が集まった。アントニオの両親は棄教を促したが、彼は「キリスト様がくださったのは永遠の宝です。お嘆きなさいますな」と答えた。二十六人は自分の十字架に走り寄りそれを抱いた。それを見た人々はどよめき、悲しみの声が遠くまでこだました。マルチノ、ゴンザロ・ガルシア、アントニオとルドビコの両少年は賛美歌を詠った。バウチスタは説教をした。パウロ三木も「いま最後の時にあたって…キリシタンの道の他に救いの道がないことを私はここに断言し、保証します。私はいま、キリシタン宗門の教えるところに従って太閤さまをはじめ、私の処刑に関係した人々を許します。私はこの人々に少しも恨みをいだいていません。ただせつに希(ねが)うのは太閤さまをはじめ、日本人全部が一日も早くキリシタンになられることであります」と語った。
四人の刑吏が二人ずつ一組になり東西の両端に向かった。槍の鞘がはらわれた時、殉教者たちも群衆も「ゼズス、マリア」と叫んだ。刑吏は殉教者一人ずつの両脇を交差させるように刺し、絶命させていった。アントニオとルドビコの澄んだ歌声も途絶えた。高札には「ここに改めてキリシタンの法を禁制す。諸人とくと心すべし。違(たが)う者あらば一族郎党悉(ことごと)く死罪たるべき事」と記されていた。二十六人の果敢(はか)ない肉体の命は散った。彼らは、誰も奪うことができず永遠に亡びない魂の命を生かすために、喜んで苦難と死に赴いた。この世界観と価値観を証明した日本初の殉教者だった。人々は殉教者たちの精神に打たれた。暴君の意図とは逆に教えが広まる結果になった。
1)長崎まであと一日の時津(とぎつ)という港で、殉教者たちに追いついた人々がいた。サン・フェリペ号の船長と乗組員数名、難を逃れたフランシスコ会士の修道士二人だった。みな彼ら二十六人の命を身代金で救いたかった。必要なら自分たちも一緒に死ぬ覚悟を決めていた。しかし、助命運動は全く見込みがなくガッカリすることになる。
2)この時磔刑に処せられた二十六名は、向かって右(東)から左(西)の順に、次の通り並んでいた。最初の地名は出身地、西:スペイン人、葡:ポルトガル人、墨:メキシコ人、日:日本人、数字は年齢、I:イエズス会、F:フランシスコ会、最後は捕縛地。
1 フランシスコ、伊勢、年齢不詳、大工。長崎への道中。
2 コスメたけや、尾張、年齢不詳、刀剣師、説教師。大坂。
3 ベドロ助じ郎、京都、年齢不詳。長崎への道中。
4 ミゲル小崎、伊勢、年齢不詳、弓矢師。京都で捕縛。
5 ディエゴき斎、備前、64、伝道士、I修道士。大坂。
6 パウロ三木、阿波、33、説教師、I修道士。大坂。
7 パウロ茨木、尾張、年齢不詳、レオ烏丸の兄、樽職人?。京都。
8 ジョアンそう庵、五島、19、伝道士、I修道士。大坂。
9 ルドビコ茨城、尾張、12、同宿。京都。
10 アントニオ、長崎、13、同宿。京都。
11 ベドロ・バウチスタ、西、48、F司祭。京都。
12 マルチノ、西、30、F司祭。大坂。
13 フェリペ・デ・ヘスス、墨、24、F修道士。京都。
14 ゴンザロ・ガルシア、葡、40、F修道士。京都。
15 フランシスコ・ブランコ、西、30、F修道士。京都。
16 フランシスコ・デ・サン・ミゲル、西、53、F修道士。京都。
17 マチヤス、日、生地年齢不詳。京都。
18 レオ烏丸、尾張、50。京都。
19 ボナウェンツラ、京都、僧侶出身、同宿。大坂。
20 トマス小崎、ミゲル小崎の子、14、同宿。京都。
21 ヨアキム榊原、40前後。大坂。
22 薬師(くすし)のフランシスコ、京都、48、医師。京都。
23 談義者トマス、伊勢、36、説教師。京都。
24 絹屋のジョアン、京都、28。京都。
25 ガブリエル、19、同宿。京都。
26 パウロ鈴木、尾張、49、説教者。京都。
5)同宿:仏教の世界で、師の僧と同じ寺に住み、師事して修行すること、またはその僧のこと。当時のキリシタンの世界でも、修練院や教会などに住み込みで修行する若者のことを指した。
3)十字架にはそれぞれ五つの鉄枷がついていて、首と両手、両足が固定された。さらに腰を縄で縛ってから、あらかじめ掘っておいた穴に十字架は立てられたという。
4)パシオ師とロドリゲス師が十字架のそばで立ち会った。
5)高札には「この者共はルソンの使節と称し、我が国に来たって京に留まり、過ぎし年厳禁せるキリシタンの法を広めたり。因りてその法を奉ずる日本人と共に死罪に処す。故に二十四名は長崎に於て磔にするものなり。ここに改めてキリシタンの法を禁制す。諸人とくと心すべし。違う者あらば一族郎党悉く死罪たるべき事」とあった。
第三十六回 長崎西坂への道
36)長崎西坂への道 2012.10.10
二十六聖人発祥の地銘板(京都四条病院救急入口)
<一五九六〜一五九七年のできごと>
宣教師とキリシタン全員を処刑せよ。一五九六年十一月、秀吉は奉行石田三成に命じた。三成はフランシスコ会に絞るよう秀吉を説得。その甲斐あってイエズス会関係者は除外された。ただ大坂にいたパウロ三木、ディエゴ喜斎(きさい)、ジョアン五島の三人は救えなかった。フランシスコ会ではバウチスタ師ら京都の五人、大坂のマルティーノ師が捕まった。代官は個別調査をしてフランシスコ会かどうか聞いてまわらせたという。信徒たちは意気揚々とキリシタンだと答え押印。三成は百七十人の名簿から削りに削って、教会、病院、住院専住の十余人とした。十五歳のトマス、十二歳のルドビコ茨木、十三歳のアントニオも捕まった。
翌年一月三日、二十四人は京都一条戻橋(もどりばし)で左耳を削がれた。次いで京都、伏見、大坂、堺の市中を引き回された。人々は罵声を浴びせ、あざ笑い、ツバを吐きかけ、石を投げた。しかし殉教者らは喜びに溢れていた。「嘲り、罵られることをこれほど喜ぶ人があろうとは、一体どうしたことなのだ」と驚く人もいた。パウロ三木は牢で説教し囚人たちや番人までも涙した。八日に死罪を宣告された彼らは長崎までの八〇〇kmを曵かれてゆく。彼らを慕って同行した慈善家ベトロ助四郎と大工フランシスコも捕縛され、一行は二十六人となった。武士は何故か一人もいない。
その行程のほとんどは陸路だった。雪や霜を踏み、着たきりの衣類で寒さもこたえた。耳の傷が痛み、足は腫れた。彼らの両手は縛られていたものの口と心は自由だった。歩きながら説教を続け、賛美を歌い、感謝と祈りを捧げた。駕篭や馬が用意されても多くの者が徒歩を選んだ。山陽道三原城下でトマス小崎は母マルタに手紙を書いた「私のことも父上のこともご心配下さいませんように。ぱらいぞで母上とすぐにお会いできるものと期待しています…この世ははかないものでありますから、ぱらいぞのまったき幸を失わないよう努力されますよう」と。
刑執行の担当は唐津城主寺沢広高の弟ハツサブロだった。彼は十二歳のルドビコだけは助けたいと説得した。だが少年はキリシタンを捨てることが条件だと聞くと「それほどまでして生命を助かろうとは思いませぬ。たちまち滅びる短い肉体の生命と永遠の霊魂の生命とを取りかえられるわけがございませぬ」と答えた。彼らは名もなく、身分も高くなく、一般の信徒にすぎず、しかも幼かった。しかし偉大な信仰を天から受け取り、誰よりも高貴で強かった。
1)奉行石田三成に命じた:役人の一人はバカ正直に、イエズス会も含め、神父、信者、支援者の全リストを作り始めた。その中に高山右近、秀吉のお気に入り通辞ロドリゲス、オルガンティーノらも含まれていた。誰もが死ぬ覚悟をした。小西の妻子も細川ガラシアも。右近は今こそ殉教者になれると語り、オルガンティーノは千回死んでも良いと言った。通辞ロドリゲスはジョアン・ロドリゲス神父のこと。イエズス会には同姓同名のジョアン・ロドリゲス神父が二人いた。日本で育ち通訳として活躍した方は、ロドリゲス・ツーズ、つまり通辞(=通訳)ロドリゲスと呼ばれ区別されていた。
2)大坂にいたパウロ三木、ディエゴ喜斎(きさい)、ジョアン五島(草庵=そうあん)の三人は救えなかった:彼らは大坂在住が許されていなかった。イエズス会の三人を救おうと思えば、滞在が許されていたのはロドリゲス・ツーズだけだったのに、何故この三人も大坂にいたのかと糾弾されることになるという実情があった。また、彼らは匿(かくま)っていたフランシスコ会神父二人の身代わりを申し出たのだった。その二人とは、ペドロ・モレホン、フランシスコ・ペレスだった。
3)フランシスコ会ではバウチスタ師ら京都の五人、大坂のマルティーノ師が捕まった:当時来日していたフランシスコ会士は全部で十一人だった。六人をのぞく残りの五人は難を免れ、事件後に多くの証言を残すことになる。
4)ルドビコ茨木:十二歳のルドビコは三成のリストにはなかった。しかし自ら頼み込み一緒に捕縛されたという。
5)左耳を削がれた:秀吉は両耳と鼻を削ぐよう命じたが、三成は片方の耳朶を切り落とすことで済ませた。
6)殉教者らは喜びに溢れていた:バウチスタは「私たちはよろこびに充たされています」と書き、雄弁な説教者のパウロ三木は「よろこびの涙で主に感謝した」と語った。
7)パウロ三木は牢で説教し囚人たちや番人までも涙した:キリシタンではない囚人や番人までも涙した。
8)その行程のほとんどは陸路だった:備前の護送役人は熱心なキリシタン明石掃部(あかしかもん)だった。一行は好意を受けて手紙を書くことが許された。しかし隣の小早川秀秋領内では厳しく扱われた。多くの者が徒歩を選んだ。特に三人の少年たちの顔は天使のように美しく沿道の人々の心を引きつけていたとされる。
9)山陽道三原城下で:小早川秀秋領内の三原城下に一行が滞在した際に、父ミゲル小崎と共に一行の中にいた十五歳のトマス小崎は役人の目を盗み、この手紙を母親に書いた。
10)ぱらいぞ:ポルトガル語で天国のこと。
11)唐津城主寺沢広高の弟ハツサブロ:フロイス「長崎の二十六キリシタン殉教報告」にはFasambro、アビラ・ヒロンの「日本王国記」にFuamcanbroとある。半三郎の文字をあてる人もいる。
第三十五回 サン・フェリペ号事件
35)サン・フェリペ号事件 2012.10.2
スペインのガレオン船(デューラー画)
<一五九六〜一五九七年のできごと>
一五九六年、日本は天変地異に見舞われた。浅間山噴火で京都にも火山灰が降る。M7クラスの大地震が三度あり、死者多数を出し建物は崩壊する。その後長引く余震と台風で民は悩んでいた。他方、スペインの大型船サン・フェリペ号が台風に遭い、土佐、浦戸の浜に漂着した。領主長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、奉行の一人増田右衛門尉長盛(ましたうえもんのじょうながもり)に相談。増田から秀吉に南蛮船漂着の報告がなされた。それは明からの使節との交渉が決裂し、秀吉が異常な興奮状態になって朝鮮再出兵を宣言したちょうど翌日あたりのことだった。
漂着船の積荷は持ち主に返す規定となっていた。秀吉もそれを承知していたが増田に没収を下命。その経緯については松田毅一氏が詳細な検討を加え、朝鮮再出兵と同様、興奮に駆られるまま決定したと推定している。船長以外の乗組員数人が陳情のため大坂に到着。その中にフランシスコ会神父もいた。一人は不運にも二十六人のうちに入ることになる。彼らは見当違いのバウチスタに相談。積荷没収は決まっており、増田には取り合ってもらえなかった。
宣教師は難破してやむを得ず上陸した。船は彼らを運ぶために来たわけではなかった。しかし、秀吉は布教船だとレッテルを貼った。マニラ総督宛書簡には次のように記した。フィリピンから来たフランシスコ会士らが禁じられている布教を続けた。そういう違法があったので積荷は返却するつもりだったが没収した。まず宣教師を送り込んで信者を増やし、旧主を退け日本を征服するつもりだろう、と。一五九六年十二月八日、京都のフランシスコ会修院は包囲され、翌年一月三日、フランシスコ会員ら殉教者が京都で耳そぎの刑を受け、二月五日、長崎西坂の丘で二十六人が十字架につけられた。
犠牲者を多く出したフランシスコ会としては、ポルトガル人やイエズス会側の讒言(ざんげん)があり、そのため秀吉は黙認から迫害へと態度を豹変させたと主張した。会員の一部が巻き添えをくったイエズス会からすると、バウチスタらが警告を無視し公然と布教を続けたことが問題だった。海老沢有道氏は次のように記す。日本の政治、宗教事情を知らずに強行したフランシスコ会側の布教と、背後にからむ世界帝国と日本の覇権抗争、これが殉教の原因である。サン・フェリペ号事件は、西欧帝国がキリシタン伴天連を手先にわが国を侵略するという観念を民衆に植えつけた。また「禁制」に格好の口実を与え、鎖国の遠因となったほどの重大事件だった。
1)増田には取り合ってもらえなかった:そのためバウチスタは太閤に抗議文を送った。秀吉の一顰一笑(いっぴんいっしょう)に日本中が影響を受けていた状況にあって、バウチスタの行動は正気の沙汰とは思えないほどのものだった。
2)難破船の積荷に海図、世界地図が含まれていた。次のような記録がある。増田は船長に向かって言った。彼とその部下は海賊で日本征服に来たのだろう。メキシコ、ペルー、フィリピンでやったように、この日本を征服するためにフランシスコ会の宣教師を派遣したのだろう、と。増田は船の中のある箱をあけたときに、そこに一枚の海図(世界地図)を発見した。…航海士フランシスコ・デ・ランダに説明させた。
デ・ランダが説明した世界地図はその写しが高知県中央図書館にあり、松田毅一氏により特定された。
3)日本の政治、宗教事情を知らずに強行したフランシスコ会側の布教と、背後にからむ世界帝国と日本の覇権抗争:若桑みどり氏は次のように解説する。この事件を記述する歴史家がどの宗派に属しているか、スペイン贔屓か、ポルトガル贔屓かということによっても、あるいはキリスト教徒か、そうでないかということによってもその記述は左右されやすい。それでアルヴァレス・タラドリス師は「これはまさしく歴史家の試金石であり歴史家を分類する事件である」と述べている、と。
4)西欧帝国がキリシタン伴天連を手先にわが国を侵略するという観念:同様に若桑みどり氏の解説がある。秀吉側にとっても民衆が聞いたら愛国心を刺激される上に、宣教師やキリシタンを売国奴、スパイとみさせるにはすばらしい宣伝になった。大いにこういう話を巷間に広めただろう、と。
第三十四回 フランシスコ会士バウチスタ
34)フランシスコ会士バウチスタ 2012.9.21
バウチスタ師像
<一五九三〜一五九七年、日本滞在>
原田喜右衛門(きえもん)というぺてん師がいた。スペイン領フィリピンの軍備が貧弱だと秀吉に告げた。今なら隷属させられると約束した。秀吉は傲慢で脅迫的な国書を送付。フィリピンは日本の侵攻を恐れた。ドミニコ会コボ師を派遣。秀吉と謁見する。原田はマニラ総督の親書を都合良く通訳。秀吉を満足させた。帰りの船が難破。コボが死亡。フランシスコ会バウチスタ師が選ばれる。会士数人との渡日が決まった。イエズス会はマニラ総督に抗議した。日本の布教はイエズス会に限るという方針に反する。キリスト教禁止である。それを承知で神父が大勢行けば迫害が激化する、と。困っているイエズス会を救いに行く。これがフランシスコ会の言い分だった。
一五九三年、バウチスタが日本に渡る。名護屋(なごや)で秀吉に謁見。総督の返事が来るまで滞在許可を得る。バウチスタは京都に立派な教会を建てた。説教やミサをはじめた。禁教令にはおかまいなしだった。信者は増えた。病院ができた。大坂にも修院が建った。活動は公然となった。病気療養と偽り長崎にも行った。教会を使い始めた。宗教担当奉行の前田玄以(げんい)は、フランシスコ会が長崎でも布教し始めたと知る。やめないなら全員が磔になると威嚇した。オルガンティーノも人を遣わして忠告。古くからのキリシタンも心配した。しかし神父は全く怖れなかった。
スペイン国王からの使節や贈り物が来ない。秀吉は疑い始めた。マニラの使節に騙されたのでは、と。原田は自分の嘘がばれないか狼狽(うろた)えた。神父らが「生きてであれ死んでであれ」一日も早く、日本から出て行って欲しいと考えた。そこで秀吉に告発した。バウチスタが公然と布教している、と。またバウチスタとの接見では、最初秀吉は馬を何頭か迎えによこした。だが彼らは敢えてぬかるみ道を徒歩で行ったという。これは王侯に謁見する使節の振舞いではない。相手を傷つける態度だ。挑発ともいえる。
彼は十五年の宣教師歴を持っていた。だがそれはメキシコやフィリピンでの経験だった。日本では教養ある大名、高度に組織化された宗教の影響下にあった民衆を相手にする必要があった。でも彼はまったく頓着しなかった。バウチスタは暴君秀吉にやがて殺される。有名な二十六人の殉教者の一人になった。彼の勇気により宣教師がたくさん来日。フランシスコ会、ドミニコ会など。宣教地域が拡大。信者も増えた。彼の情熱は宣教の働きを進めたか。それとも門戸が閉じるのを早めたか。
1)ドミニコ会:一二〇六年にカスティーリャ人ドミニクス・デ・グスマンにより設立され、十年後に認可されたカトリックの修道会。トマス・アクィナスやバルトロメ・デ・ラス・カサスなど神学研究者を輩出。日本ではドミニコ会の組織したロサリオの信心会の信仰が、隠れキリシタンの間に受け継がれる。
2)フランシスコ会:十三世紀、イタリア・アッシジのフランチェスコによって始められたカトリックの修道会。十六世紀には、イエズス会やドミニコ会と同様、南北アメリカ大陸、アジアでの宣教に積極的に携わった。バウチスタの殉教後、ルイス・ソテロが一六〇三年に来日。徳川家康や秀忠に謁見。東北地方で宣教。慶長遣欧使節の正使としてローマに派遣された。
3)名護屋:秀吉は唐入りのため、肥前(佐賀県)名護屋に城を築く。そこで軍団を指揮するとともに政務を執り行った。
4)前田玄以(げんい):五大老、五奉行が秀吉政権終焉期の政治体制だった。前田玄以は秀吉子飼いの家臣で、京都奉行であるとともに宗教政策全般を担当していた。
5)迫害が激化する:神父は全く怖れなかった:イエズス会側の警告が正しかったのか。バウチスタ師がとった態度、すなわち「人に従うより、神に従うべきです」(新約聖書使徒の働き5章29節)という聖書の命令に忠実であった姿が称賛されるべきなのか。
6)彼の勇気により:日本への宣教はイエズス会に限定されていた。実際、日本での宣教が他の修道会にも認められたのは、一六〇〇年、教皇クレメンス八世の決定の後だった。